12-7

 相手から電話は掛かってきたのだろう。常套手段だ。そうやって、家族ごと取り込んでゆくのである。

 頭の中で、それらの知識が踊っては消えた。どのような手段で誘拐拉致、そして監禁し、どのようにして洗脳するのか。一つ一つがはっきり明確に分かる。

 まんじりともせずに、二十四時間が過ぎてゆくのを待った。それを繰り返す。今日も二十四時間。明日も二十四時間。秒針が動く。また今日も。



 警察が動いたと連絡が入ったのは、四日後の早朝であった。報道番組でも突入の様子は流れ、被害者の家族のもとに「信者」達は帰ってきた。

 幹部と思わしき人間はいない。尻尾切りだと嫌でも分かる。他の地域に支部はいくらでもあるのだろうし、信者はいくらでも増やせるのだろう。


 鎮鬼は警察署に、家族を引き取るべく赴いた。

 警察署には様々な人間が、様々なことを繰り広げている。家には帰らないと言い張る人間。家族の呼びかけに答えない人間。泣き喚く人間。安堵の表情を見せる人間。

 その人間達の間を潜り抜けて、鎮鬼はようやく姉の姿を発見した。


「さっちゃん!」


 小波には、声は届いていないようだった。聞こえてはいるのだろうが、それが「自分の弟」の「自分に対する呼びかけ」だと認識できないのだ。それでも鎮鬼は小波の腕を掴んだ。


「充さんは?」


 小波は無表情のまま。腕を掴まれたということに対しての反応はあったが、それ以外のアクションは何もない。

 そこに警察官がやってきた。手には書類を持っている。


「ご家族の方ですか?」

「はい」

「お名前は」

「シズキ・シオノです。こちらは姉のサザナミ・クロダ。あの、ミツル・クロダはいませんか」

「ミツル・クロダさんですね? ちょっとお待ち下さい」


 書類をめくる。小波の名前を見つけ、その周辺を探すが。


「……年齢は?」

「二十六歳、男性です。サザナミ・クロダの夫です。先月に捜索願を出しました」


 資料に彼の名前はなかった。警察署内にもいなかった。



 警察官に詳細を告げ、鎮鬼は小波の手を引いて自宅へと戻った。洗脳の度合いが深くないことだけが救いである。小波は逆らうことなく帰宅してくれた。


 疲れて、とても疲れて、何もできないままその晩は眠ってしまった。


 翌日、鎮鬼は朝食を二人分作った。下手をすると食事拒否が出るかと思ったが、小波は何も言わないまま食事を口にした。

 学校には事情を説明し、長期の休暇をもぎ取った。


 戦いはこれからだ。電話やら片付けやらを終えて一旦落ち着くと、鎮鬼は眼鏡を拭いて掛け直し、ダイニングテーブルに呆然と佇んでいる小波と対峙した。

 視線の焦点が合っていない。鎮鬼は椅子を動かして、小波の正面に来るよう調整してから、一番楽な体勢に座り直す。


「……さっちゃん」


 呼び掛けても応えない。


「さっちゃん、自分の名前、覚えてる?」


 瞳孔に反応はない。悲しくなったが、悲しんでいる場合ではない。

 用意した水を一口含んで、鎮鬼は口を開いた。


「黒田小波。小さい波って書いて、さざなみ。長女。十一月二十二日生まれ。二十五歳。今年、二十六歳になる」


 一気に喋って、反応を待った。しかし全くアクションはない。

 鎮鬼は目を閉じた。大きく息を吸って、吐き、記憶を呼び起こす。最も古い記憶から、ゆっくりと。


 もう一回水を飲んで顔を上げた。笑顔だった。


「家の庭にさ、鉄棒あったの覚えてる? いっちょまえに、でかいのとちっちゃいのと。そのでかい方にぶら下がって、どれだけ遠くに飛べるか競争したよね。地面に線引いてさ、次はその線を越える! とか言って。さっちゃんにはいつも負けてたなぁー。ちっちゃい頃って、体格差激しいから仕方ないんだけど」


 水を含む。一回目と二回目の時間間隔とほぼ同じ。こうして強制的にペースを作り出す。


 いっそのこと催眠暗示にかけてしまおうか、とも思った。しかし、それではリスクが大きすぎる。教義を引き抜いて解体し、穴の空いた箇所を再構築するしか無いのだ。

 いや、再構築による解体だ。教義を否定し、記憶を引きずり出す。もしくは、与える。

 確かに再構築などというものは洗脳と同意語だ。やっていることなどほとんど同じだ。しかし、自分というフィルターを通した記憶であっても、共通した記憶を与えることによって、もしかしたら僅かに残っている本人の記憶が目覚めてくれるかもしれない。いや、目覚めるはずだ。


 不安材料は全て否定しろ。それを相手に悟られるな。フェイクでもいい、自信に満ちた表情を相手に見せることによって、己自身をも騙せ。相手は鏡だ。優秀な役者が、観客を鏡に見立てて役を作り上げるように。


「体格差って言ったらさあ、よくお母さんが『早く大きくなれよー』とか言って、ご飯てんこ盛りにしてくれたよね。さっちゃんのまで大盛りにして。で、さっちゃん全部食っちゃうんだもん。それじゃあいつまで経ってもさっちゃんの身長越せないじゃーん」


 かすかに瞳孔反応。思ったより早くそれが出た。

 何を見た? 何に反応した?息を止めて相手の様子をうかがう。

 しかし反応は一瞬のことであって、すぐに無反応状態に戻ってしまう。


 焦ってはいけない。いけない。

 大きく溜息をついて、情けない顔で笑う。泣きたいくらいの気分だったが、泣くこと自体が悲しくて、泣くのはやめた。


「あとさあ、さっちゃん覚えてる? そろばん塾の庭に白いザクロの木があって……」


 他に術は無かった。頭の中に浮かばなかった。外部からの記憶提示による再構築。こんな微弱な影響力しかない方法以外、他に手段はないのだ。


 自信を持て。どんなに時間がかかっても、必ず成功する。不安を否定しろ。ライフセミナーの素人トレーナーが語る、安っぽいポジティブシンキングでも構わない。全てを自己暗示に利用しろ。否定的観念を持った瞬間に失敗する。そんな訳にはいかない。


 客観性を失っている分、下手をすれば自分自身を解体してしまう恐れもあった。鎮鬼はそれを十分承知していた。しかし、自分でやらねば気が済まないのだ。とてもではないが人に任せておけない。それが、自分自身の不安を紛らわせるために取った手段だと分かっていても。また、充が発見されていないというのも鎮鬼を追い詰める要因の一つだった。

 客観的に自分の姿を見つめることもできただろう。だが、それをいちいち分析している暇は無かった。無意識下のことなどかまっている場合ではなかったのだ。必死だった。相手は病院の患者ではなく、ましてや、解体してしまって良いとお達しが出ているわけでもない。

 それだけは許されない。自分自身が許さない。それでは家族を救えない。


 食事と睡眠の時間を除いて、鎮鬼は姉との思い出を語り続けた。翌日も、その翌日も。

 時には目を閉じ、時には歌うように、優しく、優しく。

 鎮鬼は語っているうちに、再構築のために思い出話をしているという現実を忘れた。それほどに集中し、没頭し、己自身をその行為に巻き込んだ。


 夜、眠りに就く寸前の僅かな時間。この時間だけは襲い来る不安から逃れることはできなかった。

 充はまだ見つからない。姉はまだ回復しない。焦りが心の中に生じる。頭を抱えて体を小さくしても、自分の内側から溢れ出す不安からは逃げられない。ただ、不安だけ。不安に負けて全てを投げ出すことはできず、不安を簡単に打ち負かすほど過剰な自信家ではなく。

 気が狂ってしまったらどんなにか楽だろう。

 しかし朝は来る。否応無しに現実を突き付けられる。自分はまだ、狂っていないことに気付く。

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