第6話 この世界の救世主だよ(後)

 薄曇りの空の下、風が吹き荒れていた。誰かの叫ぶ声が聞こえたような気がして、膝を抱えていたクロミオはゆっくり瞼を開ける。柔らかい黒髪が鞭のごとく彼の額、頬を打っていた。こんな中では顔を上げているのさえ辛い。

 瞳を細めて、彼は見慣れてしまった水面を眺めた。座り込んだ湖の畔には誰もいない。たまに見かける薄紫の豹もいなかった。

「女神様、今日は来ないのかなあ」

 弱々しい声は、強い風にあっという間に飲み込まれる。ばたばたと音を立てる服の裾を、クロミオは手で押さえ込んだ。

 寒い。雪こそ積もっていないものの、冷え切った空気が容赦なく吹き付ける。凍えてしまいそうだった。だが帰る道を知らぬ彼は、ここに留まっているしかない。

 いつもならば、いつの間にか後ろにいた女神に目隠しをされて、ゆっくりと『眠り』につく。そして部屋で目を覚ます。それはクロミオがここから帰るための儀式のようなものだった。

 しかし今日は女神はいない。寂しくて泣きそうな時にやってきてくれる彼女は、いっこうに現れなかった。

「何かあったのかな?」

 またよくないことが起こっているのではないか。そう考えると、自ずとクロミオの体は震えた。女神が動くのは世界に異変が起きた時だ。クロミオはそうウルナから教えられていた。

 また誰かが消えてしまうのではないか? 彼は再び取り残されるのではないか? 本当に今度こそ、一人きりになるのではないか?

「嫌だよ、そんなの……」

 クロミオは強く膝を抱きかかえ、顔を埋めた。草の、衣服の、髪の悲鳴がうるさい。彼を急かすがごとく騒ぎ立てている。立ち上がれと、走り出せと、声を上げている。

 彼はきつく目を閉じた。一体どこへ行けと言うのか? 湖の周りはひたすら草原が広がるばかりで、何もない。彼の背丈では遠くを見渡すこともできない。それなのにどうして追い出そうというのか?

 クロミオは泣きたくなった。拒絶されていると思うと、胸の奥がぎゅっと痛くなる。息が苦しくなる。今までは女神がいたから許されていたのだろうか? 彼は唇を噛み締めた。

 その時、不意に何か暖かい空気を感じた。突き刺さる冷気ではなく、叩きつける風でもなく、春を思わせる暖気が突然背中へと覆い被さってきた。

 女神が来たのかと、はっと顔を上げてクロミオは振り返る。しかし誰もいない。ただ先ほどとは明らかに違う空気がここへと流れ込んできていた。強風はぴたりと止み、長い草はしなびたように頭を垂れている。

「女神様、じゃない?」

 呆然とクロミオは立ち上がった。今日はいつもと何かが違う。おかしい。彼は一歩、また一歩、草原に向かって進み始めた。早鐘のような鼓動が、ひたすら存在を主張している。渇いた唾が口の中で粘つく。意味もなく、力一杯声を張り上げたい衝動に駆られる。

 彼は瞳をすがめ、深呼吸した。短い夏を思わせる熱っぽい空気を吸い込むと、咳き込みたくなる。

「誰か、いるの?」

 問いかける声に答える者はいない。生き物すらいない。ここには生の気配がなかった。今までもそうであったはずなのに、それがにわかに空恐ろしいものに感じられる。

 意を決して、クロミオは地を蹴った。全力で走り出し、草原目掛けて突っ込む。いや、突っ込もうとした。その直前、地面に転がっていた石に躓き、彼は勢いよくその場に倒れ込んだ。肘を打ち付けたのか、手の先まで鋭い痺れが走る。彼はきつく目を瞑って唇を噛んだ。血の味が滲む。

「い……たっ」

 涙を堪えるのに必死だった。そのため、違和感を覚えたのはしばし経ってからのことだった。手のひらに感じるのがざらついた土ではないことに気がつき、クロミオは恐る恐る瞼を持ち上げる。

 考えてみると、草の匂いもしない。かすんだ彼の視界に映ったのは、硬い床だった。何度か瞬きをしてみても、それが消え去ることはない。

「あれ?」

 緩慢な動きでクロミオは体を起こす。右手を見るといつものベッド、左手には椅子が見える。彼が倒れていたのは見慣れた自室だった。首を傾げつつその場に座り込み、彼は周囲を見回した。薄暗くはあるが、ここは彼の部屋だ。湖畔ではない。

「寝ぼけてた……?」

 ベッドから落ちてしまったのか? 乱れたシーツを眺めながらクロミオはゆっくりと立ち上がる。そして異変に気がついた。隣の部屋へと繋がる扉から、灰色の煙が少しずつ漏れ出してきていた。眼を見開いた彼は、陰を帯びた白い戸を凝視する。

 おかしい。よく考えてみると、この暖かさは変だ。寒さを感じないどころか汗が滲み出ている。部屋に戻ってきた時は身を震わせるほどだったのに。

 一歩一歩床を踏みしめるようにして、クロミオは扉へと向かった。強く打つ鼓動が痛いくらいに高鳴っていたが、足は止まらなかった。

 彼は取っ手を握ると、それを勢いよく引く。途端、解放された濃い灰色の煙が怒濤のごとく彼を包み込んだ。熱い。臭う。咄嗟に目を閉じ手を掲げて、彼は咳き込んだ。パチパチと爆ぜる音、何かの燃え盛る音が鼓膜を震わせる。

 火だ。目を瞑ったままクロミオは現状を理解した。部屋が燃えている。どこに火の種があるかわからないが、彼がどうにかできる規模ではないことは明らかだった。とにかく煙がひどい。

 かろうじて外を確認できるくらいに瞼を開け、彼は固唾を呑んだ。瞳に焼き付きそうな紅い炎が、濃い煙の奥で見え隠れしている。

「何で? どうして?」

 喉の奥から、言葉にならない疑問が吐き出された。まさか自分は何かの火を消し忘れていたのではないかと、クロミオは記憶を掘り起こそうとする。

 しかし寝る前に何をしていたのか思い出せなかった。せいぜい朧気に覚えているのは、とにかく眠くて仕方なかったことくらいか。部屋へと帰ってきてすぐに、ベッドへと飛び込んだような気もする。

「僕……何かした? 何かやっちゃった? そうだ、お姉ちゃんはっ!?」

 声に出すとまた思い切り煙を吸い込んでしまい、咳が出る。頭がうまく働かない。

 ウルナは帰ってきていただろうか? 何もかもがわからずクロミオは戦慄した。まさかこの炎の中で倒れているのではないか? ちらりとでもそう考えてしまうと、足下から強烈な震えが立ち上ってくる。今度こそウルナがいなくなってしまう。消えてしまう。一人きりになってしまう。

 弾かれたように、クロミオは煙へと飛び込んだ。恐怖はなかった。焦げ付いた臭い、火の爆ぜる音に包まれて、あらゆる感覚がおかしくなる。

 それでも薄目で彼は辺りを見回した。ふらつきながら一歩を踏み出すと、何か硬い物を足が蹴り上げる。転がり落ちたコップだったのか、甲高い音が遠ざかっていった。

 さらに前へ進むと、髪がちりちりと焼けるような違和感を覚えた。慌てた彼は髪を手でかき回しながら、わけもわからずそこらをうろつき始める。

 何も、見えない。ただひたすら濃い灰色の中で、火の粉が瞬いているだけだ。火の手はどこなのだろうと探すこともできなかった。臭いも強くて鼻も麻痺する。

 段々と頭が重くなり、前後の感覚も怪しくなった。足もうまく動かない。よろめいたクロミオは、何かに躓き床へと倒れ込んだ。硝子の音だ。先ほどのコップだろうか?

 床に手をつき上体を起こして、彼はどうにか目を開ける。前方では、茶色の布が燃えていた。ウルナがよく羽織っているものだ。

「お姉……ちゃん?」

 声を出したためにまた煙を吸い込んでしまい、クロミオはむせた。頭の芯がますます重くなり、動悸が強くなる。

 ウルナはどこかで倒れているのか? いや、以前も火事の中、彼女は彼を助けたと聞く。何もせずに倒れているわけがない。助けを呼びに行っているか、もしくは彼を捜しているのか、どちらかだ。

 そこまで考えたところで、クロミオは即座に立ち上がった。熱いとは感じない。ただ、痛い。いつの間にか黒くなっている手で額をこすり、クロミオはふらふら歩き出した。

 こんな所にいてはいけないと叫ぶ心の声に従い、外へと向かう扉を目指す。方向もよくわからないため、勘だった。それでも間違った方へは進んでいないという妙な確信がある。

 立ち込める煙の向こうに、大きめな戸が見える。顔をほころばせて、クロミオは力無く走り寄った。そして慣れた感触の取っ手を握り、力を入れて開ける。

 煙と共に押し出されるように、彼はそのまま外へと転がり出た。頭、体、手足に雪が纏わり付く。扉の周りの雪だけがうっすらと溶けていた。そのせいで水気を吸い込んだ服が重たくなる。

「ううっ」

 腕で上体を支えてクロミオは顔を上げた。ほとんど日は沈んでしまったために、世界は紫から藍へと染め上げられている。

 しばらく彼はそこで咳き込んだ。新鮮な空気を求めて深呼吸を繰り返し、滲んだ涙を手の甲でこする。頭がぐらぐらする。手足も重い。それでも教会の中から吐き出されている黒い煙から逃れるために、彼はゆっくり雪の上を這った。ともすれば柔らかい新雪に何度か埋もれそうになる。なんとなしに昔のことを思い出した。

 ある程度建物から離れたところで、クロミオはよろよろと立ち上がった。そして歪んだ視界を元に戻そうと、瞬きを繰り返す。

 やおら教会の方を振り仰ぐと、奥の棟の半分ほどが燃えているように見えた。窓の向こうは黒々とした世界で、その中で時折赤い炎が見え隠れしている。

 よく観察してみると、一番燃え盛っているのは彼の部屋の隣のようだった。いつも皆が集まっていた所だ。談笑していた場所だ。やはり自分が何かしでかしていたのではないかと、彼は青ざめる。

「あ、あ、あ……」

 頭に浮かんだ言葉が声になって出てこない。ウルナは、ルネテーラは、ラディアスは、ゼイツはどこにいるのだろう? 火の手から逃げ切れているのか? まさか燃えている建物の中、クロミオを探し回っているのではないか?

 考えるとぞっとした。皆がいなくなってしまうことを思うと全身がわななく。しかしもう一度教会の中へ入り込むのは無謀に思えた。少なくとも奥の棟は無理だ。

「そ、そうだ、叔母さん! カーパル叔母さんに知らせようっ!」

 ならば奥の棟には入らず、別の棟に行くしかない。この炎に気がついていないかもしれない人たちに助けを求めるのだ。ウルナたちを救ってもらうために。

 拳を握り決意を固めて、クロミオは走り出した。体がふらついて雪を踏みしめている感覚も鈍いが、北の棟への行き方は忘れていない。すぐ傍の茂みへ彼は向かった。コートも手袋も帽子もないのに、不思議と寒さを感じない。

「嫌だよ、もう、嫌なんだっ。誰かがいなくなるのは嫌なんだ―!」

 こぼれそうになる涙を、クロミオは再び甲で拭った。頭が脈打つように痛むのも、今は意に介さなかった。

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