第109話 悪魔の形相

 三人は、歩いてアギラ商会に向かった。みな一様に表情は硬く、拳を握り締めて歩いた。ヨハネはあの奴隷小屋にマリアとメグが閉じ込められているかもしれない、と想像しただけで気が狂いそうだった。彼は自然に速足になり、その顔は悪魔の形相に変化していた。


「おい、ヨハネ。お前、そんなんじゃ、カピタンに警戒されるぞ」

 ペテロが言った。

「私は冷静だ」

 ヨハネは答えた。ペテロはそんなヨハネの肩を掴むと自分のほうを向かせてヨハネの両頬を両の手で軽く叩いた。

「いつも通りの顔と仕草でカピタンに会うんだ。おかしな様子を見せればすぐに気取られるぞ」

 ペテロはヨハネより背が高かった。ヨハネはペテロを見上げて言った。

「……ああ、ペテロ。お前には子供の頃から助けられてばかりだな」

 ペテロはいつもの調子で答えた。

「そりゃそうさ。俺はお前の兄貴分だからな。ははっ」

 ヨハネは少しだけ緊張と興奮が和らいだ。

 

 商会に入り、二人は三階まで上がった。ひらの奉公人であるパウロは二階以上には上がれないため、一階の食堂に留まった。二人はカピタンの部屋の前で待たされた。ここから先が勝負だった。決して感情を露わにしてはいけない、織物工房への執着に気付かれてもいけない、相手は百戦錬磨ひゃくせんれんまの奴隷商人、ヨハネはそういう勝負に挑まなければならなかった。

 

 中から呼び声がした。二人は深呼吸をすると、ゆっくりと扉を開けて中に入った。深々とした絨毯に、黒檀の机、そして長方形の大机が会議用に置かれていた。そしていつもの鷲の絵がヨハネを睨みつけていた。人間の心を丸裸にするようなその目は、ヨハネの不安定な心を刺し貫いた。カピタンは椅子に座って鵞鳥の羽ペンで何かを書き付けていた。いつものように二人を見る事なく、「報告しろ」と言い放った。


 ヨハネは報告した。

「エル・マール・インテリオールの島々を三日間歩いてきました。どの島にも小さな村が点在していましたが、非常に貧しく、また衛生状態もよくありません。家は粗末で暗く、子供たちは痩せていました。海産物は自分たちで食べる物だけを荒っぽい方法で加工しているだけです。商品としてこの街に運んできても役に立たないと考えられます」

 ヨハネは両手を体の後ろで、両手が白くなるほど強く握りしめて話した。


 次にペテロは落ち着いた様子で話した。

「今回は、私とヨハネ、船頭と漕ぎ手の計六名で海を渡りましたが、海賊には出くわしませんでした。小さな船の航行には問題はないようです」

 

 トマスは書き物を止めた。羽ペンを放り投げ、机の上に義手の左手を乗せるた。彼は目を大きく見開いて、ペテロを一瞥し、次はヨハネの目を睨み付けた。

「二人ともご苦労だった。何か言いたい事はないか」


 ヨハネは、大きな机の向こうに座り込んでいる赤毛の奴隷商人を見た。その後ろにある赤子を掴んだ鷲の肖像画を見た。何かしらの強い衝動が腹の底から湧き上がる感触を覚えた。それは自分の手が届くところより、より高みにある何かを掴みたいという強い強い欲求だった。


「織物工房はどうなったのでしょうか。あの事業は取りやめになったと聞きましたが」

 ヨハネは平らな声で聞いた。

「あの仕事は責任者が契約を履行できなかったために中止になった。後片付けはもう済んでいる。それがどうかしたか?」

 トマスはヨハネの目を凝視しながら言った。

「いえ、何もありません。あの工房の準備をしたのは私ですから気になっただけです」

 ヨハネは体の後ろで両手を強く握り締め直して言った。

 トマスはヨハネの様子を頭の上から足の先まで舐めるように見ると、二人に命じた。

「では、いつもの仕事に戻れ。ペテロは今回の偵察の詳細を書類にして明日までに出せ」

「はい。分かりました」

 ペテロは即答した。

「分かりました」

 ヨハネは少し時間をおいて答えた。

「行け」

 トマスは書類に目を落としながら言った。二人は部屋を出た。

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