異能戦場の修復稼業《フィックス・ワーク》
岩井喬
第1話
コンビニの帰りだった。
十月半ば。時刻は深夜十一時を回り、俺、こと滝川竜介は、惣菜の入ったビニール袋を提げながら歩いていた。マンションが車道・歩道の両脇に立ち並ぶ端正な住宅街だ。
全く、こんな深夜まで出歩いていては、執事の杉山さんに何を言われるか。
「はあ……」
誰に聞かせるともなく、俺はため息をついた。高校生の生活に『執事』なんて人が絡んでくるのは意外に思われるかもしれない。まあ、家庭の事情というやつだ。
などと考えている間に、二つ目のため息が出た。どうにもため息をつく頻度が高くて困る。
すると全く唐突に、目も眩むようなヘッドライトが視界を真っ白に埋め尽くした。同時に狼の悲鳴のような鋭いブレーキ音が響き渡る。
「どわあっ!!」
俺は思わず肘で顔を覆った。続いたのは、さらに鋭角になった摩擦音と、象の足音を連想させる重い激突音。
小型のバンが、俺が歩いている歩道に乗り上げてきたのだ。電柱に正面衝突し、部品が飛び交う。
ガラスの破片が吹雪のように飛散し、俺に迫ってくる。そこで俺は、無意識に右腕を突き出してぎゅっと目を閉じた。何故そんな挙動を取ったのか、その時には全く分からなかった。とにかく思っていたのは、
『俺に刺さらないでくれ!』
それだけ。
無言のまま、ゆっくりと目を開ける。
すると、神様に願いが通じたのか、幸いにして俺は無傷だった。
「う、わ……」
俺はスマホを取り出し、慌てて一一〇だか一一九だかをプッシュしながら踵を返し、事故現場からダッシュで遠ざかろうとした。
が、通話は叶わなかった。特大の打ち上げ花火を耳元で炸裂させられたかのような凄まじい爆音が、俺の聴覚を奪ったのだ。電柱が折れて倒れこみ、宙ぶらりんになった電線がバンのガソリンタンクから漏れ出した液体に接触。そして大爆発を起こしたのだ。
「うっく!」
前方へと、スタントマンのようにダイブして俺はうつ伏せになった。距離を取っていたお陰で巻き込まれずに済んだが、それでも、髪が焦げるんじゃないかというほどの熱気は感じられた。
「な、何なんだ……」
恐る恐る振り返ってみると、否応なしに気づかされた。これが単なる事故でないということに。
「ん?」
何だ、あれ。影か? 爆発の逆光によって照らし出された影がある。否、『いる』。
蜘蛛を連想させる多脚を持ち、その真っ黒な図体は二メートルほど。そいつがバンのフロントガラスにへばりついていた。バンの前面と電柱に挟まれ、多数の足がさわさわと不気味にうごめいている。
「なっ……何だよ、あれ!?」
俺が呆然と見入っていると、救急車のサイレンが響いてきた。消防車も混じっている。
その頃には、蜘蛛の怪物は完全に動きを止め、さらさらと原型も残らないほどになり、塵になって消えていった。
あれは俺の見間違いだったのだろうか。一応警察で事情は話したが、謎の影については秘密にしておいた。
どうせ信じられないだろう。フロントガラスにへばりついた巨大な蜘蛛が、バンの操縦を不可能にして、事故を引き起こしたなんて。
だが、それよりも奇妙なことがある。
それはその事故の生存者である少女と、半年後、偶然再会することになってしまったということだ。
※
「やった! 番号あった!」
「おー、お前も受かってんじゃん!」
「証拠写真! あれ? スマホどこやったっけ……」
桜が咲くにはまだ早い季節。三月初頭、うちの高校でも入試結果の発表があった。空は雲一つなく晴れ渡り、受験生たちの心の内を代弁しているかのようだ。
うちの高校は、それなりの進学校としての地位を確立している。募集定員は一学年三十人、すなわち一クラス分しかない。倍率も結構なものになる。
さて、こういう時、どういうわけか落ち込んでいる生徒ばかりが視界に入ってきてしまうのはどういうわけか。目を腫れぼったくしている生徒を一瞥すると、なんだか申し訳ない気持ちになる。とても凝視してはいられない。
何故新二年生になった俺が、新入生の合格発表の現場にいるのか。それは、貧乏くじを引いてしまったからだ。この場合の貧乏くじとは、新入生に資料配布を行う役割を負わせられることをいう。
「はい次、一五二……佐藤孝則くんですね。どうぞ」
「どっ、どうもありがとうございます!!」
と涙ながらに礼を述べたのは孝則くん、ではなくその母親の方だった。ちょっと奥さん、いくらなんでもリアクションが派手ですよ。孝則くんも困った顔をしているし。
「はあ……」
俺は思わずため息をついた。入学当初のワクワク感はどこへやら、だ。
今の暮らしに不満があるわけではない。しかし、こんなことを繰り返していて、俺に存在価値などあるのだろうか? まあ、親が親だし、今さら嘆いてもしょうがないのだけれど。
そんなことをぼんやり考えながら、俺は淡々と事務作業をこなした。合格発表の確認に来た生徒は、ほとんど残っていない。俺は頬杖をつきながら、ぼんやり周囲を眺めていた。もう夕日にも陰りが見え始めている。
その時だった。
「滝川くん。この資料を一旦校内に運び込んでくれないか?」
同じく貧乏くじ組の先輩が声をかけてきた。
「どの資料です?」
そちらに振り返る。そして俺は、素っ頓狂な声を上げた。
「な、何すかこの紙の束!」
目の前の先輩の腰から上を隠しきるように、凄まじい数の冊子が先輩の掌から生えていた。
「いやー、今日の配布資料と一緒に入学式のお知らせのプリントを運んできてしまってね。悪いけど、校内に戻しておいてくれない?」
「にしてもこの冊数はおかしいでしょ! 先輩、手伝ってください!」
「いやいや、僕はもう受験生だからね。労わってくれよ、滝川くん」
全く、馴れ馴れしいにもほどがある。しかし、『受験生』という言葉に、俺は突き動かされた。仕方あるまい。
「分かりましたよ……。よいしょっと」
俺はそのまま先輩から入学式用のプリントを受け取った。ずっしりとした紙の重さが両腕にかかる。
「全く、ちゃんと資料の区分けぐらいしておけよ……」
バランスを取りながら歩いていくはずだったのだが、たった三歩目で、地面の僅かな段差に躓いた。
「どわ!?」
身体の重心がズレる。プリントの束が倒れ込む。反射的に両手が出て、地面に手をつこうとする。その直後、
ぽむ。ぽむ。
という擬音語が似合う、柔らかな感触が俺の掌に走った。両手にだ。そのお陰で、俺の転倒は見事に防がれた。
俺は前のめりになったまま、しばらく目を閉じていた。
頭から被ってしまったプリントの束を、首を振って払いのける。すると、微かなシャンプーの香りが鼻から入ってきた。これまた柔らかな何かが、俺の頬に擦れる。
何だ? 何があった?
プリントの紙片が風に吹かれ、俺の視界が一気に広がる。
そんな俺の眼前にいたのは、合格者と思しき一人の女子だった。呆然と立ち尽くしている。
そうか。転倒しかけた俺は、彼女に抱き着く格好になってしまったのだ。
「うわっ! す、すみません!」
俺は慌てて謝り、彼女から手を離そうとした。その時になって、ようやく俺は現状の全貌を把握した。
単刀直入に言おう。
俺の両手が掴んでいたのは、彼女の胸だ。そしてプリントを振り払おうと苦心している間は、俺はどうやら彼女に頬擦りするような形になっていたらしい。
「う、うわあああああああ!?」
俺は手を引き、顔を逸らし、一気に後ずさりしようとして、再び躓いて尻餅をついた。
さっと見上げる。
そこには、件の少女が無言で俺を見つめていた。顔を真っ赤にし、両腕をぶるぶると震わせながら。
さっさと逃げ出すべきだったのだが、そんな高尚な思考は持ち合わせていなかった。足が動かない。
今の俺にできるのは、女子の情報収集とその分析だった。肩にもギリギリ届くほどのショートヘア。目が大きく、綺麗な卵型をした童顔。
そして――胸。否応なしに目に飛び込んでくるのだから仕方ない。身長自体は高くない。俺より頭一つ分は低いのではあるまいか。
手っ取り早く言えば、ロリ巨乳というやつだ。
事ここに至り、ついに俺は今の自分の状況を把握した。気づかせてくれたのは、さっと燃え上がった彼女の両眼。俺が萌え上がったわけではない。
「ご、ごめん、なさい……」
俺の目に涙が浮かんでくる。しかし、どうやら彼女も同じだったらしい。
ぐいっと目元の水滴を拭うと、背負っていたバックから何かを取り出した。それを見て、俺は恐怖で固まった。
「ッ!?」
釘バット。紛れもなく釘バットだ。明らかに、俺を殺しにかかっている。
彼女が一旦、釘バットを頭上高く掲げる。すると、俺の視界が全体的にセピア色になった。
「な、何だこれ!?」
俺が首を巡らせると、その周囲の異常さが目に入ってきた。
皆、止まっている。それこそ時間が止まってしまったかのように。人は動かず、木の葉は揺れず、車は停車しているかのように見える。
どうやら、動けるのは俺と女子だけらしい。セピア色に染まった、静止した時間の中で。
そこまでの観察を終えた時だった。
「こんのド変態がああああああああ!!」
「ひ、ひいいいいいいい!!」
やっとのことで立ち上がった俺は、釘バットに追われながら駆けずり回った。
しかし、思わぬところで俺は転倒した。例のアスファルトの段差だ。
「うっく!」
目前に迫ってきたのは、セピア色の壁だった。どうやらここは、ドーム状に、セピア色の壁で仕切られた場所らしい。
ドームの内壁に鼻先から突っ込むことになる。慌てて両腕を突き出す俺。しかし、思わぬ現象が再び起こった。
「あれ?」
俺が差し出した両腕は、ドームをすり抜けた。今度はドームの内壁ではなく、地面が迫ってくる。俺は倒れ込みながら、そのまま地面に手をついた。
顔を上げると、先ほど同様、俺以外のものは全て動きが止まっている。
何故ドームの外側の物体は固まっているんだ?
何故俺はドームをすり抜けたんだ?
何故俺は動いていられるんだ?
と、そこまで思案した時、ズガン! という轟音を立てて、アスファルト片が飛散した。釘バットが、俺の肩を掠めて地面を打ちつけたのだ。
「ひっ!」
俺は再び尻餅をつく姿勢で、身体を女子の方へと向けた。その時だった。
「あなた、動けるの?」
「え?」
「私の展開したフィールドの外には出られないはずなのに……。どうしてあなたはドームの外に出られたの? どうして動いていられるの?」
知るか、そんなこと。
だが、女子からは攻撃の意志が消えていた。しゃがみ込み、まじまじと俺の顔を見つめてくる。近い。近いって。
それから女子はゆっくりと立ち上がった。
「ちょっとそこ、動かないでください」
ヴン! と振り下ろされた釘バットが鼻先に触れ、俺の挙動の一切を停止させる。
一方女子は、スマホを取り出しながら誰かと話をしていた。
俺はその横顔が、驚愕の色に染まっていくのを見て取った。ゆっくりとこちらに顔を向けた女生徒は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「じゃあ、あなたが……?」
「お、俺が何だって?」
女子はスマホをポケットに突っ込んだ。そして釘バットを背中に装備しなおし、そっとこちらに手を差し伸べた。
「ちょっと一緒に来てください。先輩」
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