15-2

 網屋は、土曜か日曜の昼はグリズリーコーヒーでセットメニューを食べると決めている。

 たまには人が作ってくれたものを食したい。というより、この真夏でもないのに異様に暑いなか、自分一人のために何か作るのも面倒くさいのだ。

 相田に作る食事は朝と夜。昼食は学校の食堂で取るため、作らない。土日は各自適当に済ませている。朝のうちに惣菜を大量生産してタッパーに詰め、ついでに白米も詰めて巨大弁当箱状態にして持たせているので問題はあるまい、と思う。


 に、しても。まだ真夏ではないはずだ。それなのに、ニュースでは連日「最高気温」の文字とともに熊谷駅前が映し出される。またここかよ、と呟くのは既に習慣だ。


 げんなりしながら、網屋はいつも通りにグリズリーコーヒーへ向かい、十分もしないうちに到着するといつも通りに駐車場の一番端に車を停め、いつも通りに店のドアを開けた。


「お、網屋さん。いらっしゃいませ」


 涼しい店内の空気がドアをすり抜けて漏れる。カウンターの中には椿がいて、グラスを磨いていた。客の姿はほとんど無く、たった一組だけテーブルが埋まっている。


「ちわーっす。今日ってツーリング日だったっけ?」

「うん。なのでこのザマですよ」


 なにせ、客の大半がツーリング目当てである。当日ともなればどうしてもこうなる。毎週のようにコーヒー目当てで通い詰め、ぼんやり啜っているうちにこの現象にも慣れた。

 網屋はいつも通りにカウンター席に座って、既に決めていた注文をメニューも広げずに告げる。


「バゲットサンドのセット下さいな。ローストビーフで」

「お飲み物は」

「そりゃあ水出しコーヒーでしょ。何のために昼ちょっと過ぎまで待ったとお思いか!」

「ありがとうございます! 長時間格闘した甲斐があるってもんですなぁ!」


 椿は揉み手でニカッと笑ってみせた。水出しコーヒーは椿の担当である。朝も早くに起き出して、温度と湿度の両者と闘いながら睨み合いを続けた努力の結晶なのである。

 網屋自身も、コーヒー豆を麦茶用のボトルに入れて冷蔵庫に放置するというざっくりとした荒業で水出しコーヒーを作ってはいるが、やはり店の味には敵わない。だからこそここに来ているのだ。


 バゲットサンドを待つ間、カウンターの隅に置いてあるバイク雑誌を手に取る。今月号はまだ見ていなかったなと流し読みしていると、雑誌の中頃に椿の所属するチームの記事を発見した。しかもカラーだ。

 最近調子を上げてきている、ドラグーンレーシングファクトリーの瀬畑三郎についての記事であった。今期の優勝候補と目される瀬畑はその甘い見た目もあって人気がある。

 そんな記事の片隅に、網屋はひどく奇妙な写真を見つけた。眉根を寄せて首を傾げてしまう程の威力だ。

 こいつは一体どうしたもんかとカウンター内の椿を見ると、ちょうどセットが出来上がったところだった。


「お待たせしました、ローストビーフのサンドセットです」


 バゲットを半分使った、結構な大きさのサンド。中身もこれまたご結構なハイボリュームで、さすがバイカー御用達の店と言ったところか。

 とりあえずアイスコーヒーに口をつけて、網屋は椿を呼んだ。


「椿さん、ちょっとヨロシイか」

「さんはいらん! さん、は! 呼びつけでよろし。何度言ったら分かるか!」

「いやでもだって、心の準備が……」

「何を軟弱なことを言っとるか。デモもクーデターもない」

「椿さんだって、俺のことさん付けで呼ぶじゃんよ」

「私は良いんです。こっちが年下ですから」

「ずるッ! ずっるぅう!」

「で、何でしょ。追加注文ですか」

「はぐらかされた……まあいいか。あのさ、この写真なんだけど」


 雑誌を広げて指し示す写真は、三人の人物が写っていた。椿と、佐伯と、チームのレースクイーンである。ただし、レースクイーンがバイクに跨り、その傍らでポーズを決めつつ傘をさしているのは佐伯で、背後に棒立ちでトロフィーを掲げているのが椿。


「これさ、盛大に間違ってないか」

「うんにゃ、正しい姿ですよ」


 平然と言い放つ椿。ご丁寧に説明までしてくれる。


「たまちゃん……ええと、この子、レースクイーンの子は、バイク好きでこの世界入ってるから問題なし」

「言い切った」

「佐伯は、うちのチーム内で一番綺麗にポージングできる奴だから問題なし」

「マジでェ」

「私はトロフィー持つ係だから問題なし」

「係なのか。あとコレさ、瀬畑さん写ってないでしょ。瀬畑さんの記事なのに」

「この写真撮ったのがさぶちゃん」

「ええ?」


 椿が指差す先に、小さい文字でこう書いてある。

『左から 佐伯司 堀口珠姫 神流椿 撮影・瀬畑三郎』

 二の句を継げない網屋に、椿は容赦なく追い打ちをかけに来た。


「何せうちのメカニック、フォーメーションCできますからね」

「ふぉ、フォーメーション、C?」

「こう、レースクイーンが複数集まって、左右対称に展開してポーズ決めてるやつ」

「すげえな!」


 ここで、先客が会計に来たため会話は一旦途切れる。レジ脇に置いてある焼き菓子を買ってゆくのを見て、網屋も何か帰りがけに買おうかな、などと考えた。


 再び雑誌に目を落とすと、つい、気になる名前ばかり見てしまう。会計を終えた椿が戻ってきてもそのままであったので、しばしの沈黙に包まれた。

 ふと顔を上げると目が合ったので、請われたわけでもないのに言い訳じみたことを口にしてしまう。


「いやあ、この人の名前、『たまき』さんっていうんだなあ、と」

「おっ、いいところに目を付けますなあ。たまちゃん、我がチームが推す一番の美人ですよオキャクサーン」

「いやいやいや、そういうんじゃなくて、いや、確かに美人。うん。じゃなくって。実は、俺の弟の名前も『たまき』っていうの」

「へえ、男性の名前で?」

「うん」


 網屋にごく僅かに浮かんだ、何か悲しみのようなもの。気のせいだろうか、と椿は思う。網屋は笑いながら話しているから。


「俺んとこの兄弟、全員男なんだけど、親が『男でも女でもいける名前にしよう』ってんでこのザマですよ。上から順に、要、希、環。環状線の環、ね」

「なるほど、確かに男でも女でもいけるわ。そのご兄弟は今、こっちにいるんですか?」

「……あー、えーと」


 どう返したものか。網屋は一瞬悩む。だが結局、隠す必要もないことに気付いて口を開いた。


「もうね、いないんだ。家族全員、亡くなっちゃってね」

「あ……ごめんなさい」

「そんな、謝らないで。昔の話だし、もう何ともないから。七年前にあった、熊谷市一家強盗殺人事件って知ってる? 俺が高一だったから、そっちは中三のはず」

「ありましたね、覚えてます。……まさか」

「察しが良くて助かるよ。そ、俺がその唯一の生き残り。その場にいなかった、次男」


 自分で思っていたよりずっと、あっさり話すことができたな。網屋の感想はその程度であった。前は思い出すのも辛く、ちょっとした切っ掛けでフラッシュバックしては嘔吐を繰り返し、眠れぬ夜を過ごしていたというのに。

 復讐を完遂を境に、傷は少しずつ癒えてきているのだろう。良くも、悪くも。


「私も、小さい頃に母親を亡くしてるんですよね」


 網屋以上にあっさりと、椿が言った。息を呑む網屋。


「ホント、小さい頃で……まあ、うちの母は病気で亡くなったんですけど、ずっとベッドから出られない状態で。小さい私と、あんまり変わらないくらいの細い手で。……だから、網屋さんとはそりゃあ全然違うんだけど、家族を失った時の何とも言えない気持ちは、少し、分かります」


 慎重に選ぶ言葉の隙間には多分、彼女が生きてきた分の様々な感情があって、それを今、網屋は計り知ることはできない。だが、その重さは分かる。その重みを少し、切り分けてくれたことも。

 だから、網屋はただ


「……ありがとう」


 としか返せなかった。


 場の空気がやけにしんみりしてしまって、網屋は無理矢理に話題を変えた。


「そういえばさ、先週はおめでとうございます。第四戦セミ耐久」

「ありがとうございますー! チェックしてくださったんですか、嬉しいなあ」


 先週の日曜日に行われたJSB1000第四戦。このレースはいつもと違い、百二十マイルのセミ耐久となっている。このレースで椿は一位通過を果たしたのだ。

 当然、先週のグリズリーコーヒーに椿はおらず、網屋は熊の如きマスターや他の客と一緒にネット中継を見ていた。ちなみに、相田は豪徳寺と一緒に車をいじくりながら見ていたそうだ。


「このままの勢いで優勝狙っちゃいますよ。打倒さぶちゃんですよ」

「手近な強敵から倒すスタイル! 容赦ねえ!」


 実際、椿も優勝候補へと肉薄しているのだ。学業を終えてレースに専念したらどうなるか、と、網屋は内心思っている。レーサーっていうのは皆そうだ、どいつもこいつも火の球みたいな奴ばっかりだ。ごちゃごちゃしたしがらみなぞかなぐり捨てて、アスファルトの上でただ速さの中に頭の天辺まで浸かっているのだ。

 おお怖い怖い、と頭の中で呟いた時だ。


 網屋のスマートフォンが呼び出し音を鳴らした。誰かと思って手に取れば、相田からだ。外に出ようとしたが、椿が「他に誰もいないから店内で大丈夫」と言ってくれたので甘えることにする。


「はいもしもし」

『すんません、相田っす。突然なんですけど、陣野病院って土曜の午後もやってましたっけ?』

「あー、やってるやってる。まだ開いてるぞ。どうしたよ」

『いやあ、両親が帰ってきてですね』

「うおっ、相変わらず突然だなぁお前んちのご両親は」

『ですよねー。で、父が風邪引いたっぽくって。熱出ちゃった』

「マジかよ。まだ間に合うだろ、行っとけ行っとけ。あー、じゃあ、今日の晩飯はいらないか」

『そうっすね。多分実家でメシ食います』

「じゃあ、後で何か持ってくよ。ご挨拶もしたいし」

『了解です。すみません、助かりました』

「いえいえ。じゃあ後でなー」


 通話を終えて、網屋は相田の両親を思い出す。何年顔を見ていないだろうか?

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