第16話 月下の忍び歩き

 ヨハネは真っ暗な男奉公人用の小屋に戻った。


 この商会の奉公人たちはみなここで寝起きしていた。大きな部屋の中央に入り口から向かいの壁までまっすぐ続く通路があり、その左右に十台ずつの寝台が置かれていた。寝台の間には薄い木製のついたてが置かれており、互いの寝台からはお互いの姿が見えなくなっていた。他の奉公人たちはいびきを掻いて寝ていた。


 ヨハネの寝台は入り口のすぐ右側だった。新入りは入り口から近い、落ち着きづらい場所を与えられるのがこの大部屋のしきたりだった。そこは男奉公人の汗の臭いが充満していた。寝台に付いている夜具は古い麻布を再利用したもので、敷き布も掛け布も汗と垢のせいで耐えがたい悪臭を放っていた。

 ヨハネはドサリと寝台に仰向けに身を横たえた。今日はいろんな出来事が起こった一日だったな、と暗闇の中で思いながら彼は左頬を左手の指でそっと触った、骨は折れていなかったがひどい痣ができているようだった。そしていつも首に巻いているはずの手ぬぐいを取ろうと思って、あのワクワクの女奴隷を思い出した。

ヨハネは寝台から飛び起きると一呼吸おいて、他の奉公人に気付かれないように、そっと小屋を後にした。


 春の空気は夜になってもまだ生暖かかった。水溜りを踏まないようにゆっくりとヨハネは歩いた。すでに日は落ちていたが、代わりに満月の光が路面を照らしていた。不潔な路面ですら、満月の下では薄い青色に光り、美しく神秘的に輝いた。


 ヨハネは月の光が何よりも好きだった。


 彼の生まれ故郷では、日の当たる時間が短く、昼の太陽よりも夜の月が人々の心に光の慈悲を与えた。太陽の強い光は、それを浴びる者たちに偉大な恩恵を与える代わりに、明瞭な影を必ず生み出し、人や物の醜い姿も情け容赦なくあらわにした。そんな太陽と比べて、物陰も人の卑劣な行いも、そして汚物でさえも柔らかく等しく青い光で包み込む月の光は無限の慈愛に満ちていた。ヨハネが顔を上げて満月を仰ぎ見ると、その上に美しい女性が立っているように見えた。彼は目を閉じその女性の姿を心に焼き付けると、ゆっくりと目を開けた。すでにその姿は消えて、ただただ柔らかな青い光を放つ満月がヨハネを見つめていた。


 ヨハネは路地をゆっくりと歩いた。奉公人小屋の隣は男奴隷の小屋だった。男奴隷は数日前にみな、鉱山や採石場のタコ部屋に売られた。いま中には誰もいないはずだった。その隣が女奴隷の小屋だった。ヨハネはゆっくりとその小屋に近づくと、鉄格子の入った窓の下に張り付いた。目の粗い煉瓦が彼の手と背中に触れた。その窓はヨハネの身長よりも高い所にあり、中の様子を覗き込めなかった。試みに目をつぶって耳を澄ましてみると、すすり泣きと話し声が混じった音がヨハネの耳に入ってきた。中は真っ暗で光が漏れて来る事はなかったが、人の気配は確かにした。ここから中の様子をうかがえなかった。


 まるで泥棒だな、とヨハネは思ったが、それ以上にあの娘にもう一度会いたいと言う気持ちが彼を活動的にさせた。ヨハネは女奴隷用の小屋の裏庭へ忍び歩いた。裏庭は鉄格子の壁とそれに沿って植えられたカラタチの木によって完全に囲まれていた。しかもカラタチの木の根元を守るように、柊モクセイの木がびっしりと植えられていた。人差し指ほどもあるカラタチの棘と刃のような柊モクセイの葉がそろって逃亡者と侵入者を拒んでいた。ヨハネが顔を上げるとその生垣の高さは彼の背の三倍近くにもなっていた。それでも煉瓦の壁と違って、生垣はその奥の様子を空気感で教えてくれた。

 この先にあの娘がいるかもしれない。

 そうヨハネは思った。

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