第119話 悪所への逃亡

 夕暮れ時に、ヨハネは門から街の外へ放り出された。


 両ひじ、両ひざ、背中の痛みに加えて、全身が痛んだ。彼は痛みと空腹でよろめきながらも立ち上がった。

 ボロボロになった服を返されたが、金も食べ物もなかった。彼は足を引きずり、流民のように、悪所あくしょに向かって歩き始めた。いくらか歩いた所で、彼は振り返った。


 五年前、奴隷用の馬車で、この門からこの街に入った。様々な経験をした。街の建設にも携わった。そして今そこを追われた。

 だが、ヨハネの心に感傷は起こらなかった。そんな暇はなかった。清々しさまで彼の心に訪れた。彼にはこれから成し遂げなければならない目標があるからだった。痛みに耐えながら、草原を横切って彼は悪所あくしょへ再び歩き始めた。


 悪所あくしょは街の外にある丘の中腹にあった。その丘の斜面に多くの建物が、石にこびり付いた苔のように立ち並んでいた。夜になると栄える悪所あくしょは、夕暮れ時の草原からはよく見えた。そこへは細い道が草原の中を続いていた。

 ヨハネはその道を弱々しく歩いた。


 嬌声きょうせい喧騒けんそうが彼の耳に届いてきた。

 悪所あくしょの入口には、木製の門が一つあった。門は大きく開かれ、門番はいなかった。門から伸びる表通りの幅はエル・デルタのそれよりずっと狭かった。通りの両側には木造二階建ての店が立ち並んでいた。一階では飯や酒を売る店が、調理の臭いを通りに流していた。それらの店の二階には、派手な服を着た女たちが通りを見下しながら、スカートのすその奥をちらつかせて男たちを呼び込んでいた。

 ヨハネは空腹で倒れそうだった。最後に食事を採ったのはいつだろうか、そう考えながら自分が一文無いちもんなしだと思い出した。とにかく『イゴールの館』を見つけなければならなかった。通りにはたくさんの客引きが道行く男たちのそでを引っ張っていた。だが、誰一人としてヨハネには近づいてこなかった。彼は傍目はためには食い物を求めてさ迷う乞食こつじきにしか見えなかっただろう。やむなく彼は自分から客引きの男に尋ねた。


「あの、『イゴールの館』という木賃宿きちんやどを知りませんか」

 彼がそう尋ねると、客引きの男は言い放った。

「なんだ、物乞いか。向こうに行きな」

 他の客引き達も大同小異だった。ヨハネは空腹と絶望で卒倒しそうになった。

 目の前に食い物がありながら彼は飢え、人波の中に居ながら彼は孤独だった。


 彼は気力を振り絞って、女の客引きに声をかけた。

「『イゴールの館』ねえ。ああ、表通りに普通の宿はないよ。裏通りに行きな。その木賃宿きちんやどは大きいからすぐ分かるだろ」

 その客引きは潰れた声で言った。

 ヨハネは店の間にある細い道を通って裏通りに入った。そこは表通りとは違い、狭くて暗い道だった。その通りに立ち並ぶ家々は廃材を組み合わせただけの粗末な家だった。扉さえもなく、通りから中が丸見えだった。どの家も、中は人が三人寝ころべるほどの広さしかなかったが、そこに五、六人の人間が折り重なるように横になっていた。

 一つの家の中から、痩せた子供が歩くヨハネを寝転がったまま見上げた。頬はこけ、皮膚は灰色で皮膚病の跡が首筋に痛々しく残っていた。

 ヨハネは顔を反らして、道を進もうとして足を延ばした。彼は水溜まりの中に片足を突っ込んだ。泥水と汚物の混じった不潔な水だった。彼は不快感で顔をしかめた。悪臭が彼の鼻を突いた。


 そのまま裏通りを進むとやがて大きな二階建ての家が見えてきた。しっかりとした木造の家だった。その家の壁から通りに突き出た棒には、木製の看板がかかっていた。それには『イゴールの館』と彫り刻んであった。ヨハネはその建物の入口まで足を引きずりながら歩き、扉を開けるとそのまま内側に倒れ込んだ。

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