第6話 一人にしないでよ
「カーパル様!」
ラディアスの慟哭じみた呼び声が、ゼイツの頭に響く。明かりとなる光が失われつつあるため、視界が歪んでいるのも段々とわからなくなった。ラディアスもウルナもカーパルもかろうじてその輪郭は追えるが、表情までは読み取れない。
ゼイツは何度も瞳を瞬かせて、どうにか正常な視覚を取り戻そうと努力した。カーパルが大きく首を横に振ると、長い袖が揺れるのが見える。ついで絞り出すようなカーパルの声が空気を震わせた。
「そんなはずがないわ。だってウルナは――」
「お姉ちゃん!」
その時、予想だにしなかった声が横穴に響き渡った。誰もが息を呑む音まで、ゼイツには聞こえた気がした。
慌てた彼は何も考えずに飛び起きようとしてできず、その場で足を抱えて再び悶絶する。不用意に動かしてしまったのがまずかったのだろう。額に浮かんだ汗が頬を伝って落ちていく。それでもどうにか首を捻って、彼は声の主の方を見やった。
「クロミオ!?」
「ラディアスさん! お姉ちゃんっ!」
穴の奥へと駆け込んできたのはクロミオだった。大きな上着をはためかせつつ近づいてきたクロミオは、ラディアスとウルナのもとへ急ぐ。
立ち尽くしたカーパルはそれを止めなかった。転がり込むようにやってきたクロミオは、ラディアスの腕にしがみつく。そして抱きかかえられているウルナの顔を必死にのぞき込んだ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ」
「クロミオ、どうしてここに?」
「だって騒がしかったから。それでラディアスさんが走り出すところを見かけて、だからっ」
咳き込みそうになりながら、クロミオは捲し立てるように喋る。ラディアスの声音からも、相当焦っていることがゼイツにもうかがえた。クロミオが追っているのにさえ気づかなかったのだからかなりだろう。
ラディアスはゼイツとウルナのやりとりを聞いていたのだろうか? それともウルナの様子がおかしいことに気がついただけなのか? クロミオは何も知らないようだが。
「ねえ、何が起こってるの? お姉ちゃんは一体どうなっちゃったの? ねえラディアスさん」
徐々にクロミオは涙声になる。縋り付くような響きが胸に痛い。ゼイツは今すぐ立ち上がり、彼らの方へ駆け寄りたい衝動に駆られた。
浅はかだった。よく考えずにみんな動いてしまった。こんなところを、クロミオに見せるべきではなかった。
ウルナがあの時、クロミオとルネテーラには内緒にしてくれと頼んだ気持ちが、今はゼイツにもよくわかる。彼らは純粋過ぎて、この秘められた世界とは遠すぎる。こんな場面に立ち会わせてはいけなかった。
「ねえお姉ちゃん、お姉ちゃんっ」
何度もクロミオは呼びかける。嗚咽に変わりつつある言葉は、しかし不思議とはっきりゼイツの耳にも届いた。冷静でいなければと思うのに心が揺さぶられ、彼はまた立ち上がろうとする。もちろんそれはうまくいかず、激痛に悶える結果となるだけだった。手のひらにはこれでもかと汗が滲んでいる。
「お願い、起きてよお姉ちゃん。僕を一人にしないでよ。そんなの嫌だよ、駄目だったらっ。ねえお願い、お願いお願い。お願いします女神様」
クロミオの小さな手が、ウルナの頬へ伸びるのがわかった。ラディアスもカーパルも黙っている。二人の表情が見えないことを密かにゼイツは感謝した。
口を挟むことさえできない切なるクロミオの願いに、痛々しい沈黙が辺りへと満ちる。クロミオの手がウルナの右腕を揺さぶった。ラディアスはそれも止めない。
「ねえねえ、お姉ちゃん、お姉ちゃん」
返らない言葉を求めていたクロミオが、やがて力尽きたように揺するのを止める。クロミオの呼びかけが止まると本当に音が消えた。時間まで止まったかのようにゼイツには感じられた。
頼りにしていた聴覚があてにならなくなると、心許ない視覚だけがより所となる。外界の刺激がなくなったせいか、痛みが強まったように思えた。
もう意識を手放してしまってもいいのではないか。ゼイツがそんな誘惑に駆られた瞬間、ウルナの頭がわずかに動いたように見えた。少なくとも彼の目にはそう映った。クロミオもそう思ったのか、小さな口から希望を滲ませた言葉がこぼれ落ちる。
「お姉ちゃん……?」
今度ははっきりと、ウルナの手が動いた。しがみついているクロミオへと伸ばされたそれが、大丈夫だと伝えるかのように衣服の表面を撫でる。結ばれていないウルナの豊かな髪が、地面へとこぼれ落ちた。
「クロ、ミオ」
「お姉ちゃん!」
「ウルナ!?」
ウルナはうわごとのように弟の名を呼ぶ。クロミオとラディアスはほぼ同時に、安堵を滲ませた声を上げた。ゼイツも心底安心した。あの戦艦を動かすために、ウルナは全ての「心」を使い切ってしまったのではないかと思った。だが違ったらしい。少なくとも彼女の命はまだこちら側にとどまっている。ゼイツは長く息を吐くと、カーパルの方を見やった。
「よかった」
それまで呆然と立ち尽くしていたカーパルが、肩を落とすのが見えた。その「よかった」に含まれる感情が何なのか、ゼイツには判断ができない。ただ、ゼイツたちと同じものではないだろう。それだけは断言できた。
「本当によかった」
もう一度その言葉を繰り返したカーパルは、よろよろとした足取りで歩き始めた。けれどもウルナたちへ向かってではない。その先にあるのは、光を失った戦艦だ。今ははじめに見た時と同様、薄ぼんやりと白く浮かび上がっているだけだった。そちらへと引き寄せられるように、カーパルはふらふら近づいていく。
「カーパル様、いけませんっ」
ラディアスもカーパルの動きに気がつき、慌てて制止しようとした。だがウルナを抱えているため行動には出られない。クロミオは泣きながらウルナにしがみついていて、離れる様子もない。カーパルを止められる者はここにはいなかった。
それをいいことに、カーパルは心ここにあらずといった様子で戦艦へと近寄った。そして全く汚れているように見えない艶やかな表面を、愛おしげに撫でる。
「動いたのよ。ちゃんと動いたの。動いたし、死ななかった……。私たちはまだ、生き残ることができる。ねえオレクラン」
カーパルが口にしたのは呪文のような言葉だった。もしかしたら、自らを洗脳するためのものだったのかもしれない。危うさを身に纏った彼女へ、ゼイツは何も言うことができなかった。もっとも、何を告げたとしてもその耳には届かなかっただろうが。
「クロミオ、ウルナを見ていてくれ」
このままではまずいと思ったのか、ラディアスがそう言い残すのが聞こえた。カーパルのもとへ行くのか? クロミオが頷くと、ラディアスは立ち上がったようだった。そして薄暗い中を歩き出し、不思議なことにゼイツの方へと近づいてくる。てっきりカーパルを止めるのだと思っていたゼイツは顔をしかめた。
「戻ってきたと思ったらこんなところで倒れているとは、迷惑な奴だな。しかもカーパル様まで刺激してしまった」
ゼイツのすぐ傍で立ち止まったラディアスは、嘆息しながらそう告げた。反論は浮かばなかった。それでもゼイツは後悔していない。何度同じ状況になったとしても、結局彼は戻ってくるだろう。国境沿いに並んだ古代兵器を思い出し、彼は唇を引き結んだ。
「また何をしでかすかわからない奴はいずれ排除しなければならない。だが、今死んでもらっては困る」
片膝をついたラディアスは、神妙な顔でゼイツの足へと一瞥をくれた。そして羽織っていた上着を脱ぐと、拳銃で打たれた左足に巻き始めた。ひどい傷なのか眉根を寄せている。ゼイツはそんなラディアスを呆然と眺めた。
「ラディアス……?」
「黙ってろ。お前、見えてないかもしれないがひどいぞ。さっさと医者に診せなければまずいかもしれない」
淡々としたラディアスの口調が、余計に不安を煽る。素直に頷いたゼイツは、ウルナたちの方へと双眸を向けた。
横たえられたウルナの隣にクロミオが座り込んでいる。表情までは見えないが、まだ泣いているだろうということは想像できた。小さな体が時折震えている。
「悪い」
「思ってもいないことを口にするな。黙っていろ」
すげなくラディアスに言い切られて、ゼイツは口を閉ざす。だがこのままでもいけないと反論を口にしかけた時、ゼイツの耳は何者かの靴音を拾った。複数あった。
ラディアスも気づいたのか、手はそのままに後ろを振り返る。また誰か来るのかと、ゼイツは体を強ばらせた。ルネテーラでなければいいと願うばかりだ。できたら頼りになる味方がいい。
「カーパル様!」
遠くから響いたのは、カーパルを呼ぶ声だった。知らない男のものだ。ゼイツが首を巡らせると、横穴の向こうから明かりが幾つか近づいてくるのが見える。
カーパルがいつの間にかいなくなったことに気づいたのだろうか? それとも国境沿いのジブルの兵士たちが動き出したのか? 数人の男たちは真っ直ぐカーパルへと走り寄っていく。呼ばれて振り向いたカーパルは、感情の読めない顔をしていた。明かりに照らされてもなお、生気がない。
「カーパル様」
「来るなと伝えてあったはずですが。何か問題でもあったのですか?」
「それが……実は先ほど、ナイダートの使者を名乗る男が現れまして」
「ナイダート?」
思いもかけない名前に、カーパルの眼が見開かれる。驚いたのはゼイツも同様だった。
ナイダートはジブルより東にある強国の一つだ。畑に適した土地には恵まれていないが、資源や遺産が比較的豊富にある。また遺産研究が盛んな国でもあった。現在ジブルが最も警戒している国だ。そのナイダートがニーミナに使者を送るとはどういうことだろう?
「はい、ナイダートの紋章を確認しました」
「ジブルの次はナイダート? 一体、何が起きているというの……」
「わかりません。ただ奇妙なことを口にしています」
「奇妙なこと?」
「ジブルが侵略行為へ踏み込もうとしている、と。そしてそれを止める準備があると」
聞き耳を立てていたゼイツの鼓動が跳ねた。侵略行為とは、国境沿いに並んだ兵器のことを指しているのだろう。ジブルの動きにナイダートが感づいていたのか。それともナイダートとジブルの間に何かあり、先にジブルが動き出したのか。何にせよ、よくない流れが生じていることは確かだ。
「ジブルの侵略行為? ……ウルナが言っていたのは本当だったということね。わかりました、今から行きます」
唇を引き結んだカーパルは、姿勢を正して踵を返した。正気に戻ったようだった。彼女はそのまま出口へと向かう途中、倒れたウルナ、座り込んだクロミオ、そしてゼイツとラディアスへ一瞥をくれていく。彼女は軽く眉をひそめていた。
「ジンデ、そこにいるゼイツという男を牢へ入れておきなさい。どうせ動けないでしょうが」
「はい」
遠ざかっていくカーパルの背中越しに、そんな会話が聞こえた。ついていこうとしていた男の一人――ジンデというのだろう――が、立ち止まり首を縦に振る。
ゼイツはまた牢に入れられるようだ。再び陰気な地下での生活かと、彼は内心で苦笑した。今度こそ本当に殺されるかもしれない。だが不思議と恐怖は感じなかった。ただウルナたちのことだけが気がかりだった。
「ラディアス、そこを退きなさい」
ジンデと呼ばれた男が近づいてくるのが見える。明かりに照らされた表情は硬い。ゼイツは身動きもせずその場で待ち受けた。傍にいたラディアスのため息が重くゼイツの耳に響く。様々な感情を含んだ吐息だった。ラディアスは小さく頷くと、ゆっくり立ち上がる。
「はい、わかっています」
「ラディアスはウルナ嬢を」
「わかっています」
繰り返されたラディアスの返事には、苛立ちが含まれている。ラディアスがいるならウルナは大丈夫だろうと、ゼイツは妙なところで安堵を覚えた。
あとはジブルの古代兵器の件だが、ナイダートが絡んできたとなると、どう情勢が変わるか読めない。何にしろ、これから牢に放り込まれるゼイツにはどうしようもないことだ。
「本当にどうなってるんだ」
カーパルに聞こえないようにと思ってだろう、ぼやくように小さく吐き出されたジンデの言葉に、ゼイツは胸中で同意を示した。自分には手に負えない規模の動きに、ただただ翻弄されるばかりだった。
「ジブルの動きについてはご存じなかったと」
大きな見張り台の上で、男の声が響く。低く重く放たれた言葉は、星々が瞬く夜空に吸い込まれていった。白髪の交じった黒髪をきっちり整えた、初老の男だ。紫紺のマントを羽織っている。
遠くを見据えていた彼は石造りの塀に片手を置き、口角に力を入れた。風のか細い鳴き声が、息苦しい沈黙にほんの少し音を添える。
男より数歩後ろには、カーパルがいた。感情の読み取りにくい薄い笑みだけを浮かべて、風に揺れる上衣を押さえている。
彼女の背後には二人の男が控えていた。見張り台にいるのは、その四人だけだ。本来の役目を果たすべき見張りの若者は、既に退場している。ろくに明かりも灯らない石に囲まれた場を照らしているのは、蒼い月光のみだった。
「まさかあれだけの物を持ち出すとは、我々も予想外でした。あなた方も驚かれたことでしょう」
右手を塀にのせたまま、初老の男がカーパルの方へと首を巡らせる。穏やかな声音には同情の色さえ滲んでいた。一方では奥底に別の感情を匂わせていた。カーパルは左腕を右手で押さえると、神妙に頷く。
「そうですね」
彼女は余計な言葉を付け加えなかった。黒い瞳をわずかに細めただけで、表情もほとんど変わらない。
男は満足そうに首を縦に振ると、冷たい石の塀へと背中を預ける。羽織った紫紺のマントがかすかに衣擦れの音を立てた。マントを留めている紋章には、ナイダートの証である月を連想させる模様が刻まれている。
「いえ、誰もがきっと驚いています。ジブルは狂っていると。あれは第二期、第三期の古代兵器ですよ。まともに動くのかどうかについては保証できませんがね」
男の声に力がこもった。塀から離れて軽く掲げられた彼の手を、カーパルは相槌を打ちながら目で追う。
白い手袋に包まれた男の指先は、深い藍色の空を背景に薄ぼんやりと輝いて見えた。ニーミナには存在しない上質な物だ。使者にのみ許された装いとも言える。
応えを求めるように、男の細長い瞳がカーパルへと向けられた。だが彼女は男ではなく、その背後にある闇を睨みつける。
第二期、第三期という呼び名は、ごく一部の研究者のみが知っているものだった。便宜的な通称にも近いため、普通の民は耳にしたこともない。しかし研究に携わる者であれば、国の中枢に関わる者であれば、知らないですませられる話でもなかった。
世界は二度滅んだと、一般的には言われていた。だが研究者たちに言わせれば三度滅んでいた。第一期と呼ばれる時代には、世界には未知なる力が溢れており、それを利用した技術が全ての土台になっていたという。だがそれがある時を境に忽然と途絶え、第二期へと突入する。
第二期は核エネルギーを中心とした時代だが、これは核戦争により終わりを迎えていた。馬鹿馬鹿しい戦争だったと聞くが、その発端を知る者はいない。そして残念なことに、その時代の技術の大半が今や失われたも同然だった。第三期も同じように、些細なことで始まった戦争により技術が失われている。取り戻しかけていた知識も、あやふやなまま残されただけだという。
第三期の技術は宇宙で発達していたため、この星―地球はそのおこぼれにあずかっているような状況だった。そのため愚かな戦争が終結した時、地球の人々は全てを失った。頼るものも技術も知識も、彼らの手中にはなかった。他の星へと提供し続けた豊かな資源さえ、底を突きようとしていた。
それまで積み重ねてきた、生き残るための努力が全て水の泡。助けを求めるどころか宇宙へ出る術さえ失いかけた彼らは、緩やかに死につつある世界に取り残された哀れな生き物だ。滅びを待つだけの力ない種族だ。抗っても無意味。ただその時を先延ばしにしているに過ぎない。
「古代兵器がまともに動くかどうか、ですか。それは誰にもわかりませんね。しかしそこまで持ってくることはできた。国境沿いに運ぶことはできた」
「……そういうことになりますね」
「つまり、まともに動く可能性もあるということですね。そして、あなたたちはそれを止める準備があると?」
確認するカーパルの言葉に、初老の男は相槌を打った。彼は余裕を感じさせる笑みを浮かべると、肩越しに振り返る。その視線の先の国境では、重圧的な古代兵器が並んでいるはずだった。
「ええ、いつかこのような事態が起こるのではという危惧はありました。ですから、そのための準備を」
ごく当たり前のように男は告げる。その言葉が意味することを理解できぬ者など、この場にはいなかった。
伝わることがわかっていてあえて口にした男と、瞬時に読み取ったカーパルは、ほぼ同時に吐息をこぼす。カーパルの背後で、二人の男が動揺したように身じろぎをした。だが彼女に危機が迫っているわけでもないため、走り出すようなことはしない。
「まさか善意で力を貸してくれるなんて、そんなことは仰いませんよね?」
探るような一言をカーパルは口にする。初老の男は大袈裟に肩をすくめ、片眉を跳ね上げた。
彼が再び塀に右手をのせると、紫紺のマントが揺れる。暖を取るにも何かを隠すにも都合のいい大きな布から、かすかに金属の触れる音がした。
「そんな言い方をされると困りますね。あなたたちは窮地に追い込まれている。我々はジブルを止めたいと思っている。利害は一致しますよね、と申し上げているんです」
「ええ、仰りたいことはわかります」
わざとらしく悲しげな口調でそう続けた男に、カーパルはまた頷いてみせる。やはり彼女の表情に変化はない。声も変わらない。感情豊かな様を装う男とは対照的だった。それでも彼は不満を露わにすることなく、友好的な笑みを浮かべる。
「協力していただけませんか?」
端的な男の言葉が、空気を震わせた。断られることを想定していない人間の放つ一種の威圧感を纏って、男は口の端をさらにつり上げる。カーパルは首を縦にも横にも振らず、眉根を寄せた。
「非力な我々が、ナイダートのような強国に?」
「そんな、ご謙遜を。あなたたちには知識がある」
「我々の知識など、取るに足らないものですよ」
カーパルは微苦笑を浮かべた。それは見張り台に来てはじめて、彼女が見せた感情らしきものだった。控えていた男二人が何か言いたげな空気を醸し出したが、そちらには注意を向けることなく彼女は返答を待つ。初老の男は全てわかっているとでも言うように相槌を打った。
「どれだけ得ても足りないことは承知しております。あなたたちにとっては不十分なのでしょう。けれども、我々にとっても同じとは限りません。我々はどんな些細な情報でも欲している」
一語一語に力を込めて、男は説得を試みる。石の塀から離れた手が、雄弁にカーパルへ伸ばされる。彼女は風に煽られた上衣を正して、ごくわずかに頭を傾けた。
「それほど追い詰められているようには思いませんでしたが」
挑発するように薄く微笑んで、カーパルは口を開いた。しかし男は不快感を示さなかった。「手の内を軽々と見せる使者などいないでしょう」と笑って、大仰に頷く。白い布に包まれた指先が、マントを留める紋章へと触れた。
「少なくとも現在、我々は安穏としていられる状況にはありません」
「仰りたいことがわかりませんね」
「では、我々の情報とあなたたちの情報を互いに共有するというのはどうですか? あなたたちも困惑しておられることでしょう。ジブルに続き我々まで、と」
徐々に踏み込んでくる男に、カーパルは閉口した。否定はしなかった。
男は紋章の表面を指先で撫でつつ、両の瞳を細める。静寂が、見張り台の上に広がった。緩やかに吹く風の音と揺らされた衣服の囁きが、時折彼らの間を通り抜けていくだけ。しばしの沈黙を打ち破ったのは、物柔らかな男の声だった。
「悪い話ではないと思いますよ」
そう追い立てて、男は微笑する。カーパルは大きなため息を吐くと、わずかに瞼を伏せ首をすくめた。
「ええ、そうですね。ですが私の一存で決められることでもありません。時間をください」
「猶予はありませんよ」
「それは、わかっています。おそらくよい返事ができると思います」
「期待して待っております」
満足した男の声と、カーパルの苦笑が重なる。再び見張り台の上を吹き抜けた風が、紫紺のマントを乱暴に揺らした。
それを合図とばかりに男はおもむろに歩き出す。そしてカーパルの横を、控えていた男たちの横を通り過ぎて、暗い扉へと向かった。硬く反響した靴音が、夜空へと吸い込まれていく。
「手遅れにならないことを祈るばかりです」
ごくごく軽い調子でそんな言葉を残し、男は扉へと手を掛けた。再び無情表へと戻ったカーパルは、振り返らずに「ええ」とだけ答えた。
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