第7話 奇跡だけでは駄目なんです

 悲しみに世界が震わされた時、森は蠢いた。土が悲鳴を上げ、風は嘆き、空がわずかに歪んだ。山は崩れた。消えたはずの川が叫んだ。全てが『変化』に驚き、そして戦いていた。

 ただ光だけが、それまでと変わることなく地上を明るく照らしていた。無慈悲に、ひたすらに、揺らされた世界へと光は降り注ぐ。それだけが過去から未来へと、悠然たる面持ちで横たわっていた。『変化』に喫驚する流れの中から、取り残されていた。

 悲しみに呼応するように、突如として過去からの使者が現れた。消えていたはずのものたちが今へと食らいつかんばかりに、ことわりを無視して姿を見せる。存在を主張する。忘れるなと声を上げる。

 人々は恐れた。そして期待し、戦慄した。逃げる場のない世界に絶望する者もいたし、救われることを望み祈る者もいた。皆が変容に怯えながらも、求めていた。失うことには慣れていたのだ。ただ心の奥底では、ずっと選択の余地のない助けを待っている。

 女神が泣いていると、誰かが言った。そうだと答える声があった。混乱の渦中で、反論する者はいなかった。皆が理由を探していたのだ。そして彼らは、答えへと行き着いた。これは女神の悲しみが呼応しているのだと。ただ静かにその時まで見守っているはずの女神が、哀れんでいるのだと。

 何かが確かに変わった日。それを彼らは奇跡と呼ぶようになった。




 丸く膨らんだ天井から降り注ぐ光が、カーパルを照らしていた。彼女は人気のない聖堂に一人たたずみ、暖かで甘い香りを吸い込む。長年の匂いは壁にも土にも天井にも染み込み、もはや部屋そのものが香りを放っていると言っても過言ではない。

 カーパルは瞳を細めると、左右で咲き誇る花々へと視線を向けた。樺色の長い上衣がたおやかに揺れる。唇は自然と、何度も繰り返していた言葉を紡ぎ出した。

「ウィスタリア様」

 聖堂に入ると、誰もが目眩を覚えるという。この狂おしい香りと神々しい花々と目映い世界に、意識を手放しそうになる。別世界へと心を飛ばしそうになる。

 ここはおそらく、本来人間がいてはいけない場なのだ。カーパルは一度瞳を閉じてから、そっと目の前に立つ象を見上げた。

「どうかお許しください」

 小さな声は聖堂に響くことなく、花びらに吸い込まれていく。幾度の争いをくぐり抜けてきた女神の像は、無論、何も答えはしなかった。陽光の下、静かに時が流れるのを見守っているだけだ。何が起きても、誰が死んでも、消えても、ただそこに在り続けている。元の形を失っても、縋ろうとする者たちをじっと眺めている。

「カーパル様!」

 その時突然、扉が開く音がした。聖堂の中に空気の流れが生じ、紫の花弁が揺らされる。カーパルはやおら肩越しに振り返った。戸に手を添えて棒立ちしているのはジンデだ。乱れた灰色の髪を軽く手で整えて、彼はその場で一礼する。

「ジンデ、どうかしましたか?」

 半身を向けた状態でカーパルが尋ねると、顔を上げたジンデは細い通路を歩き始めた。足取りが覚束ないのは目眩を覚えているためだろう。本来ならもう一呼吸置かなければならないのに、よほど慌てているのか。

 カーパルの傍へとやってきたジンデは、背後を確かめてから瞳を伏せた。

「カーパル様、本当にナイダートに協力するつもりなんですか?」

 誰かに会う度に聞かされた問いかけだ。カーパルは軽く眉をひそめると、首を縦に振った。ジンデの顔が一瞬だけ曇る。しかしカーパルは取り繕うこともしなかった。

「皆で決めたことでしょう」

 返す言葉も同じ。ただ、事実をカーパルは告げる。しかしジンデは、それだけでは引き下がらなかった。顔を歪めそうになるのをどうにか堪えて、肩を震わせている。

 カーパルは両目を細めた。羽織った上着の襟元を手で合わせると、床につきそうなくらい長い裾が乾いた音を立てる。ジンデの唇が躊躇いがちに動くのを、カーパルは横目で眺めた。

「皆でって……カーパル様がそう仰るのであれば、反対できる者などここにはおりません」

「私にそのような力はないですよ」

「ご冗談を! カーパル様の奇跡を知っている人間であれば、誰もが――」

「私はもう、奇跡は起こせません」

 言葉を選びながらも非難してくるジンデへと、カーパルはそう言い捨てた。続きを口にすることができなかったジンデは、眼を見開いたまま喉を鳴らす。その黒い瞳が揺れる。カーパルはおもむろに彼へ背を向けると、再び女神の像を見上げた。

「カーパル様……」

「奇跡は一度きりだからこそ奇跡なのです。私にはもう無理なのです。わかっているでしょう? 若い人間でなければ駄目なんです。私にはもう、そのような力はない。奇跡を望むのは止めてください。私たちは、それを力にしなければならない」

 歪ながらもどこか優雅に見える像の輪郭を、カーパルはゆっくり目で追う。この時間帯はちょうど陽光が女神像にも降り注ぎ、聖堂の主であることを主張していた。

 もっとも、ここに初めて入った者であれば誰もが花しか記憶しないことであろう。今はもう聖堂にしか咲かないこの花を、古語ではウィスタリアと呼ぶ。

 女神につけられた名と同じだ。女神の力はこの花と同様に神々しい紫の光を纏っていたと、書物に記されている。本来の女神の名は、もうどこにも残されていない。存在だけが刻まれているのみだ。

「奇跡だけでは駄目なんです」

 語気の強いカーパルの言葉が、聖堂で反響する。ジンデはそれ以上何も言わなかった。ただし立ち去ることもしなかった。沈黙の中、濃厚な甘い香りが二人の間を満たしている。しばらくしてから、カーパルはおもむろにジンデの方へ向き直ると、緩やかに首を横に振った。

「ここに長居はいけません。そろそろ行きましょう」

 カーパルはジンデの横を擦り抜けると、扉に向かって歩き出した。ジンデはため息にも満たない吐息をこぼして、彼女の後ろを黙ってついていく。

 重々しい静寂の中、ぎこちない靴音が響いた。遠ざかっていく二人の後ろ姿を、やはり女神の像は見守っていた。




 見慣れた地下牢に閉じ込められて、どれくらい経ったのだろうか。微睡みの中に浸っていたゼイツは、風の匂いを感じて目を覚ました。

 座ったまま眠っていたせいか、背中が痛い。肩も凝り固まっている。ほぐすようにゆっくりと首を回し、彼は瞬きをした。

 適当に手当てされただけの左足は、熱を持ったままだ。何かに感染していたら厄介だと思うものの、どうすることもできずに彼は放っておいている。

 ここには水もない。もちろん食べ物もない。前回の時のようにラディアスが持ってきてくれることもなかった。それどころではないのだろう。ウルナたちのことを任されているのだから。

「俺は生きてるんだな」

 ぼんやりと、ゼイツは独りごちた。外界から遮断された場所であるため、その後の情報は全く入ってこない。しかしジブルが攻撃を始めたらさすがにわかるだろう。地響きもするはずだし、騒々しくなる。だが今のところそのような気配は感じなかった。死刑を言い渡しに来る男のおとないもまだない。

「また風か」

 風を感じるということは空気が動いたということ。つまり誰かが来る可能性を示唆している。彼はしばらく耳を澄ませてみたが、靴音が響いてくることはなかった。外で強風でも吹いたのだろうか?

 彼はため息を吐くと、再び石壁にもたれかかった。走り続けた疲労と傷の痛みで、体はもう限界だ。思考する気力も残されていない。しかしそれでも、納得できない心が答えを求めて彼を突き動かそうとしていた。何も考えずにすむのは寝ている時だけだ。

「……ナイダートは何のためにやってきたんだろう」

 ジブルと同じ目的なのか、それとも違うのか。彼は目を瞑ると、再び疑問の渦へと飛び込む。

 ジブルの動きをナイダートが快く思っていないことは、容易く想像できた。両国が牽制し合っているのは、他の国も知るところだった。ジブルとナイダートの国境に不毛の地が広がっていなければ、血みどろの領土争いが何度も起こっていただろう。

「そうだよ、あんな物を持ち出したらナイダートが動くって誰でもわかることだ。それなのにどうしてジブルは強行したんだ?」

 疑問は尽きない。フェマーの言を借りるならば「切羽詰まっているから」だろうが、何故そこまで追い詰められているのか理解できない。

 一体、何が起こっているというのか? 少なくともゼイツがジブルを出た時には、そのような様子は見られなかった。人々の噂にも立ち上ってはいない。妙な事態が起きていたら、父――ザイヤも忙しくなっていたことだろう。

 再び嘆息すると、それは湿った冷たい空気に吸い込まれていく。地上とは違う重さを持った空気を握りつぶしたくて、ゼイツはそっと手を伸ばした。土に汚れた手のひらを上に向けると、気怠さが身に染みる。

 すると不意に、また風の匂いを感じた。揺り動かされた空気がわずかに変化する気配を、過敏になった肌が感じ取る。

 半分瞼を開けて、彼は耳をそばだてた。また気のせいかもしれない。しかしそうでなかった場合は困る。息を張り詰め、心を落ち着け、何でもない風を装いながら最悪の場合に備える。彼はゆっくり手を下ろした。

 しばらくは、何も聞こえなかった。だが再び微睡みに襲われ始めた頃に、彼の耳は小さな足音を拾った。歩幅はさほど広くなさそうな、軽い靴音だ。男のものではなさそうだと踏んで、彼は喉を鳴らした。まさかカーパルがやってきたとは思わないが。

 冷たい壁に寄りかかり、彼はそのままおとないを待つ。徐々に鼓動が速くなる。熱い左足に痺れが走ったように感じて、彼は額に皺を寄せた。この足では何かことを起こそうとしても難しいだろう。だが、その必要があれば動かすしかない。

 靴音が徐々に大きくなり、彼は気を引き締め直した。奥歯を噛みしめ、思考を研ぎ澄ませようとする。もうこれ以上、感情に振り回されてはいけない。

「ゼイツ」

 しかし、鼓膜を震わせた聞き覚えのある声に、その決意は瞬く間に崩れ落ちた。眼を見開いた彼は、扉の方を振り仰ぐ。

「ウルナ?」

 格子の窓の向こうにいたのは、ウルナだった。明かりを手にした彼女は、ぼろ布のような肩掛けを羽織っている。彼は思わず立ち上がろうとし―足の痛みでそれもできずに、唇だけを動かした。

「どうしてここに?」

 馬鹿らしい質問が口からこぼれ落ちる。それよりもっと聞くことはあった。彼女が横穴で倒れてから何日も経ったとは思えない。体は大丈夫なのだろうか? もう平気なのか?

 しかし案じる言葉を放つことができず、彼は彼女をひたすら凝視した。赤みのある光に照らされてなお青白いと思える顔色に、胸の奥がざわつく。

「あなたのことが気になって」

 言葉少なに答えた彼女は、窓枠にはめ込まれた金属の棒へと触れた。今にも折れそうな指先が錆び付いたその表面を撫でる。彼が黙したままその様子を見上げていると、彼女はかすかに眉根を寄せた。

「怪我はそのままになっているのね。これ以上ひどくならないといいんだけど」

「……ウルナは?」

「私は大丈夫、じきに元に戻るわ。以前もそうだったし、心配しないで」

 彼女に案じられてようやく、彼も尋ねることができた。彼女がこうして歩いてきたということが何よりの証拠ではあるが、言葉で聞くとまた違う。

 しかし以前と言うからには、同じようなことがあったのだろう。まさかカーパルは何度もウルナに無理をさせているのか? 懲りていないのか?

 ウルナはふっと頬を緩めると、通路の方へと一瞥をくれた。緩く束ねられた彼女の黒髪が、湿気った重い空気を含んで揺れる。左の瞳を覆う黒い布を、彼はなんとなしに眺めた。今はそこから薄緑の光が溢れ出してはいない。

「ジブルは撤退したわ」

 視線を彼へと戻した彼女は、小さく、だがはっきりと口にした。瞠目した彼は、敷かれているぼろ切れの端を掴んで一度深呼吸をする。喉の奥がひりりと痛んだ。

「――撤退?」

「ナイダートがそう仕向けたみたい。何をしたのかは私たちの知るところではないけれども、とりあえず危機は脱したわ。すぐさま戦争ということにはならない」

 道理で静かなわけだと彼は納得した。さすがはナイダートだ。

 しかし、ますますわからない部分も出てくる。ジブルを牽制するためだけに、ナイダートがそこまでするのかと問われたら疑問だ。よほどの理由がなければ、普通は踏み込めない。しかも使者が危険な中わざわざニーミナまでやってくるなど、まずあり得ない。彼は首を捻った。

「ナイダートの使者は何のために来たんだ?」

 問いかけは、独り言にも近かった。強行突破に出ようとしたジブルといい、それを止めるためなのか急遽使者を送り込んできたナイダートといい、今までには考えられない動きをしている。「切羽詰まっている」の一言では片付けられない事態だ。

 彼は彼女から視線を外し、汚らしい床を見つめた。所々苔の生えた石には、よく見ると赤黒い染みがこびりついている。彼女が手にした明かりがあるから色までわかった。ここに閉じ込められたのはどういう人間だったのかと、思いをはせたくなる。彼と同じような潜入者も今までにいたのだろうか?

「私が直接聞いたわけではないけれど、技術提供を求めているみたいなの」

 頭上で、彼女の声が響いた。頭をもたげた彼は、固唾を呑んで瞬きを繰り返す。彼女の表情には何ら変化がなかった。喜んでいるようにも悲しんでいるようにも、何も感じていないようにも見える眼差しが、彼へ向けられている。

「ニーミナに、技術提供を?」

「ええ、つまり『力』についての知識ね。私たちが今まで得た知識を分け与えろと、そういうことみたい」

 説明を付け加えて、彼女は長く息を吐き出した。彼は呆然と口を開いていたことに気づいて慌てて閉じると、心を落ち着けるべく深呼吸を繰り返す。

 信じられなかった。要するにナイダートは、禁忌の力について情報を渡せとニーミナに条件を突きつけたのか。ナイダートまで禁じられた領域へ足を踏み出そうというのか。しかもそれを、ニーミナは呑んだと。

 そうであれば、腑に落ちる部分もあった。ナイダートが禁忌の力を欲しているのならば、ニーミナへの攻撃はどうにか防ぎたいところだろう。そのために危険を冒したとなれば、つじつまが合う。いや、ジブルの侵略行為に警告するという名目ができたのだから、ナイダートにとっては絶好の機会でもあったのかもしれない。

 しかしそれは、ジブルが古代兵器を持ち出したこと以上に、衝撃的な事実だった。嘘だと決めつけられたらどれだけ楽だろうか。だが彼女がここでそんなことをする利点などない。意味もない。

「……そんなこと、俺に話してしまってもいいのか?」

 重大な事実だ。おそらく、おいそれと他人に漏らしてはならない話だ。それを牢の中にいる彼へ教えて、彼女は大丈夫なのだろうか?

 左目の緑石のことがあるから殺されるということはないだろうが。しかしカーパルの仕打ちがますますひどくなるのではと彼は心配になる。

「話してもいいと私が思ったから話しているだけよ。いずれ広まることでしょうし」

 問われた彼女は大したことではないと言いたげに、破顔してため息を吐いた。久しぶりに見る、狂気をはらんでいない笑顔だった。

 彼は瞳をすがめて曖昧に頷く。この行為にも意図があるのかないのか。彼女が本当は何を考えているのか、いまだ不明だった。捉えたと思っても、いつの間にか彼の手を擦り抜けている。

「ねえゼイツ、あなたはジブルが好き?」

 彼女の指先が軽く格子を掴む。細められた右の黒い瞳を見つめて、彼は閉口した。すぐに答えを返すことはできなかった。ぼんやりと、額に皺を寄せた父の顔を思い出すだけだ。胸の奥が重苦しい。

「……今は、わからない」

「そうよね」

 正直な気持ちを口にすると、彼女は相槌を打った。しかしそれでも彼の胸の内は晴れない。好きだと即答できない自分に罪悪感を覚えた。過去の自分に責め立てられているような心地にもなる。

 何を信じたらいいのかわからない。足場がない。底なし沼にはまりこんだ境地だ。足掻けば足掻くほど、見えるものも減っていく。

「ウルナは?」

 もしかしたら、このような気持ちをずっと彼女も抱いていたのだろうか? そう思うと、固く閉ざしたような無表情も、時折のぞく儚い笑みも、少しは理解できるような気がした。

 彼が黙して返答を待っていると、彼女の指がそっと格子から離れる。

「私はニーミナが好きよ。姫様を、クロミオを生んでくれたこの国が好き。二人を育ててくれたこの国が好き。だけど両親を奪った国でもあるの。国のためにと色んなものが奪われてきた。でも私には、そうまでして守るべきものなのかわからない。むしろ、人々の顔が見えない国っていうものが嫌い。だから愛しているけれど憎い」

 淡々とした口調で告げられた内容には、彼も共感できるものがあった。失ってよいものでもないし、守りたいとは思う。だがそのために自分の大切なものが失われるとしたら……それを甘んじて受け入れることは無理だ。少なくとも今の彼にはできない。

 だが、どうして彼女はそこまで二人を思っているのだろう? クロミオはわかる。残されたたった一人の肉親だ。しかしルネテーラと彼女が出会ったのは、おそらく教会に来てからだろう。ゼイツはやおら首を傾げた。

「どうしてウルナはルネテーラ姫をそんなに大切にしてるんだ?」

 彼が素朴な疑問を口にすると、ウルナの口角がかすかに上がった。ほんの少し笑い声を漏らして、彼女は視線を下げる。ゆらりと揺れた癖のある前髪が、線の細い顔に影を落とした。

「私がこの瞳を得た時、誰もが戦いたわ。緑石の力に怯えて、それを畏怖しながらも遠ざけた。叔母様の奇跡を知る人ならなおさらに。だけど姫様は違ったの。女神の化身として祭られていた姫様は、私の目なんか気にしなかったのよ。普通の人間のように接してくれた。当たり前のように心配してくれた。私が今こうしてここにいられるのは姫様のおかげ。だから私は姫様に感謝しているの」

 そう語る彼女の表情は柔らかかった。きっと本来の彼女なのだろうと、彼にも素直に思えた。けれども、それもすぐに引っ込められ、彼へと眼差しが向けられた時には何かが固く閉ざされている。彼女の右の瞳がまた細められた。

「姫様がゼイツを心配していたわ」

「ルネテーラ姫が?」

「クロミオが話してしまったみたいね。とても心配していた」

 彼は閉口した。そう、あの時あの場にクロミオもいたのだ。ゼイツが怪我をしたことも、牢に入れられたことも知られてしまった。どういう理由でそうなったのかはわからないかもしれないが、そうなだけに不安も増しているはずだ。ウルナの懸念もそこだろう。クロミオとルネテーラはどこまで感づいてしまったのか……。

「姫様はあなたのことを気に入っているみたいね」

「そう、なのか?」

「そうよ。だから大丈夫。姫様があなたを気に入っている限り、あなたはそう簡単には殺されないわ。姫様は、叔母様が自らにはめた枷のようなものだから。いくら叔母様でも、できることとできないことがあるのよ」

 彼女は言い終えてから首をゆるゆると横に振った。カーパルという人間にも色々あるようだ。

 ルネテーラの『姫』という立場を作ったのはカーパルなのだろうか? 枷とはどういう意味だろう? 彼が首を捻っていると、おもむろに彼女の手が動いた。懐から何か探っているのか、手にしていた明かりが揺れる。

「これをあなたに」

 金属の格子の隙間から放り投げられたのは、小さな麻の袋だった。どうにか受け取ったそれを見下ろして、彼はラディアスの時のことを思い出す。あれにはずいぶんと助けられた。今回はさらに小さい袋だが、この中には何が入っているのだろう。

「それを舐めていれば飢えはしのげるはずよ。本当は旅人に持たせる物なんだけれど、特別ね」

 彼女は薄く微笑んだ。袋の中を覗き込むと、小さな丸い玉のような物が入れられていた。牢の中では暗くてよく見えないが、携帯食の一種か。彼は袋の口を閉めると顔を上げた。こんなことになっても、まだ彼女は彼を助けるつもりらしい。いや、利用するつもりなのか。

「こんな物をくれて、大丈夫なのか?」

「心配しないで。あなたが気にするべきなのは、そんなことじゃあないわ」

「でも――」

「今はとにかく、自分の体のことだけを考えて」

 彼女はゆっくり牢に背を向けた。呼び止めようと彼が手を伸ばすと、麻の袋が冷たい床へと転がり落ちる。左足から全身へと痛みが突き抜け、彼は呻き声を漏らした。すると軽い足音が一度響いてから止まる。明かりが揺れたのが牢の中でもわかった。

「きっと近いうちに」

 それだけを言い残して、彼女は去っていった。立ち上がることもできない彼は、落ちた袋を拾って苦笑する。

 やはり彼女がわからない。わかりかけたと思っても、すぐに突き放される。全身の力が抜け、彼は薄汚れた石壁にもたれかかった。その冷たさが、今ばかりは心地よかった。

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