第55話 鷲掴みの紋章

 次の日から大馬車はその盆地を出て南への街道を下り始めた。


 その脇には清らかな渓流が流れていた。エリアールから南下する時とは違い、水は北から南に流れていた。山脈の頂点を超えた証拠だった。山々は厳めしさを失い、やがて穏やかな丘の塊に代わった。渓流は大河に代わり、その大河の両脇には広い広い草原が広がっていた。エリアール育ちのヨハネには見た事もないほどの広さだった。大馬車の中の格子戸から上を見ると、雲のない青空が広がっていた。ヒバリの鳴き声が辺りに響いていた。風が吹く度に草原が揺れた。


 こんなに広く緑に覆われた土地がこの国にあったのかと、ヨハネは身を震わせて感動した。エリアールの乾いた砂の大地に比べてなんと恵まれた土地なのだろう、彼はそう思った。草原の中には広い畑が造られていた。何人もの男女がくわすきを持って作業をしていた。また草原の猛々たけだけしい草を刈り取り、新しい農地を切り開く者たちもいた。彼らは大鎌を持って草を刈り取り、大石をテコで動かして開拓を進めていた。彼はそんな人々の営みを格子窓の中から夢中で覗いた。


 ヨハネは作業を行う開拓者たちや農民たちを注意深く観察した。

 彼らの中には擦り切れて汚れた服を着て作業をする人々と、高い木や大きな石の上に立って大声で指示を出す人々がいた。前者は黒髪に肌の色は茶色で、ヨハネとよく似ていた。後者は背が高く白い肌に赤ら顔をして、手にはムチや長い棒を持っていた。それが意味する事を十五才のヨハネには理解できなかった。


 狭かった街道は広くなり、何台もの馬車とすれ違った。

 馬車は大きな石造りの橋を越えた。ヨハネもペテロも石造りの橋など見た事もなかった。やがて街道の遠くに赤い建物の群れが姿を現し始めた。みな煉瓦造りの建物だった。終着点の街に着いたのだ。その街は少しずつ近づいてきた。ヨハネは興奮した。これからいったいどんな出来事が待っているのだろうか、これからいったいどんな人々と出会うのだろうか、自分が人買いに買われた身分だという事実も忘れて、若いヨハネの心は弾んだ。彼の全身の血はゆっくりと温かみを増すと、心臓の拍動に合わせて全身を巡った。


 大馬車は石造りの街の門で留まった。ここでヨハネの乗せられた馬車は積み荷と運び手を調べられた。穂先ほさきなしの槍を持った市参事会しさんじかい所属の警備兵が御者たちと話をしていた。警備兵たちは書類と馬車に付けられた車体番号を調べているようだった。やがてガチャリと音がして、大馬車の扉が開いた。ペテロとヨハネの二人は眩しさに目を細めた。

「身元を改めるぞ。ペテロ、男、十六才、エリアール出身、間違いないな?」

 警備兵は脅すように大声で言った。

「間違いありません」

 ペテロは小声で答えた。

「ヨハネ、男、十五歳、エリアール出身、間違いないな?」

「間違いありません」

 ヨハネも大声で答えた。

 人定じんていを済ませると、警備兵は御者たちと長話をしていた。ヨハネが格子窓に張り付いて話を聞いていると、馬車の護衛隊が持っている槍の先に付けた穂先ほさきを取る、取らないでもめているようだった。


 ふとヨハネは門の上を見た。

 アーチ型に造られた門の上には「エル・デルタ」と刻み付けられた大きな鉄製の看板が取り付けられていた。

 さらにその上には煉瓦造りの見張り台があり、槍や弓矢で武装した警備兵たちがたむろしていた。ヨハネたちの乗る大馬車の後ろにも次々と別の馬車が列を作り始めていた。やっと許可が出たらしく、樫と鉄の金具で造られた門扉もんぴきしみ音を立てながら内側に開いた。馬車は車輪で小石を弾き飛ばしながら門の中へ入って行った。


 ヨハネは街の様子に驚愕した。


 街道は馬車がすれ違えるほど広かった。その街道の両脇には、真っ赤な煉瓦を白い目地で固めた三階建ての建物が壁のように立ち並んでいた。その建物の窓は大きく、頑丈な鎧戸が取り付けられていた。

 道行く人々はヨハネが見た事もない光沢のある布地の服を着いていた。特に女たちは横に膨らむスカートを穿いて悠然ゆうぜんと歩いていた。ヨハネとペテロは夢中になって格子窓から外を覗いた。大馬車は街の大通りを軽やかに走った。山中の道と違って音も振動もしなくなった。街の道が平らに整備されている証拠だった。やがて馬車は弓なりの石橋に差し掛かった。御者が馬に鞭をくれると、馬は苦しそうにいなないてその坂を上った。石橋の上から一瞬見えた街の全体像はヨハネの心に焼き付いた。

 この街は大きな河の下流にあった。そこに形造られた幾つもの三角州が幾つも石橋で連なり、一つの街を形造っていた。

 その後も馬車は中州と石橋を越えて街の先へと進んでいった。馬車が石橋の上を通る度に、ヨハネは驚愕した。


 海が見えたのだ。


 それは、ヨハネが知る北の海ではなく、太陽が降り注ぐ、青く輝く美しい海だった。その海の上では、小山ほどもある大きな船が、何隻も赤黒い側面をさらして海上に居座っていた。石橋の頭頂部に馬車が差し掛かる度に、ヨハネは顔を紅潮させて驚いた。ペテロも同じ思いだった。二人とも顔が歪むほど格子窓に顔を押し付けて外を夢中で眺めた。やがて今までで一番長い石橋を渡ると、一番広い通りに出た。そこの大きな三階建ての建物の前で馬車は止まった。

 その建物の三階の壁には大きく『アギラ商会本部』とアルファベットで書かれた看板が取り付けられていた。

 そしてその上には、わしが子羊を握り潰すように掴んでいる紋章が打ち込んであった。

「ここは何をする所なんですか?」

 ヨハネは護衛の男に尋ねた。

「奴隷を売り買いする商会だ」

 その男は険しい表情で答えた。

「奴隷」

 ヨハネは口に出してそう言うと、その大きな建物を見上げて、きつく口を結んだ。

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