自称と自傷-2

 しかし、予想していた衝撃が襲ってくることはなかった。訪れたのは、手首を捻られることによる痛み。


「あ」


 手にさほど力が籠もっていなかった事もあり、切れかけた蛍光灯の光を反射するナイフが容易く床に落ちた。

 カラン、と小さな音が消えるが早いか、ヴィルヘルムがそれを遠くに蹴り飛ばす。彼の目はナイフの行き先を見もせず、ただ怒りを宿したまま男を見下ろしていた。

 やはり、怒っている。再確認して、男は首を捻った。


「…………な、何で、怒ってるの?」


 男には分からない。何故自分を嫌っている筈のヴィルヘルムがここまで怒っているのか、分からない。


「怒るに決まってんだろうがクソ野郎、死にてえのか」


 低く吐き捨てたヴィルヘルムが目線を合わせるように屈む。


「死ぬんだったら頸動脈切ってんだけど。これが初めてじゃないんだし分かるだろ」


 ヴィルヘルムに自傷行為を見られたのは初めてではない。傷は隠してもいないから山程見てきているだろうし、男からすれば今更怒られる理由がなかった。


「ナイフなら十分手首の血管だって切れるだろ」

「試してみるからナイフ返してよヴィル、どれだけ力を込めたら手首の血管切れるか確かめ」

「いい加減にしろ!」


 言葉を遮っての怒鳴り声に、反射的に男の肩が跳ねる。

 これでも頬を殴り飛ばしたりがないのは、ヴィルヘルムなりの配慮だろうか。……気持ちわり。やけに冷静な理性の片隅で思う。


「……だから何で怒るのさ。ヴィルが痛い訳じゃないのに」


 拗ねた子供のように唇を尖らせる。ヴィルヘルムは盛大に舌打ちして、乱暴に男の左手を持ち上げた。

 傷ついた手を引っ張られる感覚に、手首で新たな痛みが爆ぜる、いて、と微かな悲鳴が、男の乾いた唇から漏れた。


「何でわざわざ自分を傷つける必要がある?」

「必要がなかったらやらないよ。俺の場合は創作活動の一環」

「ああ?」


 ヴィルヘルムの眉間の皺が更に深くなり、唇から不快感を隠そうともしない声が漏れ落ちた。

 死なない程度に深い傷痕は徐々に凝固しつつあったが、先程乱暴に持ち上げられたことで若干開いてしまったらしい。再び血がぷくぷくと滲んでいく。

 それでも血小板が元気に仕事をしているのを一瞥して、ヴィルヘルムの目を見る。


「息を吸うように殺し、息を吐くように殺すのが連続殺人鬼(シリアルキラー)だ。

 なら、俺は息を吸うように切り息を吐くように切りそして食うように吐くように絵を描くように切る!」


 言葉の最後は叫ぶように、血を吐くように男は語っていた。

 ヴィルヘルムが嫌なものでも見たかのように顔を顰める事も気にせずに彼の手を振り払う。

 垂れずに溜まっていた血が数滴散って、ヴィルヘルムの服の袖に落ちた。


「つまり、死にたい訳じゃないんだよ。ただ俺は、喉が渇いて水飲むくらいの感情で切っている」


 その何が悪い? と続けると、ヴィルヘルムの表情が強張る。

 眼前の元軍人、元部隊長は答えない。陰鬱な双眸が今だけは爛々と輝いているのが何故だか少しだけ、嬉しかった。


「きっと、本当に辛くてこういう事をする人間からすれば、俺は本当に頭が可笑しいんだと思うよ。その人にとってはさ。

 でもさあ、切らないと何かを創り出す事も出来ないのに他に出来ることがあるのか? ないだろ、俺はお前みたいに酒に逃げられるような人間じゃないんだ」


 言い終わるか終わらないか、のタイミングでヴィルヘルムが立ち上がる。

 どこに行くのかと目で追うと、彼は自らが追いやったナイフを拾い上げていた。


「それ、捨てるの?」

「捨ててもお前なら新しいのを買うだろうし、意味ねえだろうなあ」

「分かってるじゃん」

「だからやるよ、好きなように使え。ただ死ぬな。葬式の手配が面倒臭い」


 ぽい、と抜き身のナイフが躊躇なく放り上げられて宙を舞う。

 きらきらと刃が煌めくのがまるで星の煌めきのようだと、男は足下にナイフが刺さるまでの僅かな時間に感じていた。

 床に突き刺さったそれを見て、それから自分の左手首を見て、ヴィルヘルムを見る。


「もし俺が死んだらよろしくね」


 何故ヴィルヘルムが怒るのかは未だに分からないままだったが、それでも分かったことは一応ある。

 きっと彼は、自分がこの程度で死んでしまうのを心配しているのだろう。

 だからこその“お願い”だったのだが、生憎というべきか当然というべきか。あっさりと打ち砕かれた。


「誰が挙げてやるか、ゴミ捨て場に捨ててやるよ」


 それも、親指を立てて下に向けるジェスチャーつきで。

 思わず吹き出すと、ヴィルヘルムが「ああ」と思い出したように声を上げた。


「どうしたの?」

「俺の酒どこだ? ペットボトルのやつ」

「え? アレ中身酒だったの? てっきり水だと思ってゴミ袋に突っ込んだよ。ほんっとアル中だよね」


 ヴィルヘルムが何だこの馬鹿は、とでも言わんばかりの顔になり、それから慌てて部屋を出て行く。

 廊下から聞こえてきた文句にも、今は何故かほんの少しだけ笑えた。

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