第4話 走るヨハネ

 ヨハネはエル・デルタの大通りを大股で駆け抜けていた。


 彼は、腿を高く上げ腕を大きく振り、呼吸に律動を持たせ、全身に春の空気の抵抗を感じながら、それを自らの肉体が引き裂いていく感触を全身の細胞で感じ取っていた。彼の美しい黒髪が風になびいた。裸足で通りの地面を踏みつける度に彼の足の裏には小石が強くめり込んだ。だが、そんな痛みさえも彼には生きている事実を実感させてくれる喜びの刺激だった。

 やがて大通りは緩い登り坂になり、ヨハネの息は切れ、呼吸も苦しくなり、足が上がらなくなると、彼はわざと走る速さを上げた。すぐにわき腹が痛くなり、頭が朦朧もうろうとしてきたが、彼はこれを待っていたのだ。


 そのまま、さらに速度を上げると、ふらりと頭が左右に揺れるような錯覚を覚えた後、彼の頭は得も言われぬ陶酔感に取りつかれた。こうなると、どんな苦しみも痛みも動物的喜びに過ぎなかった。肺が広がり、脳細胞は覚醒し、五感すべてが膨張した。目に映るものはより濃く細部まで姿を現し、道行く人々の大声はささやき声に聞こえ出した。それは人間が、肉体を酷使した時にだけ、しかも若いごく一時期だけに感じられる異次元の体験だった。


 美しい清潔な大通りをヨハネは走り続けた。そのまましばらくすると、美しい三階建ての赤い煉瓦で造られた建物がヨハネを圧倒するように現れた。三階の外壁には『アギラ商会本部』と大きく書かれた看板と、鷲が子羊を両足で掴んでいる紋章が打ち込まれており、一階には堂々たる正面玄関が造られていた。


 もちろん彼はその入り口を使えない。玄関を通り過ぎ、道を右に曲がって裏通りに入った。右手には商会の搬入口があり、出入り業者が馬車を付ける車止めがせり出していた。しかし彼にはそこの入り口も使えない。彼がさらに小さい路地に入ると狭くて汚い路面が現れた。湿った路面には不潔な水溜りが幾つも作られ、所々に野良犬たちの排泄物が落ちていた。生きているのか死んでいるのか判らない宿無しが寝転がり、ボロボロのシャツを着た子供たちが水溜りの汚水の中を飛び跳ねていた。さらに右手に曲がると人ひとりがやっと通れるほどの行き止りの通路があり、そこの右手に木製の粗末な扉があった。

 ヨハネのような年季奉公人がこの建物から出入りする時のために作られた専用の扉だった。彼はそこまで走りつき扉へぶつかるように止まった。両手を両膝の上に乗せ中腰になると、汚物臭い空気を肺にいっぱい吸い込みながら息を整えた。そして両手で額の汗を払い飛ばして大声で叫んだ。


「カピタンからのご伝言! ご伝言!」


 扉が外側に開くと枯れ木のように痩せた奉公人頭の男が現れ、ヨハネを下に見ながら「なんだ?」と権高に言った。


「セレド奴隷大市場のカピタンからのご伝言! 現金三億三千万ジェン分の十万ジェン紙幣を現金輸送用馬車一台で今すぐ持って来るようにとの事。この護衛は五人。加えて奴隷用十人乗り馬車を二台。こちらの護衛は十人。大至急とのご命令です!」


 そこまで怒鳴り上げると、ヨハネは汚い裏路地の泥の上に背中からビチャリと倒れた。ゼイゼイと息をしながら路地の壁の隙間から見える青い空を見ていると、先ほどの奉公人頭が上から覗き込んで言った。

「了解しました、と伝えろ」


 ヨハネが息を整えていると、奉公人頭に怒鳴りつけられた。

「奉公人の分際でいつまでも寝てんじゃねえぞ! 早く、カピタンに伝えて来い。『奉公人頭が確かに承りました。すぐに手配を始めます』とな!」


 ヨハネは飛び起き後頭部と背中に汚泥おでいを付けたまま、また走り出した。ひと時の休息も、一杯の水も与えられずに、また大通りに飛び出した。少しでも早く走る事だけが、今のヨハネにできるすべてだった。

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