第6話 祈らなくては

 その日は、ゼイツにとっては久しぶりの休みだった。何やら話し合いがあるという理由で、穴掘り作業は一旦中止となった。今後の方針について定めるのだろうか? 

 彼にはわからないが、とにもかくにもようやく手に入れた時間だ。絶好の機会だ。有効に使わなくてはと、彼は自室の中で考える。

 心がどこかへ飛んでいきそうな単純作業が、彼へともたらしたものは多い。そのうち最も大きな収穫は、大雑把にこの教会の構造がわかったことだった。

 どうやら彼やウルナたちが住んでいる部屋は、人が立ち入ることがほとんどない『奥の棟』にあるようだった。他の者は大抵『南の棟』や『東の棟』に住んでいるらしい。『西の棟』が教会の外へも開かれている、いわば本来の意味での教会にあたるとの話だ。最初、ゼイツが忍び込んだのは西の棟だった。そこから庭を駆け抜け、奥の棟まで辿り着いたと推測できる。

 他の棟とは違い、北の棟だけが二つある。そのため、より北側のものを『奥の棟』と、南側のものを『北の棟』と便宜上呼んでいた。それぞれの棟は細長い回廊によって結ばれているが、その結び方には一貫性がない。結果、このまるで迷路のような状態ができあがっているようだった。

 地下へ通じる道があるのは奥の棟と東の棟のみらしいので、他の作業者たちは東の棟からやってきている。おそらく地下にあった楕円形の広間に繋がっているのだろう。四方八方へ伸びていた通路のどれかがそれに違いない。

 人々の暮らしに関わる物は大概、南の棟や東の棟に集められていると聞く。つまり、禁忌の力に関わる何かがあるとしたら奥の棟か北の棟、もしくは地下だ。目に触れやすく管理のしにくいところで重要な研究をするはずがないだろう。既にゼイツは、知らぬ間に『懐』へと潜り込んでいたのだ。

「だがなあ」

 しかし、決定的な何かを掴むには至っていない。少なくとも奥の棟を歩いていても、怪しい場所は見つけられていなかった。彼は華奢な椅子に座ると嘆息する。

 もしかしたらひたすら並んでいるあの何ら変哲のない扉の一つに、秘密は眠っているのかもしれない。だが一部屋一部屋確かめながら歩くというのは、どう考えても非効率だった。自由になる時間は限られている。

 彼は目を瞑り、今までの記憶を掘り起こす。ニーミナに到着した時のこと、教会に潜り込んだ時のこと、ウルナに見つかった時のこと。彼の中を、幾つもの景色が流れていく。

 するとふと、疑問が脳裏をよぎった。初めて会ったあの時、ウルナは何と言っていただろうか? 「この先は駄目なんです」と口にしていなかったか? あの日彼が身を潜めた茂みは、奥の棟の周囲に張り巡らされた庭の中にあった。まさか探し求めていた物は建物の中ではなく、外にあるのか――。

 彼はやおら目を開いた。瞬きをすると、黄ばんだ白い壁の染みが浮かび上がって見えてくる。目に馴染んだその形をぼんやりと眺めつつ、彼は細く息を吐き出した。動くのなら今だ。もう一度、外を探ってみてもいいのかもしれない。ひたすら草木しかない、風ばかりが走り回る、あの庭を歩くのだ。

「よし」

 決意したら、こうしている時間ももったいなかった。彼は椅子から立ち上がると身支度を始める。外の庭へと通ずる道で彼が知っているものは、ウルナたちの部屋だけだった。

 幸いにも、今はウルナもクロミオもいない時間帯のはずだ。いつも鍵はかかっていないから、勝手に入ることは可能だった。ほんの少しだけ良心は痛むが。

 ラディアスから借りた古い上衣に拳銃を潜ませ、短い腰布の下に短剣を隠し、ゼイツは扉へと向かう。相変わらず人気のない廊下へと出て、念のため周囲の気配を探りながら、ウルナたちの部屋を目指した。

 靴音が心なしか硬い。呼吸が速くなっていることを自覚して、彼は右の口の端を上げた。全てが滑稽に感じられてならなかった。不安も緊張も焦りも罪悪感も何もかもが曖昧で、作り物のようで、馬鹿馬鹿しい。

 行き慣れたウルナたちの部屋へなら、迷わず辿り着くことができる。戸を叩いて返事がないことを確認すると、彼は部屋の中へと入った。やはり誰もいない。つい先ほどまでいたという形跡もない。彼はそのまま、庭へと出る大きな扉に向かった。

 最初に出入りした時は何とも思わなかったが、改めて見ると、それがいかに異質な存在であるか気づかされる。他の扉は全て同じ作りをしているのに、これだけが違った。よく磨き込まれているし、明らかに大きい。

 扉には鍵などかかっていなかったので、難なく外へ出ることができた。相変わらず強い風が吹く庭へと足を踏み入れ、彼は瞳をすがめる。薄曇りの中、木々はざわめくような音を立てながら揺れていた。彼の柔らかい金糸の間をも風が擦り抜けていく。

「確かこっちだったよな」

 あの時と同じ道を、逆方向へと歩き出す。記憶だけが頼りだ。草の感触を、匂いを確かめながら彼は進んだ。この先に何が隠されているのだろうか? 決定的なものであればいいのだがと、つい願いたくなる。

「相変わらず変化がないな」

 彼の緑の瞳に映る世界は、あのウルナの黒い瞳が見ているものと同じなのだろうか? 木々のさざめきを聞きながら、彼はそんなことを考えた。この味気ない教会も、殺風景な部屋も、穴も、他の者には違って見えているのだろうか? 外へ出ると違和感はますます強まるばかりだ。

 茂みによって区切られた庭の中を、彼はひたすら進んでいく。薄雲の合間から時々陽光が差し込む他は、代わり映えのしない景色が続いていた。だがこの先にはきっと何かがあるはずだと、信じて彼は歩く。

 不意に風が強くなり、弱った木の葉が舞い上げられて、彼の目の前を通り過ぎた。瞳を細めて腕を掲げた彼は、その場で立ち止まる。

 するとどこからか、かすかに歌声が聞こえてきた。鈴の音のような声は楽しげで、風の中では頼りないものの確かな生気を感じさせる。彼は瞳を瞬かせると、声の方へと歩き始めた。ここには誰もいないのではと思っていたが、そうでもなさそうだ。誰だろう? 少女の声のように聞こえる。

 しばらく進むと、左手の茂みが突然途切れた。その先には、大きな木が立っていた。巨木を取り囲むように花が植えられ、その傍には長椅子が置かれている。

 歌声の主は、その長椅子に腰掛けていた。少女だ。ふわふわと空気を含んだ銀の髪が、風に煽られて揺れている。空色のドレスはジブルの景色を思い起こさせ、彼は瞠目した。この教会に来て、初めて色鮮やかな衣服というものを見かけた気がする。声から想像していたよりも子どもではないようで、体つきはほぼ大人だ。

 瞳を閉じて歌っていた少女が、おもむろに目を開けた。風に舞い上がった髪を手で押さえ、ついで首を捻り、彼女は彼の方を見る。紫の瞳だった。ニーミナではもちろんのこと、ジブルでも見かけたことがない。取り繕うのも忘れて彼は固唾を呑んだ。

「あら、こんなところに。どなた?」

 風の中でもどうにか、彼女の声が聞こえた。動揺から足を止めていた彼は、長椅子から彼女が立ち上がるのをただ見守る。足首まである長いスカートが、生き物のように軽やかに揺れていた。

「あの、えっと、俺はゼイツです」

 何故だかいたたまれない思いに駆られながら、彼はとりあえず名を口にする。『記憶喪失』という理由があるので大丈夫だと自らに言い聞かせても、居心地の悪さは拭いきれなかった。数歩近づいてきた彼女は、不思議そうに小首を傾げる。

「あまり聞き慣れない響きね。でも素敵。よい名だわ」

「あ、ありがとう……。それでその、あなたの名前は?」

 差し障りのなさそうな問いを返すと、彼女は息を呑んであからさまに眼を見開いた。大袈裟な驚きように、彼は思わず半歩退く。聞いてはいけなかったのだろうか? 焦って取り繕う言葉を探すが、乾いた喉に引っかかって思うように出てこない。

「まあ……。わたくしのこと、知らない人がいるなんて驚きだわ」

「す、すみません。実は俺、記憶を失ってまして」

 心底びっくりしている様子の彼女に、慌てて彼は言い訳をした。どうやらこの教会の中では有名な人間だったらしい。

「まあそうなの?」

「ええ」

 そこまで考えたところで、ある一つの可能性を彼は見つけ出した。もしかしたら彼女が、ウルナが付き人をしているという『姫様』ではないか。だとすると、あの時ウルナが「この先は駄目だ」と言っていた理由も腑に落ちる。

「それは大変。あなたの記憶のために、わたくし祈らなくては。安心して、わたくしが祈ればきっと女神様は聞き入れてくれるわ」

 近寄ってきた彼女は彼を見上げる。背はウルナと同じくらいだろうか? もしかしたら年齢も、彼とさほど違わないのかもしれない。ただどこかふわふわとして覚束ない印象を抱く少女だった。のんびりとした口調のためなのか、声音のせいなのか、それとも容姿によるものなのかはわからないが。

「わたくしはルネテーラです。さあ行きましょうゼイツ」

 彼女はそう言って彼の右手を取る。小さな手だ。彼は慌てて辺りを確認し、それから彼女の顔を見下ろした。何の疑問も持たない紫の双眸には、不思議な輝きだけが宿っている。

「行くってどこに?」

「聖堂です。祈るのであれば聖堂でしょう?」

 それは彼女にとっては当たり前のことのようだった。その手を振り払うこともできず、彼は黙ってついて行くことにする。

 後に咎められたとしても、彼女が誘ってきたのだから理由はある。簡単には入れないだろう聖堂とやらに足を運ぶ絶好の機会だった。そこにはきっとウィスタリア教の何かを知る手がかりがあるはずだ。

 花々の前を通り過ぎると、彼女は建物の中へ入った。彼もその後を追った。そこは今まで見たどの部屋とも違う、華やかな場所だった。壁、床、天井が白いのは他の部屋と変わりないが、どれもよく磨き込まれている。真っ白だ。その他、窓にしろ鏡にしろテーブルにしろ椅子にしろ、全てが美を計算し尽くされたような印象を受けた。

「ここは……?」

「ここはわたくしの部屋です。一人で住むには大きすぎるのですけど」

 思わず疑問を口にした彼へと、気分を害した様子もなく彼女は答える。やはり、彼女の扱いは他の者とは違うようだ。

 おそらくこれらは前時代の物に違いない。今となっては誰も作り出すことのできない、失われかけている遺物だ。けれども、ぱっと見ただけでは欠けたところがわからないほどに手入れが行き届いていた。ジブルにもこれだけの物は残っていないだろう。少なくとも彼が目にする範囲には存在していなかった。

「こちらですよ」

 歩みが遅くなった彼へと、彼女が声を掛ける。部屋の中を突き進んだところに、一つの扉があった。これまた他とは違い重厚感が溢れている。彼女が本当に『姫様』であるならば、それはどういった存在なのだろう? これだけの物を与えられる人間に興味が湧いた。

 聖堂は、彼女の部屋のすぐ傍、廊下へ出て少し奥へと進んだところにあった。当たり前といった表情で進む彼女に続いて、彼もその中へと入る。扉が開け放たれた瞬間、暖かく甘い匂いが溢れ出してきた。

 そこは想像以上に広い部屋だった。光の溢れる、異質な場所だった。丸く膨らんだ天井には幾つも窓がはめ込まれていて、そこから陽光が差し込んでいる。

 しかし何より彼の目を惹くのは、左右に並ぶ見覚えのない花だった。ルネテーラの瞳と同じ紫色の花弁を持つ細長い花が、枝から垂れ下がっている。

 それらが放つ匂いなのか、聖堂の中には深く吸い込むと酔ってしまいそうな甘い香りがたちこめていた。よく見ると、中央を貫くように走る道の周りは土が剥き出しになっている。そこに数本の木が深く根を張っているようだった。

「ここが聖堂です」

 彼の手を離して、彼女は微笑んだ。そして白く輝く細い道をゆっくり前へ進んでいく。花に囲まれた道の奥には小さな像が立っていた。何となく女の像のように見えるが、輪郭が曖昧で断定はできない。

 一人で像の前へと近づいた彼女は、その前で両膝を折った。淡い陽光に照らされ、彼女の豊かな銀糸が煌めく。それは絵に描かれた光景のようだった。

「ウィスタリア様、どうか」

 鈴の音のような声が、聖堂の中に響く。同時に花が揺れたような錯覚に襲われた。生温い空気へと染み込んだ甘い香りを吸い込み、彼は瞼を伏せる。目眩がした。踏み込んではいけない場所に立ち入ってしまった、そんな妙な心地に胸の奥がざわめいた。

 ここは何なのだろう。この国は何なのだろう。根本的な疑問が彼の中を埋め尽くしていく。頭が重い。

「――大丈夫ですか?」

 気づいた時には、いつの間にやらルネテーラがすぐ近くまで戻ってきていた。心配そうな問いかけに慌てて頭をもたげると、紫の瞳が彼を覗き込んでいる。彼はうっすら笑みを浮かべると、首を縦に振った。

「ああ、大丈夫」

「本当ですか? 無理をしないでくださいね。不安でしょうけれど、無理やり記憶を戻すのはよくないって聞きますわ。でもきっと、女神様が何とかしてくださるでしょう」

 何の疑いも知らない無垢な視線を向けられて、彼ははにかんだ。息が苦しい。ウルナに見つめられている時とはまた別の理由で、いたたまれなさを覚えた。クロミオに期待の眼差しで見上げられた時と、似たような感覚かもしれない。

「心配しなくても大丈夫ですわ。あなたのような綺麗な方を、見捨てになるなんてことないです、きっと」

「き、綺麗……?」

 そこで思いも寄らぬ言葉を聞いて、彼はついうわずった声を上げた。そんな風に言われたことは、一度たりともなかった。ジブルではさほど目立たない容姿だ。もう少し上背があればと思ったことなら何度もあるが、決して特別なものは持っていない。

 確かに、ニーミナの大半の人間とは少し顔立ちが違うかもしれない。しかしウルナたちの方が整っていると彼は思っている。

「わたくし、こんなに綺麗な髪を見たのは生まれて初めてです。それにこんなに深い瞳も。この肌は日に焼けたのですか? お仕事は外で? あ、ごめんなさい。もしかして話してはならないと言われてます? わたくし、実は外のことは何もわからなくて」

 珍しいものを見つけたように、子どもが親に何かを報告する時のように、捲し立てながら彼女はそう告げた。好奇心に溢れた瞳を直視できずに、彼は曖昧な笑みを浮かべて目を逸らす。

 一刻も早く、この場を抜け出したいという気持ちが強くなった。できればこの聖堂についてもっと詳しく調べた方がいいのだが、そうするためには彼女をうまく言いくるめなければならない。今の彼に、それができる気はしなかった。

「ああ、すみません。ご迷惑でしたね。わたくしには言えないことが、皆さんにはいっぱいあるんですものね。知っています」

 突然、彼女の声の調子が落ちた。横目で彼女を見ると、両の瞼を伏せ、胸の前で手を組み合わせていた。その言葉が本当であれば、彼女にこの教会について尋ねてもさしたる情報は得られないだろう。ウィスタリア教についてならばまた話は別だが、内部の事情には通じてなさそうだ。

「さあ、行きましょう。あまりここに長居をしてはいけないんです」

 取り繕った微笑を浮かべると、彼女はまた歩き出した。彼の横を通り過ぎて、聖堂の外へと伸びる細い道を真っ直ぐ進んでいく。

 仕方がなく、彼もその後を追った。むせかえるような甘い香りを吸い続けているのはよくない気もする。二人の硬い靴音も、無数にあると思える花びらに吸い込まれてよく響かなかった。揺れる空色のドレスを追いかけて、彼は聖堂を出る。

「姫様!」

 廊下へと辿り着いた途端、聞き慣れた声がした。殺風景な白い回廊を走り寄ってきたのはウルナだった。顔を歪めたウルナは駆けてくると、転びそうな勢いでルネテーラを抱きしめる。「ひゃあ」と小さくルネテーラは声を漏らした。それでもウルナが手を離す素振りはない。

 そんな二人を彼は呆然と眺めた。やはりルネテーラが『姫様』だったのかと、頭の奥の冷静な部分が納得している。

「もう姫様、一人で出歩かないでください。庭で待っていてと伝えましたよね?」

 腕を回したまま顔を上げて、ウルナは語調を強めた。数回瞬きをしたルネテーラは、首を縦に振るとどうにか彼の方へと視線を向ける。それに続くように、ウルナも彼を見た。右だけ露わになった黒い瞳からは、何を思っているのか読み取れない。

「一人じゃないわ、ウルナ。この方も一緒だったもの」

「なおさら駄目です。殿方と二人になってはいけないと何度も言ったではないですか」

 ようやくルネテーラを解放して、ウルナはため息を吐いた。何故だか彼の胸も痛んだ。不思議そうに首を傾げるルネテーラの手を取り、ウルナはもう一度彼へと一瞥をくれる。

 誘ってきたのはルネテーラだと言いたくなったが、すんでのところで彼はそれを飲み込んだ。そんなことを言っても意味はないだろう。どうやって出会ったのかと問いただされたくもない。

「そうでした? ごめんなさい、わたくしの記憶にはないわ」

「私は何度も注意しましたよ。これからは気をつけてくださいね、姫様」

「はーい、わかったわ。ウルナ」

 ころころと笑うルネテーラが本当に理解しているのか、彼には怪しく思えた。ウルナもそう感じたのか、重たげな息を吐き出すと小さく肩を落としている。

 この少女を相手にするならば、ウルナも大変だろう。言い様は心外だったが仕方ないと彼も思った。見目には釣り合わず子どもだ。

「今度から気をつけてくださいね、姫様。ゼイツも、お願いですから姫様を刺激しないで」

 ウルナの声に抑揚はなかった。彼は曖昧に頷くと、黄ばんだ床へと視線を落とした。

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