第1章 水帝の三姉妹(3)


 澄みきった空の下を歩く。天は青一色で、手が届くほどに近く感じられる。見上げていると、身体が上空に引き上げられてしまいそうな感覚を持つ。みずうみの水の透明な青とはまた違う、天空の藍味がかった青い空。茶色いイシュット砂が支配する荒漠な大地が、極端な対比を作り出し、その空をより惹きたてる。


 ナ・タシは七重の衣を纏う。王の長女としての、伝統的なものだ。その最内の衣は身の丈より長く、地を引きずっているが、空気のように軽く、地面に擦っても音はほとんどしない。地に触れればふわりと舞い、その衝撃でしばらく宙を漂い、そしてゆっくりと落ち、再び地に触れ、ふわりと舞う。

 

 風に乗り、人の声が聞こえる。ときおり風は人の声を作り出す。四方から吹く風が空気を擦り、岩や砂を叩き、人の声に似せる。錯覚を作り出すのだ。この地の風は、漠とした声でもあった。

 

 しかし、ふと、ミユは首を傾げる。声の錯覚は風があってのこと。この日、空気の揺れはほとんどなかった。微風程度の風に、人の耳を惑わす音が作り出せるのだろうか。

 

 ところが、人の声は依然として耳の奥を震わせ、こころなし、それは鮮明になってきているように感じる。もしかしたら、これは錯覚などではなく、実際の声ではないか。ナ・ミユはそう思い始めた。


 気になったミユはそっと横を見るが、二人の姉はいつもと変わらずに笑みを交わし合いながら、言葉のない談笑をしている。その、なに一つ普段と変わらない姉たちの振る舞いを見て、やはりこれは聞き違いかと、ミユは安堵の吐息を小さくついた。

 

 声は、しかし、やはり聞こえた。それも徐々にはっきりと。ミユは胸の内がかすかに騒めいた。その声が、ミユたち、ナの者の静かな高い声ではなく、タの者の低く太いものだったからだ。


 ナ・ミユは振り返る。声の主を確認するために。しかし荒れた大地は起伏が多く、また方々に巨岩を散らばせ、広く見渡せない。しばらく振り向きながら歩を進めていたミユだが、あきらめて向き直った。


 考えがちになれば、しぜんに顔が下を向く。ナ・ミユは青空に気付いてハッとした。せっかく領地を出て、大好きな姉たちと穏やかな空の下を歩いているというのに、俯いて考え込んでいるなどもったいないことだ。声など、周囲のことなど、気になんかしないことだ。そう自身に言い聞かせ、疑念を締め出した。


 道はまっすぐに伸びていた。茶色味の大地のその先には、陽炎が立つ。それが人影に見えるが、数瞬後には消え、別のところに人影が立つ。すべては幻視なのだ。領地でひそやかに暮らす、おとなしく力なき者の、過剰な反応なのだ。ミユは横目で姉を見て、気持ちの落ち着きを感じた。

 

 常に従者が付き、館の敷地で過ごす日々。それが、久しぶりに領外へと出たことで過敏になっていたのだ。常に供を連れて領外を見まわる長女のナ・タシは、末妹のうろたえた挙動になど気にしていないだろう。ミユは姉の心の内を想し、ポッと恥ずかしさが胸にわいた。

 

 その思いが一瞬のうちに吹き飛ばされ、ミユは思わず肩をすくませた。笑い声の混じるタの、がらついた声が、背後からはっきりと聞こえたからだ。

 

 日々を静かに暮らすみずうみの民であれば、タの者であっても威圧的な大声など発することはない。うしろから聞こえてくる声は、同じ民の声ではなかった。


 銀武の民。そう思い、穏やかな日差しの下というのに、ミユは肌を纏う空気に冷たさを感じて震えた。

 

 戦う民の銀武。タの者は武力に重きを置き、戦闘能力が唯一の価値観という暮らしを、太古からしてきた。銀武の園の周囲に住む、みずうみ、煉臥れんが香樹ごじゅ萄榛どうばるばんの5つの民は、攻められ、圧力をかけられ、ときに害を受けながら、それでも独立を保ってきた。

 

 その銀武の戦士に、わたしたちは出会ってしまった。ミユは背中にざわめきが走った。どのようにかは分からないが、大きな困難に当たってしまう予感を持った。今はもう、とても振り向いて声の主を確認することなどできない。その代わりに、横を歩く姉に顔を向けた。

 

 ところが、姉は二人ともいつもと変わらない調子で、笑みを交わしあっていた。

 

 ――何故?

 

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