閑話 ―3―

 自称・半人前の教師に呼び止められた僕は振り返る。


「楠木君、猫屋敷さんと仲が良いって聞いたんだけど、ちょっと彼女の家に行ってきてくれないかしら?」


 放課後、教室の前の廊下でのことである。

 見るとそこには河内こうち雪菜ゆきな先生が立っていた。

 買ってからそう経っていないレディススーツを身に纏い、長い黒髪を頭の後ろで一つにまとめている彼女は、一週間ほど前に僕のクラスに来た教育実習生だ。教育実習生を“先生”と呼ぶのはもしかしたら間違いなのかもしれないけれど、しかしそれに代わる呼称も思い当たらないので僕は彼女の事を先生と呼んでいる。クラスの他の連中だって(むしろ疑問に思うことなく)先生と呼んでいるのだから、問題はないだろう。

 先月、僕が所属している二年C組の副担任であるところの女性教師(真壁先生という)が産休に入ったため、その業務の一部を河内先生が引き受け、我ながら上から目線になって申し訳ないとは思うけれど、しかし彼女は教育実習生にしてはよくやっている方だった。まあ、担任があまりに不甲斐ないからそう見えているのかもしれないけれど。

 彼女は生徒からの評判も、すこぶる良い。女子は彼女のことを歳の少し離れた姉のように、あるいは友人のように思い、そして男子は憧れに満ちた眼差しを向ける。

 とは言っても、それは普通の中学生に限った話である。

 僕自身は特殊だとは思わないが、しかしそういった普通の中学生とも少し違うので、河内先生との関わりはほとんどなかったのだ。

 そんな先生に呼び止められたわけだから、何だろうと疑問に思ったが、しかしその内容は、何だって? 猫屋敷さんの家に行ってこいだって? 冗談ではない。


「ただプリントを届けるだけで良いから、お願いできないかしら」

「そう言われましても……」


 しかし、僕は文句を言うことは許されなかった。

 河内先生のせいではなく、彼女の隣にいた人物のせいである。

 野々宮ののみや美里みさとが、満面の笑みでそこに立っていた。


「それは良い考えですね、河内先生! ねえ、楠木君、お願いできないかな?」

「どうして僕が……」

「えー。だって猫屋敷さんと仲が良いじゃない」


 決してそんなことはない。

 つい先日、猫屋敷さんが巻き込まれた花壇の事件を解決して以来、確かに僕と彼女が話す機会は増えたけれど、仲が良いなんてことはないはずだ。


「いやいや」


 野々宮さんが顔の前で手をひらひらと横に振る。


「十分良いと思うよ。休み時間はほぼ毎回話してるし、昼休みは屋上で一緒にお弁当を食べてるんでしょ? しかも猫屋敷さんの手作り。これで仲が良くないなんてことはないよ」


 休み時間に話しているのは向こうが話しかけてくるからだし、昼休みに屋上に行くのは静かに読書ができるからだ。まあ、確かに昼食に関して言えば向こうの厚意に甘えてはいるけれど、別に僕から頼んでいるわけではない。


「だったら、楠木君は昼食の分だけ猫屋敷さんに借りがあるってことだよね。それを返すってことで、お見舞いくらい良いじゃない」

「はあ……」


 そう言われると、少し弱い。

 お見舞いとまでいかなくても、プリントを届けるくらいのことはしても良いのかもしれない。

 しかし、だ。僕は彼女の家の場所を知らない。


「それなら私、地図持ってるよ!」


 そう言って、野々宮さんはスカートのポケットから四つに畳まれた紙を取り出した。

 この手際の良さ……あらかじめ用意していたに違いない。おそらく自分で行くつもりだったのだろうけれど、河内先生の話を聞いて便乗したのだ。


「さっき升田先生に聞いてきたんだよ」

「あの人は個人情報の保護とか考えないのかな……」


 と言うより、この場合は無駄に信頼されている野々宮さんが問題なのかもしれない。


「地図があるなら野々宮さんが行けば良いじゃないですか」

「いや、ほら、私これから部活あるし。行きたいのはやまやまなんだけどね。それに猫屋敷さんも私がお見舞いに行くより、楠木君が行った方が喜ぶと思うよ」

「いやだから、そんなことは、」

「あるってば!」


 とにかく、と続ける。


「これは楠木君にしかできない仕事だよ! 委員長命令です!」


 委員長命令って……職権乱用だろう。

 しかし、そこまで言われてしまったら断る理由はない。見つけられない。

 僕は大きく息を吐くと、渋々ながら野々宮さんが差し出している地図を受け取った。




 猫屋敷綾。二年C組所属。出席番号三十番。窓際の一番後ろの席。

 僅かに外側に跳ねたショートカットの髪の毛と、整った顔立ち、細い体、手足が特徴。

 学校を休むことはたまにある。あまり健康的な生活をしていないのかもしれない。あるいは生まれつき体が弱いのかもしれない。

 彼女の好きな作家はシェイクスピア。好きな哲学者はニーチェ。

 好きな食べ物は、意外なことながらプリンだという。駅前の洋菓子屋のプリンが最高だと、以前言っていた。

 というわけで僕はわざわざ遠回りしてそのプリンを入手し、猫屋敷邸の前まで来ていた。

 家というか……。


「城みたいだな」


 思わずそう呟いていた。

 僕の目の前には大きな、とても大きな洋館が建っている。ヨーロッパの貴族が住んでいそうなほど大きな館だ。見た感じ、門から玄関までですら五十メートルほどある。

 確かに猫屋敷さんは変人だとは思ってはいたけれど、それに加えてお嬢様だったとは。いや、あの浮世離れした雰囲気を鑑みるに当然のことなのかもしれない。

 そんなことを考えながら、僕は戸惑いつつもインターフォンに手を伸ばした。


『はい、ただいま留守にしております。御用の方は、合図の後にメッセージをどうぞ』


 少しして出た女声がそう言った。

 留守番電話か……いや、インターフォンで答える留守電なんて聞いたことはないぞ。と言うより、これは間違いなく猫屋敷さんの声だ。

 やれやれ……。


「つまらない冗談は止めてさっさと開けて下さい、猫屋敷さん」

『ああ、何だ、君か……すまないが、今日は帰ってもらえないか。体調が悪いんだ』

「つまらない冗談は止めて下さいって言いましたよね。開けてくれないなら、せっかく買ってきたプリンも無駄になってしまいますね」

『む。プリンか……ならば仕方がないな。入りたまえ』


 まったく、最初から素直に開けてくれれば良いものを。

 しかし、一体どれだけプリンが食べたいんだ。

 まあ、何はともあれプリントを渡すという仕事は果たせそうだ。

 僕は鉄製の門を開け、猫屋敷さんの家の敷地に踏み入る。

 猫屋敷邸は庭もすこぶる上等なものだった。季節に合った花々が咲き乱れている。しかし手入れは行き届いているので、もしかしたら業者か何かに頼んでいるのかもしれない。確か彼女の両親は共働きだと言っていたはずだ。共働きの両親がこれだけ広い庭を整備できるとは思えない。

 門から真っ直ぐに進んで猫屋敷邸の玄関の前に立つ。扉も見ただけでその重厚さが伝わってくる。細部まで装飾が施されており、扉だけでも一見の価値があるようだ。

 扉は数分と待たずに開かれ、中から薄桃色のブラウスとショートパンツに身を包んだ猫屋敷さんが顔を覗かせた。僕は買ってきたプリンの箱を顔の前に持ってきてみせる。その瞬間、彼女の顔がぱあっと明るくなり、勢いよく扉を全開した。


「君にしては気が利いているじゃないか」

「ただの気まぐれですよ」


 プリントを鞄から取り出す。


「河内先生からこれを預かっています」

「プリント? そんなもの、机にでも入れておいてくれれば良かったのに」

「そういうわけにもいかないでしょう」


 そのおかげで僕が貧乏くじを引かされたのだ。

 しかし、まあ、これで僕に課せられた任務は完了というわけだ。

 僕は猫屋敷さんに背を向ける。


「待ちたまえ、楠木君。折角来たのだから、お茶でもどうかな?」

「お断りします。早く帰りたいので」

「そんなこと言わずに!」


 少女の手が伸びて僕の袖を掴む。

 何ともわがままなお嬢様だ。仕方ないか。


「はあ、まあ、そんなに言うなら。少しだけですよ」

「ありがとう! さあ、上がってくれたまえ!」


 僕は引かれる腕に従って、館へと入ったのだった。




 猫屋敷邸の内部は想像通りのものであった。

 壁の至る所には細かい装飾が施された額縁の絵画が飾られており、長い廊下の所々には中世ヨーロッパの甲冑が置かれている。まるで映画のセットか何かのようだ。

 きょろきょろとするのも失礼だと思ったので、僕は顔の向きを前を歩く猫屋敷さんの後頭部に固定し、視線だけを左右上下に動かして観察していた。


「そういえば」


 猫屋敷さんが口を開く。


「どうして私が仮病だと分かったんだい?」


 やはりそうなのか。


「誰とも会いたくないのなら留守電の真似なんかせずに、居留守を使えば良い。体調が悪いのなら尚更ね。それなのにそうしたのは、遊び心からでしょう?」


 そんな遊び心だけで広い屋敷の中をわざわざ移動する人間が、病気だとは思えない。

 説明を終えると猫屋敷さんはなるほどと頷いてみせた。


「言われてみれば簡単だね」

「どうして仮病なんかを?」


 いくら義務教育とはいえ、欠席が多いのはあまり良い顔をされないだろう。


「そうだな……朝目を覚ましたらすごく良い天気だったから」

「今日は朝から曇りです」

「では、曇り空が憂鬱な気分にさせたから、というのはどうかな?」


 あるいはふとモーツァルトが聴きたくなったから、もしくは無性に部屋の掃除をしたくなったからというのでも良い、と彼女は付け加える。

 要は意味なんてない、ということだった。

 もしかしたら彼女の他の欠席も仮病だったのかもしれない。


「半分くらいはね」


 そう言って、猫屋敷さんはイタズラめかしたように笑った。

 こんなことならわざわざプリンなんて買わなくても良かったかもしれないな。


「そんなことはない。確かに私は病気ではないが、好物を食べればより元気になる」

「だけどそれは僕には何の利益もないよ」

「あるじゃないか。こんな美少女が喜んでいるところを間近で見られる」

「自分で美少女とか言われてもね」


 不覚にも、その冗談に僕は笑ってしまった。まったく、仕方がない人だ。

 長い廊下を進み、階段を上り、さらに長い廊下をまた進む。

 もしかしたら視線を泳がしている僕に気付いたのかもしれない。猫屋敷さんが口を開く。


「この家の広さに驚いているのかな?」

「ええ、まあ」

「祖父が知り合いから譲り受けたんだ。幾らか手は加えてあるが、建物自体は明治時代に建てられたものらしいよ」

「へえ。道理で」


 立派な館なわけだ。

そして角を三つほど曲がったところで、前を歩く猫屋敷さんは足を止めた。そしてすぐ目の前の扉を開ける。


「ここが私の部屋だよ。今お茶を淹れてくるから適当にくつろいでいてくれたまえ」


 そして僕を部屋の中に案内して、彼女は去ってしまった。

 僕は屋敷の中を見て回りたい気持ちもあったけれど、人の家を勝手に歩き回るのはマナー違反かと思ったし、何より迷いそうだったのでやめた。代わりに僕は猫屋敷さんに言われた通り、彼女の部屋に入ることにした。

 部屋に一歩踏み入った瞬間、古い本の匂いが漂ってきた。右手側に目をやる。軽く二十畳はありそうな部屋の壁には大きな本棚が置かれており、その中身は見るからに古そうな本で一杯だった。

 その反対側の壁際にはベッドと学習机、そしてクローゼットが置かれている。机の脇にはこれまた珍しく、蓄音機が置かれていた。おそらく猫屋敷さんの趣味なのだろうけれど、今時蓄音機なんて博物館でくらいでしか御目にかかれないだろう。

 部屋の中央にはテーブルと椅子が、そして入り口正面の窓際には安楽椅子が置かれていた。安楽椅子に揺られながら古い本を開き、レコードの音色に耳を傾ける彼女の姿を、僕は容易に想像することができた。

 前に進み、本棚の前に立つ。

 僕はこれでもそれなりに本は読んでいると思うけれど、猫屋敷さんの読書と僕のそれは少し違うようだった。

 僕はいわゆる雑読だ。小説を読むことがあれば漫画も読むし、専門誌を読むことだってある。専門誌と言っても経済学から心理学まで、その内容は多岐に渡っている。

 対して、猫屋敷さんの本棚にはある程度法則性が見られた。主に哲学書と純文学だ。何とも固いイメージの本ばかりであるが、しかしそれがより猫屋敷さんの猫屋敷さんらしさを強調していると言えるだろう。

 シェイクスピア、ニーチェ、デカルト、マルクス、論語、漱石、太宰、芥川……ビックネームばかりと言うわけでもなく、僕が知らない作者の本も何冊も並んでいる。が、まあ、知らなくてもあの猫屋敷さんが読んでいる本だ。どうせ僕が読んでも到底理解できないような内容のものなのだろう。

 しかし、彼女が好んでいた本は大体分かる。

 そう思った時、部屋の扉が開かれた。


「楠木君、君も相当な読書家だと見受けたが、好きな本はあったかな?」

「いえ、僕はあまり好き嫌いしないタイプなので。猫屋敷さんはコナン・ドイルとシェイクスピア、それから坂口安吾がお気に入りのようですね」


 そう言うと、彼女は目を丸くさせた。

 部屋に入り盆の上に置いて持っていたティーセットをテーブルの上に置くと、つかつかと僕の前までやって来る。


「どうして私のお気に入りの本が分かったんだい?」

「本棚を見たからですよ」

「……君は言葉を省略するという悪癖を直す気はあるのか」


 いやはや参った。そう言われると返す言葉がない。

 僕は言葉を付け加えることにする。


「本の並びですよ」


 僕は猫屋敷さんに視線を本棚に向けるように促した。


「この本棚は作者ごとにまとめられてはいるけれど、それが五十音順に並んでいるわけじゃない。だとすると、頻繁に読む本は目線くらいの高さに配置されるのが自然です。それに、シェイクスピア、コナン・ドイル、坂口安吾はあからさまに埃が堪っていない」


 隅の方に追いやられた本には、幾分か埃が堪っている。

 ここまで言えば十分だろう。

 猫屋敷さんがなるほどと頷いてみせた。


「君は相変わらず見事な推理を見せてくれるね」

「別に、たまたまですよ」

「ふふ……そうかもね」


 さて、と猫屋敷さんが続ける。


「お茶にしようじゃないか」


 促されるまま、僕は彼女の対面の椅子に腰かける。

 用意されたティーカップは見るからに高価そうなものばかりだった。シンプルな白を基調とし、青色のラインで薔薇が描かれている。その下のソーサーも似たようなデザインだ。

 猫屋敷さんはそのカップを手にすると、空中の少し高い位置から紅茶を注ぎ始めた。何だか本格的な淹れ方だ。無論、そのティーポットにもカップと似たような青色の薔薇の装飾があしらわれている。


「君は」


 彼女が口を開く。


「紅茶は?」

「いいえ。たまにインスタントで飲むくらいです」

「そうか。紅茶は良い」

「僕はどちらかと言えばコーヒー派です」

「それは残念だ。次からはコーヒーも用意しよう」


 僕の前に紅茶が入ったカップが置かれた。香りが良い。インスタントとは明らかに違うものだということが、素人の僕でも分かるくらいだ。僕はコーヒー派だけれど、それはこれまであまり良い紅茶に出会えていなかったからかもしれない。


「ダージリンだよ。初心者でも飲みやすい紅茶だ」

「はあ」

「本当はアッサムが好きなんだがね、あれはなかなか癖がある。お客に出すには少々不向きだ」


 そう言って、彼女はカップを口に運んだ。


「うん。美味しい」


 僕も紅茶を口に含んだ。なるほど、これは確かに美味しい。やはりそこらのインスタントとは訳が違うようだ。飲みやすいというのも本当のようだ。


「猫屋敷さんは紅茶をよく飲むんですか?」

「まあ、それなりにはね」

「いつもはどんなカップで飲むんです?」

「どうしてそんなことを?」

「初心者にはそれくらいしか分かりません」


 紅茶の種類や匂いについて語るのは、僕には無理だ。

 彼女がふむと頷く。


「このカップを使っている」

「まあ、言いたくないのなら別に聞きませんけど」


 しかし、だ。


「沈黙が真実を導き出すということも、覚えておいてくださいね」

「どういうことだい?」


 僕は目の前のティーカップに目を落とす。


「良いカップですね」

「ああ。ロイヤルコペンハーゲンだ」

「ロイヤル……何だって?」

「ロイヤルコペンハーゲン。デンマークの、まあ、言うなればティーカップのメーカーだ」

「高価なものなんですか?」

「王室の御用達だよ。まあ、この家にあるのは安物ばかりだけれどね」


 と言っても一つ数万は下らないが、と付け足される。

 なんと。これはそんなに高価なものなのか。


「それはそうと、さっきの発言がどういうものなのかの説明をお願いできるかな」

「ああ、そうでしたね」


 僕は説明を再開する。


「こんなに高価なものを日常的に使う人間はそういない。現にこのカップも、貴女のも、あまり使われていないようだ。来客があった時に出すものなのでしょう?」

「まあ、そういうことになるね」

「そして貴女は普段使っているカップについて教えようとしなかった。それはなぜか」


 簡単なことだ。


「それは、そのカップが貴女のイメージとそぐわないものだったからだ。これは勝手な想像ですけど、とても可愛らしいものなんじゃないですか?」

「……どうして、そう思う」

「この部屋に入った時に感じました。正直あまり女の子らしくないな、と」


 本の趣味から細かな雑貨まで、到底、今時の女子中学生のものとは思えない。


「もちろん、貴女がそういう趣味なのは知っています。だけど、ないというのも、おかしな話です」


 何なら男子の部屋でさえ、可愛らしいモノも一つや二つあるくらいだ。

 だから思った。


「普通の女の子が持っていそうな、それこそ可愛らしいものはどこかにまとめて置いてあるんじゃないかって」


 言い換えるのなら、隠しているんじゃないかって。


「別に良いと思いますけどね、カップくらい」


 可愛いものじゃないか。


「猫の……カップなんだ」


 ポツリと、彼女が言った。


「猫が好きなんですか?」

「ああ、まあね……すまないがそれ以上は訊かないでくれ」


 そう言った猫屋敷さんの顔は、真っ赤に染まっていた。

 そんなに照れくさかったのだろうか。

 まあ、確かに気難しくて変人気質な彼女には似合わないかもしれないけれど。


「はあ……まったく、君という男は」


 顔を上げる。


「気付いていても言わない方が良いことというのは、あると思うのだが」

「そうかもしれませんね」


 ダメだな。猫屋敷さんの前だとつい喋りすぎてしまう。

 僕は紅茶を啜った。

 それから僕たちはたくさん下らない話をした。

 好きな本や、好きな音楽。好きなお菓子。好きな動物(無論、猫だ)。

 好きなものについて語る彼女は、実に楽しげな笑みを浮かべていた。普段からそのくらい愛想を良くしていたら、もっと友人もできるだろうし、男子からの人気も出るだろうに。


「そういえば」


 と、猫屋敷さんが口を開く。


「君の推理力には目を見張るものがあるが、どうやって身に付けたんだい?」

「別に大した推理力はないと思いますけど」

「謙遜はよしたまえ。まさか、才能だけでそれほどの実力があるわけでもあるまい?」


 どうだろう。本当に特別なことは何もしていないと思うのだけれど。

 ……いや、一つだけ思い当たることがある。


「僕の母方の祖母がそういう技術に長けていたんです」

「君の御婆様がね。どんな人だったんだい?」

「何でもお見通しの人でしたね」


 まるで魔法みたいに。

 母方の実家は秋田にある。山に囲まれた穏やかな田舎町だ。


「穏やかって言えば聞こえは良いけど、遊ぶところもないから若い人にはお勧めできませんね」

「でも君は、本があれば十分なんじゃないかい?」

「それはそうかもしれませんけど」


 たまには遊びたくなることもある。僕は一人で映画を見に行くのも好きなのだ。さておきその母方の実家は、一番近くのスーパーまで行くのにも車で三十分はかかるような街であった。


「僕だって子供の時から読書や映画鑑賞が好きだったわけではありませんから、母方の実家に遊びに行った時は酷く退屈したものです。……いや、正確には退屈するはずでした」


 その時、祖母が遊んでくれたのだ。だから退屈せずに済んだ。

 遊んでくれたと言っても、それなりに高齢だったから外で遊んでくれたというわけではない。


「いわゆる推理ゲームでしたね。周囲の人間を観察して何が分かるのかっていうゲームです」


 そうだ。その時に僕は人の観察の仕方を学んだのだ。

 その一。まずは足を観ろ。

 足は様々なことを語る。行ってきた場所、仕事、経済状況。嘘は顔ではなく足に出るとも言っていた。足は口ほどに物を言うのだ。


「それはどうして?」

「人は嘘をつく時、何に気をつけると思います?」

「表情、かな」

「その通り」


 だから嘘は顔には出づらい。


「だけど足は別です。気にしていない分、足には嘘が出やすい」


 その二。腕を観ろ。

 腕と言っても細かく分かれている。


「例えば手先にはその人の生活習慣が出ます。煙草や酒。仕事内容。器用さ不器用さ。

 例えば袖。その人が直前に何をしていたのか分かりますし、ここからも職業が分かることがあります」


 袖が摩耗していたら、その人はデスクワークがメインの仕事なのだろうとか、学生なのだろうとか、そういうことが分かる。


「後は肩や肘の形とかですね」

「肩や肘の形?」

「ええ」


 肩の形、正確には筋肉の付き方や関節の形だ。そこから職業、運動経験なんかが分かる。

 その三。口調を聞き分けろ。


「口調にはその人が生まれ育った土地柄が現れます。簡単に言えば方言ですね」


 しかし方言にも様々な種類があって、同じ県内でも北と南ではものすごく変わってくると、祖母は語っていた。これは僕も実践したのだが、残念ながら祖母ほど見分けがつくことはなかった。せいぜい相手の生まれ育った地方が分かる程度か。関西の言葉なのか九州の言葉なのか、あるいは東北の言葉なのか、といった感じだ。それくらいなら推理なんてものと無縁の人間にだってある程度は分かる。

 無論、口調を聞き分けるに当たって猫屋敷さんのような特殊な例もあるわけだけれど。……一体彼女はどのような環境で生まれ育ったのだろう。


「と、まあ、観察の方法はざっくり言えばこんな感じですね。一つ一つを見るのではなく、総合的に見ることが大事だとも言っていました。全ての推理は繋がっているんです」

「なるほど。よく分かったよ。でもね、楠木君、それは観察の仕方であって、君の推理の手法ではないだろう」


 そうだろうか。


「そうさ。論理的思考や発想の転換はどこから来るのかな?」

「それは……多分それも祖母のおかげですね」


 さっきも言ったと思うけれど、祖母の暮らす土地は遊ぶところがほとんどない。それは僕のような若者にとってであるが、同時に祖母のような年配者にとってもそうなのだ。


「だから祖母はテレビばかり見ている人でしたね。僕も一緒に見ていました」


 番組内容で一番多かったのは、いわゆる刑事ドラマだ。


「そこでの祖母もすごかったですよ。物語序盤でどんどん犯人を言い当てていくんです」


 そして僕は、その思考の順序などを学んだ。人間がどんな理由で罪を犯すのかも学んだ。勿論それはドラマ用に脚色されたものなのだろうけれど、現実にだって応用できる点はあるはずだ。


「それから、次はワイドショーですね」

「芸能人の醜聞を見るのかい?」

「いえ、大きな事件なんかが起こるとワイドショーが取り上げるじゃないですか。祖母はそれを見て、犯人や犯行方法、犯行動機を推理したんです。その正解率がまたとんでもなく高いんですよ」


 まったく。あの人の思考は今でも理解できない。僕はあれほどまでに頭の良い人間を他にはまるで知らないし、これから現れるとも思えなかった。

 猫屋敷さんが小さく笑う。


「君ならきっと超えられるさ」

「僕には無理だよ」

「そんなことはないと思うけど……そうなりたいとも思わないのかい?」

「まあ……今のままでもあまり不自由はしていませんからね」


 実際、普通に生きていて事件やら謎やらに巻き込まれることの方が少ないだろう。


「それは事件を事件だと認識していないからだよ。それでも、普通の人間に比べれば君はよく気付いている方だと思うけどね」

「さあ、どうでしょうね。僕は僕以外の人間になったことがないので分かりません」

「それはそうだろう」


 ところで、と彼女が言葉を繋ぐ。


「その御婆様は今どうしているんだい?」

「亡くなりました。一昨年の冬に」

「そうか……すまない」

「気にしないでください。まあ、どんなヒーローでも名探偵でも、老いには勝てないってことですね」


 だから仮に僕が推理力に磨きをかけようと努力したとしても、祖母を超えることはできないのだろう。

 僕は壁に掛けてある時計に目をやる。時刻は既に午後の六時を回っていた。そろそろ猫屋敷さんの両親も帰ってくる時間だろう。

 さて。

僕は立ち上がる。


「今日はこのくらいで失礼します」

「もう帰ってしまうのか。夕飯も一緒に、と思っていたのだが」


 折角今日は私が作ろうと思っていたのに、と付け加える。


「猫屋敷さんが料理上手なのは知っていますよ。夕飯はまたの機会にお願いします。今日がご両親にでも作ってあげてください」

「む……そうか」


 そして僕は彼女に送られて玄関へと向かう。案内があったおかげで迷わず玄関の辿り着くことができた。


「楠木君」


 じゃあまた明日と言って扉を開けたタイミングで、僕は後ろから声をかけられた。

 振り返る。


「最後に私のお願いを聞いてもらえないかな」

「内容によりますね」

「その……私のことを猫屋敷さんと呼ぶのは止めて欲しい」

「では、何と?」

「綾と呼ぶのは照れくさいだろうから、猫屋敷と呼んでもらえないだろうか」

「構いませんよ」

「それから、その敬語も止めて欲しい」

「それはまた、どうして?」

「何と言うか……私は君とは対等でいたいんだ」


 猫屋敷さん……猫屋敷が俯く。


「私はこんな面倒な性格だからね、素直になるまでにはまだ時間がかかると思う。だけど、絶対いつか素直に全てを話せるようになるから……だからせめて、その、敬語を止めてもらえないだろうか」


 どうやら、彼女のお願いというのはさほど難しいことでもないらしい。

 ならば僕の答えは一つだ。


「別に無理に変わる必要はないと思うよ。君は君のままで、十分魅力的だ」


 猫屋敷が一瞬、ポカンとする。しかしすぐに我に帰ったようだ。見る見る顔が赤くなる。

耳まで赤くなる。


「じゃあ猫屋敷、また明日」


 僕は改めてそう言って、猫屋敷邸を後にした。

 不思議と、明日また彼女と会うのを楽しみに思った。

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