もう消えた女王の夢を見ない

kud

もう消えた女王の夢を見ない

 トンネルのような回廊は、いつもより濃い暗闇でした。正しく並列された灯火がゆらゆらと陽炎のように揺れて、おまえの訪れを告げました。

 回廊の終わりが旅の終着点となり、目の前には次の始まりに続くドアがありました。ドアの前でしばらく立ち尽くしていた、その時間こそが、おまえの決意と重みを表していたのだろうと思います。

 そしてついにドアを開け、横たわるわたしとおまえの視線が絡み合いました。おまえはハッと息を呑み、わたしは驚きに目を見開きました。

 痩せた体に真っ黒なぼろ布を重ね着しただけで武器も見当たらず、そんな軽装備でこれほど深い場所へ到達するとは、鬼気迫るものを感じました。

 その執念を讃えおまえの要望を受け入れましょうと言ったところ、

「では、どうしてこんなことになったのか説明してください」

 うつむき加減で表情はよく見えませんでしたが、呻くように吐き出された言葉に促され、これまでの詳しいことを語ることにしました。長い話になるので、ベッドの横にある椅子を勧めたところ、

「俺がそんなに近くへ寄ることを、許されるのですか?」

 わたしのいたわりにおまえは警戒したのでしょうか。しかし訝しむ口調とは裏腹に、おまえの風貌はどこか暖かみを感じたので、わたしは黙って語り始めました。


 彼らと出会ったのは、わたしの女王をくしたときでした。

 女王を失った深い悲しみから、わたしはふらふらとさまよい、昼に夜にただ苦しみました。

 そんなわたしを心配したのか、使いの者たちはみな口を揃えて言ったのです。女王は必ず帰ってくると。しかし慰めは僅かな支えにもなりませんでした。

 悲しみにくれるあまりみっともなくさまよい歩いていたとき、偶然通りすがった貧相な小屋から聞こえた笑い声に、わたしの足は止まったのです。

 朗らかに笑う彼らは、とても仲の良い兄弟に見えました。まだ小さな子供たちで、兄がせいぜいとおくらいだと思います。

 くったくのない笑い声は、泣きの涙ですっかり曇ったこの先を照らす光にも感じられたし、全く逆にいっそう深い奈落へ突き落とされるような気もしました。だからこそわたしの足は止まったのだと思います。

 ぼろぼろの小屋とは対照的な、幸せに満ちあふれた笑い声がわたしの神経を逆なでして耳から離れませんでした。体の奥から抗いがたい、コントロール不可能な欲望が渦巻き、胸の内を掻き乱されたのです。彼らに激しい嫉妬を覚えました。今思えば、年端もいかない子供たちに嫉妬するなんてとても浅ましく恥ずかしいことです。

 でもその時のわたしは女王を失くしたばかりだったのです。そのことをどうか慮ってください。

 おまえには驚くべきことかもしれませんが、わたしとてひとり残された時間を思うのは――いいえ、それより彼らの話を続けましょう。

 城に戻ったわたしは、使いの者たちに兄弟の素性を調べて貰いました。

 兄の名をトーチカ、弟の名をフーリといいました。二人とも毛皮で出来たふかふかな帽子を被っていました。

 兄はよく弟の面倒を見ているようで、弟も兄を慕って片時も離れようとしませんでしたし、兄もまた、弟のもみじのようなかわいらしい手をいつも握っていました。

 あんなに仲の良い兄弟は、血が繋がった本当の兄弟でもなかなかいないと思います。

 ええ、彼らは血の繋がらない子供たちでした。でも強い絆がありました。だからわたしは彼らを兄弟と呼びます。

 ちょうどわたしの長い眠り――わたしたちは就眠期と呼んでいます――が近づいており、寝床とその準備を任せられる下働きを探していたのです。したがって、眠りへのあらゆる支度も彼らに頼むと決め、使いの者をおくりました。

 使いの者が彼らを連れてきたときの、二人のあの顔。想像できるでしょうか? とても不安そうに怯えきっていました。兄のトーチカは弟のフーリを庇い、自分の小さな背中に隠そうと必死な様子でした。

 無理もありません。むしろ当然と言えました。彼らには親も親戚も誰ひとり、頼れる大人はいなかったのです。

 その境遇は、どこかわたしと女王の繋がりのように感じられ……彼らを守るものがないのをいいことに、半ば無理にわたしの傍へ置きました。

 彼らが慰めになるかもしれないという期待が半分、今より深い穴を覗くことになるかもしれないという怖れが半分でした。どちらかというと、怖れのほうが強く、もしそうなったらこの兄弟を引き離すつもりでした。

 ヘドロで底が見えない、悪臭を放つ汚泥のような胸中で、わたしは小さな兄弟を手に入れたのです。


 小さな兄弟には、下働き用の部屋を与えました。簡素で必要なもの以外何もありませんが、兄弟、とくに弟は喜んでいたようです。

 引っ越しが終わり、顔見せの挨拶のとき兄トーチカが、

「ぼくたちは、なんとお呼びしたらいいのでしょうか?」と、問いました。

 わたしの名を聞いているとわかりましたので、

「城主と呼ぶがいい」と答えたところ兄は不思議そうな顔をしましたが弟のフーリがすかさず、

「じょうしゆぃ! りっぱなおへやをありがとう!」と、舌足らずながらも元気よく朗らかに笑ったので、その場にいたみんなも笑顔に包まれたのです。

 ただ、兄のトーチカは無礼な物言いだと心配したようで、その後フーリを少し叱ったようでした。

 その話を耳にしたとき、わたしの心は波立ちました。

 つい昨日までは、食事も掃除もなにもかも自分たちで行い、一日を無事に終わらせることだけで精一杯だったはずです。ですからわたしが小さい兄弟を迎え入れるとき、

――それはとても良い行いです。女王もお喜びになるでしょう――と、みんな喜びました。

 しかし贅沢を覚えれば、兄弟の関係が崩れるのではないか……そんな不安な気持ちがありました。

 わたしが何故いちいち、小さな兄弟の繋がりを気にするのか、おまえは不思議に思うかもしれません。言ってしまえば、二人で生きる兄弟に理想を見ていたのです。

 女王と暮らすこと――それはわたしのたったひとつの願いでしたが、どんなに熱望し努力したところで、かなえられることはないでしょう。

 挨拶が終わったあと、さっそく兄弟に寝床になる場所を探して作るように言いつけました。

「小さき兄弟よ、しっかり聞きなさい。まず一番には静けさ。静寂がなにより優先。ちょうどよい気温と湿度に、硬くなく柔らかすぎないベッドと、ほのかな明かりがある寝床を作るのです。いいですか。わたしが途中で目覚めないよう、慎重にやらなければいけません」

 小さい兄弟には荷が重いなかなかの難題です。

 寝床の準備は、長く勤めている使いの者でも、完璧にこなせたものはいません。しかしだからといって条件を甘くするわけにはいかないのです。長い眠りの途中で目覚めることは、決してあってはならないことだからです。

 トーチカの表情は大理石のように硬く、

「どのくらい眠るのですか? なんのために?」と、震える声で呟きました。恐れながらも、自分たちに突然降りかかかった重大な事態を把握しようとしました。

「わたしにとってはほんの数時間、おまえたちにとってはわずか半年ほど。なんのために? そうですね……おそらく……おまえたちと同じ理由です」

 そのときのトーチカの顔は、一段と青ざめ暗い影がさしこんでいました。

「あまり時間がありません。急ぎなさい。わたしが満足できる寝床を作れますね?」

 トーチカは何か言いたそうに口を開きましたが、言葉を飲み込んだのでしょう。喉がくぅと小さな音をたてました。

「……はい……ご期待にこたえられるよう、せいいっぱい……」

 消え入りそうな声でどうにか返事をし、わたしに背を向けドアから出て行きました。

 弟フーリとわたしの眠りが、トーチカの小さな背中にのしかかっていました。


 おまえの陰鬱な思いが、灰色の雨雲のごとく寝床いっぱいに広がるのを感じたので口を閉じました。何か話すのではないかと待ちましたが沈黙しか返ってこないので「どうしました」と尋ねたところ、戻ってきたのはやはり沈黙でした。

 黙りこくっているのに、陰りはしみしみと墨が染み出るように浸透して、おまえの不満は募るばかり、わたしも負けじと沈黙を破ります。

「説明しろと要求したのはおまえです。応えたのは気まぐれですが、理由はどうあれ要求に応じた限り、わたしには最後まで語る義務が発生しました。おまえが望まないとしても覆されることはありません」

 急にガタン! と、大きな音を響かせながら椅子から立ち上がったので驚きました。しかしそれだけ、そのあとおまえはただ微動だにせず立ち尽くすのみでした。

 俯いているせいで元々闇のように色濃い影が顔の半分も覆っていましたが、影はさらに黒くなり、両ふたつの拳も震え、おまえが必死に何かを堪えているのが、ありありと伝わってきました。わたしとてそれくらいはわかるのです。しかしだからといって何が出来ましょう。今おまえのために出来ることは、唯一語ることだけ――

「……それから十日あまりたった頃、」


 それから十日あまりたった頃、小さな兄弟が寝床を完成させたと使いの者から報告され、わたしは詳しい場所を聞くこともせず、今すぐ案内するよう言いつけました。

 風がすり抜けるように城を出て、すっかり雪が積もった山間をひたすら急ぎました。雪で白く覆われた山中はとても静かで生き物はいないかと思うほどでした。でも、少し注意すると大小様々な足跡が見て取れます。

 だいぶ山深いところまで来たとき、突然目の前に湖が広がって道が途切れました。しかしそれでも使いの者たちは先へ進み、ついに湖の中へと潜っていったのです。これにはさすがに不思議に思いましたが、もう進むしかありません。

 わたしも湖の中へ、湖水をかき分けるように入っていきました。

 どんどん潜っていくと、やがて湖底に盛り土をしたようなドームが見え、その傍に小さな兄弟らしき影もありました。

「おまえたち?」

 驚きで言葉がつげないわたしにトーチカが、

「ぼくたち、湖がとても静かなことに気がついたんです。でも水の中はぼくたちにはどうにも出来なくて、みんなに相談したんです。そうしたらこんな場所を考えたのはぼくたちだけだって、確かに一番静かな場所だ素晴らしいって、みんな褒めてくれました。それで水の中でも平気になれる薬をくれたんです」

 興奮気味に一息に話しましたが、フーリはトーチカの背中から、わたしの様子を静かに伺うだけでした。

「……よく気がつきました。一番の条件は満たされています。それでは中へ」

 ドームは一面苔で覆われ、入り口は木目のドアでした。小さなノブを回してトーチカ次にフーリ、その後を滑り込むように中へ入り扉を閉めたところ、水が抜けて地上と同じく呼吸ができました。さらにドアを開ければトンネルのような回廊が繋がって突き当たりにまたドアがありました。使いの者たちは回廊の途中で立ち止まり、わたしたちの様子を静かに見守ります。

 三枚もの扉を開けてたどり着いた部屋はこぢんまりとしていました。ベッドなど必要なものは全て整っていましたが、必要なもの以外はありませんでした。

 ベッドに座ってみると、なかなか良い弾力があり、硬すぎもせず柔らかすぎもせず、条件どおりの出来です。

 しかしそれだけでした。わたしは不満に思いませんでしたが、満足も感じませんでした。それでも合格と言えたでしょう。これまで、使いの者たちが用意した寝床もこのようなものでしたから。

「ベッドもなかなか良いです。さっそく今晩からここで眠ります」

 扉の外で待っている使いの者たちへ言いました。

「おまえたち! わたしの荷物をここへ運ぶのです!」

 使いの者たちが一斉に動き出す気配を感じましたが、兄弟はわたしの様子を伺うばかり。トーチカが不安そうな顔で、

「城主……? ほんとうにこれで?」

「わたしがいいと言ったのが聞こえませんでしたか」

「いいえ、いいえ。はい……ぼくたち……」

 まだ不安そうなトーチカに、わたしはああ、と思いついて、兄弟を宥めようと優しい言葉をかけたのです。

「寝床を作ったらお払い箱だと心配なのですか? そんなことはありません。わたしが眠りについている間もおまえたちには仕事がたくさんありますし、目覚めた後はもっと忙しくなりますから」

 でもトーチカもフーリもわたしからゆるゆると後ずさり首を横に振るばかりでした。

「じょうしゆぃ……」

 フーリが儚い声でわたしを呼びましたが、わたしにはそれが一体どういう意味なのか見当もつきません。

 トーチカが意を決したように顔をあげわたしの目を見つめながら、

「あのっ、もし、もしも眠れなかったら、城主はどうなるんでしょうか?」

「眠れない? わたしが眠れなかったら? ……それはかつてないことです。経験したものをわたしは知りません。よってどうなるかなど知るよしもありません」

 トーチカはごくりと喉を鳴らしながら両手で顔を覆いました。わたしの言葉はフーリには難しかったのでしょう、きょとんと間の抜けた顔をしていました。しかし兄の様子に恐れがでたのか、大きな目に涙が浮かんで唇を震わせながら、

「じょうしゆぃは、このまま、ねむれなかったら……」

 朝露が葉から零れ落ちるかのように、大粒の涙をこぼし囁くように泣きました。

「しんじゃうの?」

 わたしは覚えず天をあおぎ目を閉じました。暗い瞼の裏に、戻ってこないわたしの女王が写ります。いつも今時期、わたしと新しい寝床について語り合った女王は帰ってくるのだろうかと自問自答しました。

 眠れなければどうなってしまうのか誰も知らないように、わたしの女王は帰ってくるのか、誰にもわからないことでした。

 しかし喉の奥になにかが絡まって、フーリの問いには答えられませんでした。


 使いの者たちが荷物を全て移動し終え、ドーム型の寝床は完成しました。いよいよここで眠るのです。とはいっても、すぐに長い眠りにつくわけではありません。通常、わたしはこの就眠期以外はまったく眠りません。はっきりした周期があり、段階を踏んで眠りにつきます。そのときのわたしの睡眠時間は三時間になろうとしていました。

 寝床の壁には淡い灯火が設置され、サイドテーブルや部屋の隅などにも配置されました。全体が暖炉のようなオレンジ色の暖かい光で満たされていきます。テーブルの上には安眠へと誘う香りも用意されました。

「城主が気に入るといいんですけど」

 トーチカが言いながら香りを灯したところ、ラベンダーの爽やかさが広がりました。

「いいにおい!」

「ええ、良い香りです。二人ともありがとう」

 ぱあっと頬を赤らめて大きく笑うフーリに、トーチカも笑みがこぼれていました。

 和やかな空気で満たされた寝床に、きっと難なく眠れるだろうと思いました。

 しかし三日たち四日たち一週間がたっても、暖かい予測を裏切るかのように、わたしの睡眠時間はいっこうに長くなりませんでした。すでに寝床が出来るまで十日、出来てから一週間も流れています。

 わたしは心なしかだるさを感じておりました。おまえたちがいうところの睡眠不足だと思われましたが、なにせ初めてのことです。しかし漠然としていた不安がひたひたと確かな足音を立てるがごとくに、小さな兄弟たちはおののきました。

 わたしはベッドへ体を横たえることが多くなりました。しかし眠ってはいません。うつろな目と頭で、視線はどこをみるともなく宙をさまようばかりでした。

 尋常ではない――ように見える――わたしの状態に、使いの者たちも焦りはじめました。もう小さな兄弟に任せていられないと、これまでの寝床作りでやってきたあらゆることをやりました。しかしわたしはうまく眠れませんでした。眠りがひどく浅いうえに三時間たてば目が覚めて、その後は一分たりとも眠れません。どんなに眠気を感じていようが、うとうとすることすらなく日に日に身にこたえるのです。

 あるときトーチカが、ベッドのうえで気だるそうに投げ出されたわたしの手を握りしめ、

「城主、ご希望をおっしゃってください」と、言い出しました。

 しかしトーチカの唐突な質問がまったく理解できません。何かの言葉を紡いでいるんだと認識することにもしばらくかかりました。

「城主の好きなもの、お好みを教えてください」

 粘り強く何度も繰り返したところで、わたしはようやくトーチカが何を言っているのかわかりましたが、これまで自分の好みなど、考えたこともなかったと気がついただけでした。

「好み…わたしが好きなもの……」

「そうです。なんでもいいのです。りんごが好きとか歌が好きとか、なんでも」

「歌……」

 言われるまま朧な頭を必死に巡らせたところ、わたしの女王は歌が好きなことを思い出しました。いつもわたしの傍で歌ってくれるのです。明るく伸やかな声は幸せと安寧を運んできました。

「……そうね。歌は好きです……わたしの女王の……綺麗なソプラノが好き……」

 トーチカは少し安心したのか胸を撫でおろしながら、

「ぼくもフーリも歌が大好きです」

 そしてくるりと翻り、木目のドアから出て行きました。

 その小さな背中には幼い弟とわたしの不眠がのしかかっていました。以前にもそれを見たことがあると思いました。いつどこで見たのでしょう。考えようとすると、トーチカの小さな背中がぐるぐる回りだし、苔で覆われた緑の天井も回りはじめ、次第に渦が大きくなりやがては湖の湖面まで回り、巨大な渦巻きは渦潮となってわたしを巻き込み使いの者たちを巻き込み、森も町も巻き込み、しまいにはこの世界すべてを巻き込んでいくのです。渦に巻かれ飲み込まれたあらゆるものたちはそれからどうなるのでしょう。ただ死んでいくのでしょうか。死というものをわたしは知りません。死のその先にはなにもなくただただ暗闇が広がっているのでしょうか。ふと、わたしの女王はそこにいるのかもしれないと思いました。

「城主!! 城主!! しっかりしてください!」

「じょうしゅぃいいっ!」

 わーん! トーチカの焦り声とフーリの泣き声で目が覚めました。いつの間にか意識を失っていたようです。冷や汗なのかよくわからない汗で全身びっしょりでした。うろの目のわたしにトーチカが、

「城主っ……」

 苦しげに呼びました。

 わたしは涙で濡れたフーリの頬に指を伸ばそうと、体を少し起こしました。すると背後から首元をかするように、何かが飛んでいきました。そして、たっぷりと葉を茂らせた大きな木が、わたしのぼんやりした視界に飛び込んできたのです。

 苔で覆われたドーム型の壁にあちこち窓が作られていました。透明なガラスから湖水をとおした青い光が差し込んできます。

 ここは湖の底ですから、日がさんさんと当たっているわけではありません。けれど水を通して青みがかった光が、そこかしこから差し込んでいました。

 底には透明な床板が敷かれており、魚たちが泳ぐのが見て取れました。

 また、たくさんの草木が鉢や花壇に植えられ、湖の中なのを忘れそうなくらいでした。特に部屋の中央に置かれた大きな木は、生き物たちの憩いの場になっていました。

 さきほど駆け抜けていった正体は白い鳥でした。数羽の白い鳥たちがじゃれつくように枝にとまったり、囁くように鳴いたりして悠々と戯れています。

「これは、いったい?」

 なんと激しい変化でしょう。そんなに長い時間わたしの意識は混濁していたのでしょうか。我が目を疑うように激しくまばたきをするわたしに、兄弟がゆっくり語りかけます。

「城主にはなんとしても眠ってもらわないと、ぼくたちみんな困ります」

「ぼくが木があったらいいねってゆったの。みんなでがんばって植えて、にいちゃんが鳥をつれてきたの。だからきっとねむれるよ」

 ベッドのきわで、わたしの顔をのぞきこむように話すふたりの声を聞きながら寝床を見渡しました。

 青く日が差す緑多き寝床など初めてです。

 朝には鳥が鳴きはじめ、昼には部屋を飛びまわり、夜には枝で眠る様子が脳裏に広がりました。しかしわたしは緑溢れる森を知りません。それにも関わらず夏の森とはこういうものかと、胸の奥にどこか甘酸っぱいような、夕暮れ時に降った夕立のような、湿り気を帯びた土の匂いを思わせる――そう、どこか懐かしさを感じたのです。

 小さな兄弟は、まったく申し分のない寝床を作り上げました。


 立ち尽くしいてたおまえが、いつとはなしにわたしの目の前まで顔を近づけていました。

「ちび共は、あなたに随分尽くしたようだ」と、腹の底からくぐもった声で言ったので、

「ええ、そのとおりです。小さい兄弟はとても良くやってくれました」と、頷きながら返しました。

「何故だ!?」

 しかしおまえは全身をぶるぶる震わせながら怒鳴り散らすのです。声を荒げるその理由をわたしは知っています。

「何故っ! ちび共をっ、」

 おまえも知ってのとおり兄弟はもういません。

「そうです。わたしが殺しました」

「どうして殺したか聞いているんだ! あなたを心から思いやっていたのに何故だ!? 説明しろーー!!」

 大きく口を開けて叫ぶおまえの喉奥から、闇のようにどす黒い怒りと悲しみが吹き出してくるのが見えます。わたしは不思議で仕方ありません。

「おまえはあの小さき兄弟の親、はたまた親類でしょうか?」

 唐突にすばやい動きでぼろ布の下から、どこにそんな大きなものをしまっていたのかと思うほどに特大のやいばを突き出しわたしの喉元にあてながら、

「血の繋がりがなんだっていうんだ? ちび共と俺はなんの関係もない。あるのはただひとつ、俺とちび共は同じ人間だ。それ以外に繋がりはひとつもないが、これ以上の因縁はあるまい」

「そうでした。おまえたちにはそれで十分。だからおまえはわたしを殺しにきたのです」

 日が暮れて夜が訪れるごとく、それはひとつの現象にすぎない――そんな無感情な物言いも気に入らないのでしょう。

「決して故意ではありませんでした。そこにわたしの意志は塵芥ちりあくたほどもなく、けれど兄弟は死んでしまったのです」

 殺めたいから殺める――そんなことはわたしには出来ません。しかしそう言ったところで、おまえたちは到底納得しないでしょう。こうしてとうとうと語るわたしは、おまえにどう見えているのでしょうか。


 新しい寝床はとても快適でした。睡眠時間も一時間ほど長くなり、わずか一時間といえども体調は楽になりました。青く淡い光と、夏のごとくの緑に鳥のさえずりが、わたしを随分と慰めてくれたのだと思います。とくに鳥の鳴き声は、わたしの女王の歌のようで、熱心に耳を傾けすがるように聞きました。

 そうしていたところトーチカが、

「城主はどうして、女王さまが帰ってくると思えないんですか? ぼくは女王さまのことも大人の事情も知らないけれど、城主が一番心寄せる方なんでしょう?」

 その疑問はある意味正しいでしょう。

 しかし大切なものがなくなったとき、その消失を受け止めさらに空白を埋めるには、並大抵のことではありません。絶望から希望を見いだすには、とても強い気持ちと時間が必要だということをわたしは学んだのです。

 ですからわたしも問いました。おまえは弟フーリがいなくなったら、強い気持ちでいられますか? と。

 トーチカは考え込みました。

「フーリがいなくなるなんて……考えたこともなかったです……」

 不思議なものです。トーチカはとうに親を失くしているのに、フーリがいなくなることは思いつきもしなかったというのです。けれど、わたしとて女王がいなくなるんて夢にも思いませんでした。女王が、わたしから消えてしまう――それはまさに悪夢で、しかも今現実となっているのです。

 女王のことを思うと、途端に奈落の底に落ちるような感覚に襲われ、わたしは倒れ込むようにベッドに横たわりました。

「ご、ごめんなさい。ぼく出過ぎたことを! 申し訳ありません!!」

「わたしの女王が戻ってこなければ、わたしは……きっと……」

 トーチカの何気ない質問が引き金になったとも思えません。ただはっきり言えるのは、就眠期が始まっても眠れないことに、わたしは限界を迎えていたのでしょう。しかしそれは、今思えばそうだったという話しです。そのときはわたし自身も、誰にもわからなかったことです。

 ふと気がついたとき、わたしの体は空を隠すほど大きくなっていました。

 寝床の窓や扉、天井までもからわたしの体は擦り抜け、湖面を飛び出していたのです。

 纏っている白い衣が、激しい風を受けて限りなく広がり、あっという間に空を埋めつくしました。

 わたしで塞がれた空からは、途方もない雪が降りそそぎ、渦巻く猛烈な風が雪をさらに凶暴化させていったのです。

 湖も城も、周囲一帯すべても飲み込もうとするわたしを、わたし自身どうすることも出来ませんでした。小さな兄弟はどうしたか気になり、きょろりと空から湖底へ視線をむけたところ、兄弟は寝床から呆然とした顔でわたしを見あげていました。

 ただ呆けていたのに、それなのに、突然フーリが火がついたように泣き出して、わたしは咄嗟にフーリを飲み込んでしまったのです。獣が動くものに反応する、それと同じくフーリを飲み込みました。

「うわあああああいやだああーー!! フーリッ! フーリイィッ!? どうして!?」

 ああ、なんということ――嘆いたところでわたし自身どうしようもありません。

 二人寄り添って生きているのを羨ましくまた妬ましく思ったのを、そのとき酷く後悔しました。

 城に呼んだとき、事がうまく運ばなければ兄弟を引き離すつもりでした。もうそんな無体な思惑はありませんでしたが、澱んだ心のありようが、小さな兄弟を不幸に落とし込んだのでしょうか。

 トーチカはただただ泣き叫びます。その姿は女王を失くしたわたしの悲しみそのものでした。

「フーリを返してええっ! 返してよおおおっ!!」

 どんなことがあっても、女王は必ず帰ってくると信じる気持ちがあれば、強い心があれば穴底へ落ちなくてすむでしょうか。

 されど体はますます膨れあがるばかり、湖も城も空も大地も、なにもかもがわたしで覆いつくされ、全てが、この周囲生きとし生ける者ありとあらゆる物が、凍るがごとく真っ白に染まりました。


「猛吹雪の翌日に、兄は湖で見つかった……弟は、森の中で倒れていた。あなたに尽くしていた者たちもみな死んだ! 殺すつもりはなかっただと!? どうにも出来なかっただと? そんなことで俺たちが納得すると思っているのか!?」

「納得など、考えているわけがありません。おまえが説明しろというから語ったまでです。それはそうと本気でわたしを殺せると思っているのですか? もしそうならそれこそ、」

 銀光りした大きな刃が弧を描くように翻り、わたしの喉元を掻き切ったので言葉を続けることができませんでした。

 切られた喉からは白い粉のようなものがさらさらと落ちていきました。けれどおまえは怯むことなく刃を押し込め、わたしの頭を落とそうとするのです。

 ふぅふぅと興奮した荒い息づかいが、あの酷い猛吹雪へと変貌したわたしと同じく感じます。

――お聞きなさい。わたしは本当に、なにものも殺すつもりはないのです。無駄なことはおやめなさい――

「俺だって殺せるなど思えない! でも、それでも! あなたが眠らないなら、殺すしかない!! これ以上死人が出るのはなんとしても食い止めるっ!」

 ああ、そうでした。これまでもわたしに近づこうとした者たちはみな同じことを言いました。どれほど無謀だとわかっていても、生き残るために――と。

 誰もがみな、苦しみながら言い続けてきました。生きるためには破壊しなければならない、そんなおまえたちを哀れに思います。

 しかし結局のところ、わたしとおまえたちも、どこか遠いところで繋がっているのかもしれません。

 あと少しで刃が首を落とすというところで、わたしの体は小さな音とともに破裂して、冷たくさらさらのパウダースノウとなり、寝床の天井やら床やら、隅から隅まで拡散していきました。窓から差し込む青い光に照らされた、わたしの細かな欠片がおまえに降りそそぎます。

「おお、なんという! あなたは綺麗だ、鳥肌がたつほどに美しい。だが、同時にこの世で一番恐ろしい、恐怖そのものだ。一切の慈悲を持たず、時に一瞬で俺たちを殺すのだ!」

――そのとうり。しかしいかにおまえがわたしを殺そうとしたところでまったくの徒労です。ただ、わたしの女王が帰ってこなければ、あるいはわたしも死を迎えるかもしれません――

 どこからともないわたしの声に、おまえは目を丸くしてあたりを伺いました。けれどわたしの姿はもう捉えることはできません。散り散りとなって拡散したのですから。

 姿が消えてもわたしは消えていないと悟ったおまえは、がっくりと肩を落としうなだれました。そういった人の姿を見るのはこれで何度目でしょう。

「ばかな……あなたの女王とやらが来なければ、どうなるというのだ……」

 シン……と、重力をともなった沈黙が寝床を訪れ、わたしもおまえも存在を踏みしめるように耐えるしかありませんでした。その重たさにわたしたちは足下が地へ沈んでいくのを感じ恐怖さえ覚えたのです。

 その時、回廊の壁に正しく並列された灯火が激しく燃えさかり、新たな訪問者を告げたのです。

 訪問者の気配にわたしは心の底から驚きました。同時にとても信じられない気持ちでいっぱいでした。

 気配はすぐにぱたぱたという足音となって重なりあうように響いてきます。軽やかなふたつの足音はおまえにも聞こえているようで、目をぱちぱちさせながら扉を見つめていました。扉の前で音がとまり、ついにコンコンとノックの音となったのです。

 もしわたしの姿が残っていたら、唇はわなわなと震えていたことでしょう。

――おまえたち……? おはいりなさい――

 おずおずと開いた扉から、ふたつの小さな頭が覗きこむように現れます。

――ああ、トーチカ、フーリ……ああ!――

「まさか、ちび共だっていうのか!?」

 ふたりとも姿形に変わりなく、死んでしまったのが夢ではないかと思うほどでしたが、真っ白く血の気がない頬は死を証明していました。

 それでもおまえに体を好きにさせるのではなかったと思いました。兄弟を抱きしめたい気持ちでいっぱいでしたから。

 声は聞こえど姿が見えないわたしを探すように、トーチカはきょろきょろ首をめぐらせ、寝床の中央にある大きな木の下まで歩いてきました。フーリも一緒についてきますが、わたしの姿が見えないのを気にしていないようで、

「じょうしゆぃ、くろいおにいさんだれ?」と、聞きました。

「フーリ、お兄さんはたぶんみんなを助けにきた人だと思う」

「ふーん」

 フーリはそれだけ言うと興味をなくしたようで、顔をうずめるようにトーチカの腰に抱きつきました。

 どうでもいいような態度をとられたのが面白くないのか、渋い顔をしたおまえがなんだかとてもおかしく感じ、覚えず笑みの感情が吹き出しました。それを敏感に察知したおまえが、

「今笑いましたな? なにがおかしい」と、憮然としながら言ったので、ますますおもしろくなり、つい先ほどまで重たい沈黙に押しつぶされようとしていたのが、まるきり嘘のように思えました。

 トーチカとフーリが訪れただけで、暗澹あんたんたる空気が一気に霧散して晴れ間が見えたかのようです。ただの弱い人の子だと思っていましたが、そうではありませんでした。小さな兄弟は確かに、とても暖かなものを与えてくれるのでした。

 トーチカは大きな木の下から天井を見上げ、鳥たちが飛ぶのをしばらく見ていましたが、

「城主の女王さまを連れてきました」と、少し早口で言ったのです。

 予想だにしない言葉に、半ば呆然としてしまいました。

「じょうしゆぃが、ずっと泣いているから、さがしたの。でもすぐそこまで来てたんだよ」

 わかった? というかのごとく、フーリは首を左右に傾げます。

――……女王をつれ……? いいえ……わたしは泣いていましたか?――

「うん。なみだはないけど、ないてたでしょ。ぼくたちわかってたよ」

 わたしの悲しみをこの兄弟が正しく理解したことは、希望と言っていいかもしれません。なにせわたしは人間ではありませんから。

 さらに、わたしの女王を探してここへ連れてきたなどと。あまりに信じられないことで、すぐには理解できませんでした。人間にそんなことは出来ないからです。もし出来るなら、おまえがわたしを殺すこともまた可能でしょう。

 けれど、眠れなくてあんなにつらかったのが、今はあまり苦しくありません。兄弟が言うように女王は確かにすぐ近くにいると思われました。

 トーチカの腰に抱きついたまま、フーリはわたしに問いました。

「じょうしゆぃ、これでねむれる? もうなかないよね?」

 意図せずともわたしが殺してしまった兄弟です。誠実に応えねばなりません。

――わたしの女王が帰ってきたのならば、なにも問題はありません。これまでどおり滞りなく眠れますし、悲しみも終わるでしょう――

 わたしはそう言いながら、寝床中に散っていた無数の欠片を集めました。そして兄弟たちに降りそそぎ、螺旋を描きながら囲み、足下まで包み込むようにしたのです。

「わあ! とってもきれい! きらきらしてる!」

 喜ぶトーチカとフーリを尻目に、おまえはただ眉をしかめ、

「ちび共、ほんとうにその女王とやらを連れてきたのか? どこにいる?」

 和みの空気を蹴破るような物言いに、フーリは口をとがらせ、

「いまくるもん! ていうか、くろくてこわいおにいさんがいるから、いなくなってからくるってゆってた!」

「なっ! くろくてこわっ、て…」

 絶句して口をぱくぱくさせるおまえに、わたしはもう笑いをこらえることができませんでした。体があれば大声で笑い転げていたでしょう。かえすがえすも好きにさせなければよかったと、とても後悔したのです。

 しかし安らぎの時間は短いものでした。

 気ままに飛んでいた鳥が二人の肩にとまったところ、トーチカがおもむろに、

「ぼくたちもういかなくちゃ」と、フーリに告げました。

「おやすみなさいなの?」

「そうだよ。もうおやすみなさいの時間だ」

 兄弟は手をしっかり握りあい、ドアへと顔をむけながら、

「城主、おやすみなさい」

「おやすみなさい。ぼくたちをたすけてくれてありがとう」

「暖かい部屋とおなかいっぱいの食事をありがとうございました」

――トーチカ、フーリ、――

 引止めたい気持ちがありましたが、もう二人とも遠くなりつつありました。二人に寄り添うように死が色濃くなっていたのです。

 わたしはとても言葉がでませんでした。おまえたちがするように、あやめるつもりはなかったと詫びればよかったのかもしれません。でもそれは出来ませんでした。

 わたしがひもじい兄弟に与えることができたのもまた命を奪ったのも、わたしにしてみればまったく等しいことで、感謝でも謝罪でも推し量れはしないのです。ただただ、わたしという存在そのものが何かでいっぱいに埋めつくされ、到底言葉などだせませんでした。

 おまえは今にも立ち去ろうとする兄弟に、

「待て、ちび共! 悔しくないのか!? 恨んでいるだろう!」

 しかしトーチカは背中を向けたまま、はっきり言いました。

――お兄さん、恨んだってぼくたちは生き返れないよ? それに城主は憎めない。だって城主がいないと、ぼくたち誰も生きていけない――

 言葉が終わると同時に、小さな兄弟は青い光に溶けこむように消え去りました。

 兄弟がいなくなってしまえば、また重たい沈黙が来るだけに思われましたが、おまえは言葉を噛みしめるように口にしました。

「ちびの言うとおりだ。あなたのせいで大勢が死ぬ。しかし、そもそもあなたがいなければ生きることはできない」

 おまえは全て納得済みでここへ来たのでしょう。わかっていながらそれでもやらなければ気がすまない、おまえたちの事情もあるのでしょう。

――さあ、もうお行きなさい。わたしは語りつくしましたし、女王がすぐそこまで来ているのです。おまえももう帰りなさい――

 しかしおまえは名残惜しそうに続けます。

「あなたに会えたことは、俺にとってはとても言い尽くせないほどに奇跡です。正直たどり着けると思っていませんでした。ほんとうはとても、」

――もう口を閉じなさい。これ以上語りあうべきではありません。おまえはおまえの世界に、沈黙を持って戻りなさい。――

 わたしは数限りない欠片をひとつの塊に密集させ、おまえの体を突いてドアから押し出しました。くるくる回り流されるように回廊を抜けドームから出ましたが、さらに勢いをつけ押し込み続けました。

「! どうか! 俺たちに、」

――お行きなさい。わたしもまもなく明かりを消します。ええ、もはや眠るのです。おまえが生きて帰れるのもまたひとつの恵みでしょうから、それを忘れてはなりません――

 ゴバア! と、激しい音と大きな水柱があがり、湖面から空へと飛び出るようにおまえを押し上げ、地上へと返しました。

 そうして、静寂が訪れました。

 おまえがここへ来たとき、わたしは少し憂鬱な気持ちでした。知っていたのでしょうか? 許されざる訪客が生きて帰れたことはないことを。

 わたしを殺そうとしたおまえの荒々しい興奮した息づかいがもう懐かしくて、名を聞けば良かったと思いました。小さな兄弟、そしておまえと出会って人への関心がわいたのでしょうか。

 何度も、それこそ気が遠くなる時間の中で、無限に繰り返されるおまえたちの生へのあがきを思いめぐらせます。おまえたちは、どんな暗闇の中でもなんとかして明かりを灯そうとする、そんな性質を持っているのかもしれません。

 ああ、おまえは仲間になんと呼ばれていたのでしょうか。わたしに名はありませんが、それでも考えはとまりませんでした。

 名を持たないことを少し寂しく感じます。

 とはいえ、呼称はなくとも通称なら数え切れないほどあるのです。しかしどれもみな意味は同じです。なかでもよく使われるものをいくつかあげましょう。

 人々はわたしを、Queen of Winter.または、Reine hivernaleないしUberwintre Konigin.あるいは、冬の女王と呼びます。

 わたしの女王を迎えるため、回廊の明かりをひとつずつ消していきました。ひとつ消えるごとに、女王の足音が大きくなります。そしてひとつ暗くなるごと、鳥たちがそれぞれの枝で羽を休め目を閉じていきました。

 幾度となく繰り返されてきた、わたしの幸せが帰ってきました。ようやく眠れることに心の底から安堵したのです。

 そして女王はこれから寝床でまどろむわたしに、透きとおるような明るい声で歌ってくれるでしょう。

 最後の最後に、もうここには居ない、おまえだけに教えましょう。

 わたしの女王のとおり名は、Queen of Spring.またはReine du printempsないしLas Konigin los.あるいは春の女王です。

 わたしの女王が、春の女王が、冬の寝床にたどり着くとき、おまえたちに春期しゅんきが訪れるのです。

 たくさんの恵みを受けて生きるおまえたちを、夢のなかで見ることでしょう。

 ああ、ついに女王が寝床へたどり着き、わたしへと優しく囁きました。

――冬の女王よ、わたしの女王、おやすみなさい――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る