第5話 魔法の手ね
仕事は、その日から始まった。横穴を掘り進めるという単調な作業は、ほぼ一日中続いた。
固い岩盤を削ってさらに穴を広げるのが目的らしいが、そう簡単に進むものではない。何せまともな道具がない。掘削機といった遺物は、この国には存在しないようだった。いや、あったとしてもまともには使えないのか。何にしろ、人力に頼るような状況では、作業は遅々として進まなかった。
ゼイツと同じ仕事をしている者は、何十人かいた。父に近いような壮年の男たちがほとんどだが、中には十代と思われる少年もいる。肌を焦がして必死に作業するその横顔を、ゼイツは何度も一瞥した。少年を含め、誰もが文句を言うことなく働いている。
穴の奥の空気は濁っている。見上げた先の薄青の空が時折かすむのを、ゼイツは醒めた心地で自覚していた。こんなところで作業を続けていたらすぐに体を壊してしまうだろう。しかし誰もが泣き言も漏らさずに、横穴を掘り続けている。疑問を差し挟む余地などないとでも言わんばかりに、一心不乱に。
「この間の穴は塞がってしまったからな」
そんな一言を聞くようになったのは、ゼイツがこの肉体労働に従事して五日目のことだった。誰とも会話を交わすことなく作業を続けていたゼイツにとって、それはある種の朗報だった。
少なくとも見ず知らずの者として疑われてはいない。怪しまれてはいない。物言わぬ人形のような印象を抱いているのか、皆はゼイツの存在など無視しているかのようだった。情報収集の上では、それはありがたい。
「事故さえなければ、もう少しで完成だったものを」
どうやら先日の事故のせいで完成間近だった穴が塞がったらしいということを、ゼイツは数日後さらに知った。体を動かすだけの単純作業は、それまで得られなかったものを彼へともたらした。
無論、日々に潤いはない。ウルナの持ってきた朝食をとり、クロミオに手を振って穴を訪れ、ひたすら掘る。日が暮れると部屋に戻り、ウルナたちと話をする。
それでも決まり切った生活の中で、少しずつでも何かが切り崩されていく。手がかりがなく焦っていた彼にとっては、期待が高まる時間が流れていた。
しかし依然として事故の内容はわからなかった。ラディアスはあの時、研究所の事故と言っていた。だがその研究所についての情報が一切入らない。穴を掘り続ける男たちは事故のことは心配しているが、研究そのものについては興味がないようだった。どこで行われるのかも、誰が何をやっているのかも、口にしようとはしない。
けれども辛抱強くゼイツは待った。いつか誰かが何かを言い出すのではないかと期待して、ひたすら堪えた。ここにいるような人々は何も知らない可能性も高いが、それでも情報は多い方がいい。何が手がかりとなるかはわからない。彼は穴を掘り続けながら研究の中身について考えた。
それがもし禁忌の力に関することであれば、やはり力を引き出すための実験だろうか? そうなると事故が起こって横穴が塞がるくらいだから、既にそれなりの段階に来ているはずだ。あれだけの地響きが起きていたのだし、かなりの規模だったのだろう。
それにウルナはゼイツの怪我を事故によるものだと思い込んでいた。ということは、何らかの形で武器として使うところまで来ているのだろうか? 考えれば考えるだけ、得体の知れない恐怖に身の毛がよだつ。想像すらできない力、技術というものは、不安しか生み出さない。
「いつになったら終わるんだろうな」
様々な思いを込めた言葉が、ゼイツの口からこぼれていた。その答えを知る者は、この世界にはいなかった。
冷たい空気が流れ込んでいる廊下に、不意に力強い靴音が響いた。心ここにあらずな様子で歩いていたウルナは、それに惹かれるように振り返る。
緩く束ねられた黒髪が揺れ、生成り色の服の上を滑る。手にした籠も揺れた。彼女が視線をやった先の曲がり角、その向こうから姿を現したのはラディアスだった。表情が険しい。
「ラディアス」
「ウルナ、探したぞ」
「そうだったの? ごめんなさい。せっかくだから姫様にもお茶をと思って」
小さな籠を見下ろしながら、ウルナは薄く微笑んだ。クロミオがいつもこっそりと摘んできてくれるお茶の葉を、姫――ルネテーラは気に入っている。先日ウルナが持って行った時にもルネテーラは大層喜んでいた。ここ数年は異常な低気温が続いているためなかなか見つけるのは難しいが、それでも探し出してくれるクロミオは一種の天才だ。少なくともウルナたちはそう思っている。
右の瞳を細めたウルナを見て、ラディアスはあからさまに大きなため息を吐いた。誰もいない白い廊下に、鬱屈とした吐息が染み込んで、広がる。彼は眉根を寄せると、くたびれた上着の襟を正した。そして籠と彼女の顔を見比べる。
「またか。休んでいろと言ったはずだが?」
「大丈夫よ。今までちゃんと休んでいたわ」
「これからも、だ。そんなにうろうろとするな。また熱を出すぞ。お前はそんなに強くはないんだ」
「――どうして? 私はただ姫様のところへ行くだけよ」
顔を背けた彼女は、そのまま窓の方を見た。拒絶が露わになった横顔を見て、彼は小さく嘆息する。誰もいない廊下で、それはただ一つの音となった。代わり映えのない景色を眺めていた彼女は、黙したまま瞼を伏せる。
まだまだ沈む気配のない日が差し込んでいるにもかかわらず、この廊下はいつも冷え込んでいる。それが建物の構造の問題なのか、単に外気温の影響なのか、それともこの場所の本質なのかは、誰も知らない。
籠を持ち上げて、彼女はそれを抱えた。冷えた指先に力が入り、わずかに白くなった。言葉はないのに、両者ともその場に足を縫い止められている。話を終えて立ち去ることができない。
沈黙に堪えきれず彼女が肩越しに振り返ると、彼と視線が合った。今度は彼女も、目を背けはしなかった。唇を引き結び、籠を強く抱きしめる。彼はやおら頭を傾けた。日を浴びてわずかに茶色く染まった彼の瞳は、剣呑な光を宿しながら彼女を捉える。
「その体でか?」
彼の低い声が、彼女の鼓膜を揺らす。憎しみさえこめられているかのように、苦々しく吐き出された言葉が、彼女へと刺さった。震わされた空気が一種の力となり、彼女の体を貫いていく。黒い布で覆われた左の瞳へ、彼女はそっと手をあてがった。そして息を呑んだ彼へ、曖昧な微笑を向ける。
「ええ、この体で。私にはこの体しかないもの」
「俺はそういう意味で言ってるんじゃない」
「わかっているわ。でも私にはそうするしかないのよ。姫様の隣にいなくては。姫様を一人にはしておけないわ」
彼女は抑揚のない声で言い切った。眉をひそめた彼はいたたまれない様子で肩をすくめ、耳の後ろを掻く。張り詰めた沈黙が、また二人の間に横たわった。雑音のない世界で、ただ光の移り変わりだけが時の流れを告げている。再び窓へと視線を向けて、彼女は口を開いた。
「ごめんなさい、あなたが心配してくれているのはわかっているんだけど」
顔から左手を離すと、彼女は籠を両手で抱えた。彼は何も言わずに首を縦に振った。
窓の向こうでは薄雲を押し流していった風が、また次の雲を運んできている。恵みをもたらす暖かな陽の光は、何度も灰色の膜によって遮られていた。その度に廊下に二人の影が生まれては消え、また生まれて、消える。
強ばっていた彼の唇が何度か動き、しかし音を立てずに閉じられた。しばらくそれを繰り返してから、彼は諦めたように瞳を伏せる。そこまできてようやく、明確な意志を持って彼の低い声が空気を揺らした。
「わかっているならいい。ただ、言いなりにはなるなよ。お前の体はお前のものだ」
「そうあって欲しいわね」
「――ウルナ」
「ごめんなさい」
泣いているようにも笑っているようにも見える微笑を、彼女は浮かべた。彼は顔を歪めて頭を傾けると、肯定も否定もせずに相槌だけ打ち、踵を返す。硬い靴音が廊下へと反響した。彼女はその後ろ姿をしばらく眺めてから、彼とは逆方向へと歩き出す。くるぶしまであるスカートがひらりと翻った。衣擦れの音がする。
誰も通りかからない廊下に、彼女の影が淡く映る。黄ばんだ白い床、壁に、揺れる草木の輪郭も焼き付けられている。つま先を目で追いながら彼女は前へと進んだ。彼女と彼の足音が、互いに遠ざかりながら不可思議な旋律を奏でている。しかしそれも、次第に弱まり消えていった。
狭い廊下を歩いて行くと、しばらくもしないうちに目的の部屋が現れた。他よりも一回り大きな扉には、細かく花の模様が刻み込まれている。それは既にこの世には存在しない『藤の花』だ。この国を、女神ウィスタリアを象徴しているとされる、誰も目にすることのできないもの。目にすることができないとされているもの。
立ち止まった彼女は、手の甲で軽く扉を叩いた。小気味よい音の後、すぐに中から返事が聞こえてくる。笑うように軽やかで、華のある透明な声が、止められていた時間を動かす。ウルナは破顔すると、重厚感溢れる木の取っ手を片手で引いた。かすかに軋んだ音がする。
「ウルナ!」
扉を開けると、ウルナの目の前には一人の少女がたたずんでいた。ふわふわ揺れる銀の髪を背に流し、薄桃色のドレスを身に纏った少女――ルネテーラが、紫の瞳を輝かせている。ウルナはルネテーラに微笑みかけ、部屋の中へ進んだ。
「姫様、ちゃんとこちらにいらしたんですね」
「前にここを抜け出したら、ウルナ怒ったじゃない。私、ウルナが怒った顔が嫌いよ。だから我慢するわ」
「そうしていただけると嬉しいです、姫様」
扉が閉まると、そこは静謐な檻となる。厳かで、華やかで、品があり、かつ世界と断絶された場所だ。くすんだ金の窓枠も、窓下に飾られている花々も、天井から下げられている明かりも、大きな鏡も、体が沈み込みそうなふかふかのベッドも、緩やかな曲線を描くテーブルも椅子も、全てが前時代からの遺産だった。ここは過去に囚われた部屋だ。よく磨かれた白い壁にはめ込まれた窓だけが、外の世界への唯一の道のように見える。
ウルナは真っ直ぐテーブルに向かうと、その上に小さな籠を載せた。ルネテーラは楽しげに笑いながら、ウルナの後をついてくる。
「なあに? 何を持ってきてくれたの?」
「お茶です。またクロミオが摘んできてくれましたよ」
「まあ、本当!? 嬉しいっ。クロミオにお礼を言っておいてね。いつもありがとうって」
ルネテーラが手を叩くと、軽やかな音が部屋の中で反響する。ウルナは微笑んで頷くと、籠からポットを取り出した。それをルネテーラはしげしげと見つめている。こぼれんばかりに見開かれた紫の瞳が、白いポットとウルナの横顔を交互に見つめた。
「ウルナの手は魔法の手ね」
「そうですか?」
「いつも素敵な物を持ってきてくれるわ」
「姫様が喜んでくださるなら私は嬉しいです。きっとクロミオも喜びますよ」
白いカップを籠から二つ取り出し、ウルナはそれにお茶を注いだ。立ち上る湯気から、ほのかに優しい香りが漂っている。人をほっとさせることができる力を持った、暖かい匂いだ。
「でも、できたらわたくしもウルナと一緒にここを出たいわ。その魔法の手で連れ出してくれたらいいのに」
ルネテーラの声音が、一寸陰りを帯びた。ポットを籠の中へと置いて、ウルナは顔を上げる。テーブルへと近づいたルネテーラはその表面を撫でていた。布をたっぷり使った袖が、淡い軌跡を描いている。ウルナはわずかに眉根を寄せると、ゆるゆると首を横に振った。右の黒い瞳が細められる。
「それは私にも無理ですよ、姫様」
「わたくし、この部屋の空気が嫌いよ。ウルナ」
カップを一つ手に取って、ルネテーラはウルナを見上げた。揺れる紫の双眸が、真っ直ぐウルナへと向けられる。ウルナはその眼差しを受け止めながら、今度は相槌を打った。緩く束ねられた髪が、服の上を滑る。
「わかっています」
全てを断ち切るような、それでいて包み込むような言葉だった。ウルナがそれ以上答える気がないのがわかると、ルネテーラは唇を尖らせる。ついで不満げな吐息をこぼすと、カップに口づけた。温かい湯気が、ルネテーラの白い頬や、鼻、瞼へとかかる。ルネテーラが俯くと、柔らかな銀糸が液面に影を落とした。
「ずるいわ、ウルナ。そんな言い方」
「すみません」
「ううん、いいの。わたくしにはわたくしの役目があるってわかっているから。ただ、寂しいのよ。それで我慢できなくなるの」
カップを両手で包み込み、子どものようにルネテーラは首を横に振った。ウルナは黙したまま、そんなルネテーラを見つめている。決して安易な慰めの言葉を、ウルナは口にしなかった。
つんとそっぽを向いたルネテーラは、そのまま手近な椅子に腰掛ける。白い背に紋様が刻まれた、いかにも古めかしい物だ。だが、これもよく磨き込まれている。
「ねえ、ウルナ。また外へ出ては駄目かしら? この間もまた事故があったでしょう? 地響きがしたわ。庭がどうなっているのか気になって」
カップに唇を寄せた後、振り返らずにルネテーラは尋ねた。無邪気にも拗ねているようにも聞こえる調子で、それでいてどこか泰然としたものを感じさせる声が、広い部屋に響く。ウルナはルネテーラの後ろ姿を横目にしながら、もう一つのカップへと手を伸ばした。
「ええ、また事故が起こりました。ひどい事故でした。ですから姫様、もうしばらくお待ちください。落ち着いたら庭へ出られるように手はずを整えますから」
「本当に本当? ウルナ素敵! 嬉しい!」
淡々とした調子でウルナが答えると、ぱっと顔を輝かせてルネテーラが振り向く。空気を含んで揺れた銀の髪が、薄桃色の背で踊った。ウルナはゆっくり首を縦に振り、再び右の瞳を細める。
「はい、必ず。ですからもう少しだけここでおとなしくしていてくださいね。一人で外に出てはいけませんよ」
「わかったわ、ウルナ」
ルネテーラは顔をほころばせた。ウルナは薄い笑みを浮かべると、かすかに揺れる液面へと視線を落とした。
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