第29話 別離

 河底の石運びの帰り、ヨハネは全身を濡らしたまま、疲れのあまり呆然と大通りの右側を歩いていた。まだ、正午をいくらか過ぎた時刻で、大通りは多くの馬車と人が行き来していた。真っ黒な馬車が二台、土埃を上げながらヨハネとすれ違った。その風圧に彼はよろめいて赤い煉瓦の壁に寄りかかった。もう体も頭も疲れ切っていた。考えるのも体を使うのも億劫おっくうだった。とぼとぼと商会まで帰りくと食事を採り、寝台に倒れ込んだ。ティーに逢いたい、ヨハネは強く思った。


「おい! 起きろ!」

 ヨハネは怒鳴り声で目を覚ました。目を開けると奉公人頭が寝台の横に腕組みして立っていた。そして大声で命じた。

「女奴隷の小屋を掃除しろ。寝藁を馬小屋まで運べ。夜更けまでに終わらせろ。それまで寝るんじゃねえぞ」


 ヨハネはのろのろと疲れた体を引きずって寝台から起き上がると、シャツを着て裏路地に出た。まだ夕暮れ時で、夕日が路地の地面も商会の建物も真っ赤に染め上げていた。商会の蔀戸からは人の話し声が漏れ聞こえていた。

 そこでヨハネは女奴隷の小屋の扉が大きく観音開きになっているのに気付いた。その分厚い扉は長くて太い閂が通され、金属製のカギと鎖で厳重に閉じられているはずだった。ヨハネの胸がギクリと痛んだ。扉を通り抜け女奴隷の小屋の中に入ると、中には誰もおらず、寝藁だけがあちこちに散らばっていた。小屋の中を走り抜け、入り口の反対側にある扉を開くと、あのカラタチと柊モクセイの生垣に守られたあの裏庭だった。


「ティー!」

 ヨハネは叫んだ。


 何の返事もなかった。


 奉公人小屋まで走り、奉公人頭を探したが、いなかった。商会の台所まで行くと奉公人頭は鍋の横で粥を喰っていた。


「頭! あの女奴隷たちは?どこに?」

 ヨハネは噛みつくように尋ねた。

「おまえ、掃除はすんだのか?」

 奉公人頭は聞き返した。

「いいから答えろ! みんなどこ行ったんだ!」

 ヨハネは掴みかからんばかりに問い詰めた。

「売れたよ。正午に出荷した。売り先までは俺は知らねえよ」

 そこまで聞くとヨハネは商会の二階に続く階段を駆け上った。ここから先は奉公人の分際では入れない場所だった。彼は初めて商館の二階に上った。しかし勝手が全く分からない。近くにいた男に叫んだ。

「カピタンはどこだ!」

 その男は驚いた様子で答えた。

「カピタンの部屋は三階にありますが……」


 ヨハネはさらに階段を上った。始めて上る商会の三階は、分厚い絨毯と様々な調度品や絵画で装飾されていたが、そんな物には目もくれず、ヨハネはカピタンの部屋を探して走り回った。すぐに凝った彫刻の名札が付いた扉が見つかった。ヨハネはその字が読めなかったが、扉の大きさと手の込んだ彫刻の名札でそこがカピタンの部屋だと直感した。その扉の横に置かれた机で書類に埋もれて作業をしていた男が立ち上がって「ちょっと君ね……」と言いながらヨハネを止めようとしたが、ヨハネは彼を突き飛ばして扉にぶつかるように押し開けた。


 トマスは部屋の一番奥に立って、上着を脱ぎ、義手を肩に取り付けていた。彼は軽く眉をひそめ、振り返りながら言った。

「なんだ」

 ヨハネの青い眼の視線はトマスの青い眼を激しく突きさした。

「奴隷たちは、ティーは何処だ!」

「お前は何を言ってる?」

「ティーは何処だ」

「女奴隷たちのことか? 正午に出荷した」

「なぜ!」

「お前は何を言っている? 仕入れた商品は売却するに決まっているだろう」

「ティーは商品じゃない! 何処へ売った? 答えろ!」

「あの女奴隷たちは買い付ける前から売り先は決まっていた。高額の二人はフォルモサのゼーランディア。ワクワクの二十人は北の鉱山にある売春宿だ」

「ティーは物じゃない! 商品でもない!」

「……ああ、そういう事か」

 トマスは義手の留め具を肩にかけ終え、左の義手を上着の左袖に通しながら、溜息をつくようにそう言った。


 後ろのドアから奉公人頭やその他の奉公人たち、トマスの秘書や勘定係までが入ってきてヨハネの後ろに立った。トマスは大きな椅子にすわり足を組むと、目を細めて行った。

「おまえ、あの女奴隷たちの一人に惚れたのか。ティーというのはおそらく奴隷記号の事だな」

「ティーを返せ! この死の商人め! 天を畏れろ! 人を売り買いするやつなんか地獄に落ちろ!」

「お前は間違っているぞ。奴隷は物であり、あの奴隷たちは私の所有物だ。だからあの奴隷たちをどう処分するかは完全に私が決める事だ」

 トマスは『動産売買についての諸規約』と表紙に書かれた本に右手を置きながら言った。

「人が物なものか!」

「この国の法律では、奴隷は物に準ずる、と決められている。それに奴隷売買は広く世界で認められている商売だ。買い手たちも正当なエンコメンデロだ。知らないのか」

 トマスは静かに言った。

「それよりも、お前、女奴隷に手を出したな。それをやった奉公人は腕を切り落とすと言ったはずだ」


 そう言って立ち上がるとトマスは壁に架けてあった贈答用の長い剣を取り外し、鞘を抜いた。鋭くて長い刃が青白く光ってヨハネの目にちらちらと映った。ヨハネは恐怖で震えた。


「取り押さえろ」

 トマスが命じると、ヨハネの後ろにいた数人の男たちは一斉にヨハネに襲い掛かり、手をねじ上げてうつぶせに押し倒した。奉公人頭がヨハネの腰に膝を当てて、彼の髪をわし掴みにして顔をトマスのほうに持ち上げた。ヨハネはうめき声を上げながら全身の力で抵抗しようとしたが、腕と腰を固められて少しも動けず、ただうめき声を上げるしかなかった。

「左肘を切り落としてやる。腕を伸ばさせろ」

 トマスが命じると男たちはヨハネの左腕を真横に引っ張り絨毯の上に延ばさせた。ヨハネは腕を失う恐怖に全身の血が凍った。

「やめろ!」

 ヨハネは声にならない声で叫んだ。

 トマスは小首をかしげて、その様子を見ていた。

「腕を切ってしまうと、労働力として役に立たなくなるな。これは私にとって損害だ。おい、離してやれ」

 トマスはそう言った。奉公人頭はヨハネの背中に乗ったまま、掴んでいた髪を離した。ヨハネの顔面は床に打ち付けられた。


 トマスは奉公人頭に命じた。

「こいつをしばらく馬小屋の柱に縛り上げておけ。水も食い物もやるな。だが死なせるなよ。体力が落ちないようにしろ」


 ヨハネはトマスの部屋から引きずりだされ、階段から突き落とされると、商会の裏路地の不潔な地面の上に投げ出された。

 奉公人頭は薄笑いを浮かべながら、ヨハネを荒縄で後ろ手に縛り、馬小屋の柱に彼を縛りつけた。そこは馬糞溜めのすぐ横だった。

 悪臭がヨハネの鼻を刺した。


 奉公人頭はヨハネの顔を覗き込んだ。

「おまえ、とんでもねえことをやらかしたなあ。俺は前からてめえが気に喰わなかったんだ。おれはよ、いつかお前を追い出してやろうと、お前が何回失敗したか、何回嘘ついたか数えてよ。この紙に書き付けといたんだ。いつかカピタンに告げてやろうと思ってよ」

 そう言うと、懐から出した茶色い紙切れを取り出して、それでヨハネの顔をピタピタと叩いた。

「僕は嘘なんかついていない!」

 ヨハネが叫ぶと奉公人頭は「黙れ」と叫び返してヨハネの顔面を拳で殴りつけた。奉公人頭は「へっ」と笑うとヨハネの頭に唾を吐きかけた。

「この報告書があればおまえはいよいよ追い出されるぞ」

 そう言い捨てると、商会へ歩き去った。

 ヨハネの顔は殴られて腫れ上がり、鼻血で赤黒く汚れた。ヨハネは悲しみと痛みで動く事も泣く事もできなかった。


 ヨハネの周りには誰もいない。


 もう日は暮れて、周りは真暗闇だった。ちょうど新月を迎えた月も、彼を照らせなかった。馬小屋の横は女奴隷の裏庭だった。その生垣のカラタチの花はみな散ってしまい、ただ鋭い棘が残るのみだった。

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