探偵と幽霊少女とお嬢様

プロローグ

 自称・変人の彼女が言う。


「あるいはこの世界は仮想空間なのかもしれないよ?」


 僕は読んでいた文庫本をパタンと閉じる。いつものように。読んでいたのはホームズだった。

 六畳一間の小さな僕たちだけの世界には、真っ赤な夕陽が差し込んでいる。六畳一間と言っても別にアパートの一室、というわけではない。ここは部室棟二階の一番奥――文芸部の部室だ。

 部室の両側の壁には本棚が置かれ、ただでさえ手狭な空間を、より窮屈にしている。本棚には歴代の文芸部員が少しずつ増やしていったであろう本が一杯に詰まっている。さらに本は床にまで溢れだし、埃を被っていた。中には著名な作家のサイン本や、既に絶版となった本の初版本もあるのかもしれない。

 僕の趣味は読書だけれど、別にレアな本が好きだというわけではない。どちらかと言えば、本は読めれば良いだろうという考え方だ。この点においては今現在、僕の対面に座る女子生徒――猫屋敷ねこやしきあやとは意見が食い違っている。

 狭い部室を入り口から見渡せば、正面に窓、そして窓と扉の間に小さなソファが向かい合っているのが分かるだろう。その入り口側に僕、窓側に猫屋敷が腰かけている。これもまた、いつもの指定席だ。

 窓から差し込む西日が猫屋敷の背中に当たり、僕たちの間に置かれたこの部屋には不釣り合いのいかにもアンティークなテーブルに、毛先が軽く外側にカールしたショートカットの女の子の影を浮かび上がらせている。逆に僕の背後には天然パーマがかった少年の影が浮かび上がっているのだろう。

 その手足の細い女の子が、続けて口を開く。

 

「例えば君が素敵な景色を見た時、絵画のようだ、あるいは写真のようだ、と思ったことはないかい?」

「まあ、なくはないけど」

「劇的なシーンに遭遇した時、これはドラマや小説なんじゃないかって思ったことは?」

「それも、まあ、うん。あるね」


 僕は猫屋敷の質問に対して、曖昧な返事をすることが多い。というのも、彼女の質問自体、曖昧なものが多いからだ。あるいは、質問に意味すらないことだって多い。要は猫屋敷は僕との対話を楽しみたいだけなのだろう。

 僕と猫屋敷の付き合いはそこそこに長い。中学に入学してから高校生になった現在までだから、もうかれこれ三年以上か。だから僕は彼女のやり口を熟知しているのだ。

 猫屋敷は続ける。


「詳しくはかなり専門的な話になるから省くけれど、この世界は存在自体が奇跡に等しいのさ。重力やら星の位置やら、何か一つ、ほんの少しでもずれていたら、人間はおろか地球さえ存在していなかったかもしれない。何なら宇宙自体、あり得なかった、なんてこともある」


 静かな笑みを浮かべる。彼女が心底会話を楽しんでいる時の表情だ。それはさておき。


「この世界に自分の居場所はあるのかというのは思春期相応の悩み……って話からこの世界が仮想現実かもしれないって話に替わるのは、さすがに飛躍しすぎじゃないかな」


 僕たちは何てことのない会話をしていたはずだ。思春期なら誰でも考えるよね、なんて頷き合っていた。それがどうして仮想現実がどうだとかの哲学的な話になるのだろうか。まったく自称・変人の女の子が考えていることなんて、一般人の僕には理解できない。

 良いじゃないか、と目の前のブレザー服姿の少女はいとも簡単に答える。


「ただの雑談。暇つぶしさ」

「暇つぶしなら、もっと愉快な話にしたらどうかな」

「思考は最大の娯楽さ」


 古代ギリシャの哲学者みたいなことを言い出した。


「さて、楠木君。――楠木くすのきまこと君」


 楠木真とは僕のことだ。

 楠木真。十六歳。高校二年生。文系。G組所属。十月一日生まれ。天秤座。O型。身長170㎝。文芸部員。趣味は読書。女の子とのお喋りは、まあ、嫌いではないけれど得意分野ではない。


「君はこの世界が仮想現実でないということを証明できるかな」

「証明……」


 と、言われると少々困ってしまう。

 猫屋敷の言うようにこの世界が仮想現実であったとしたら、少なくとも僕以外の人間はNPCノン・プレイヤー・キャラクターであることになる。それは猫屋敷も含めて、だ。それを猫屋敷本人は否定するかもしれないけれど、しかしどうだろう、他人に自我があることなんてどうやったって確かめようがないのだ。何なら自分自身でさえ、自我はないのではないか、なんて考えることもある。


「例えば、そう、自分以外の人間に自我があるのかどうかも分からない」


 どうやら彼女も僕と同じことを考えていたらしい。


「あるいは、今現在、自分の背後――見えていないところに本当に世界が存在しているかどうかさえも、分からない。目を閉じている間、そこに世界が存在し続けているのかも分からない」

「そんなことを言い出したらキリがない」

「そうだね。でもキリがないことをするのも悪くない」

「君は幸せだね」


 キリのない作業なんて、考えただけでも恐ろしい。それを楽しめるというのなら、きっと人生の大半の事は楽しめるのだろう。現に猫屋敷という少女はそういった性格だ。


「仮想現実論については、僕は否定派だな。面白いとは思うけど」

「どうして否定派なんだい?」

「この世界が仮想現実だとしたら、神様――この場合はプログラマーか。もし彼に本当に世界を作り上げるほどの技量があるのなら、こんなに不完全でアンバランスな世界を作るわけがない」


 勿論、それが仮想現実の可能性の全てを否定できるわけじゃないけれど。

 もし僕がそんな超人的な存在なら、この世界で戦争を起こしたり、飢えに苦しむ人々を生み出したりはしない。不幸な人は幸せにしてあげるし、お腹が減っている人にはパンを差し出す。

 なるほど、面白い見解だ、と猫屋敷が笑みを浮かべた。どうやら満足してもらえる回答をできたらしい。


「まあ、たった一人の高校生が考えるには大きすぎるテーマだよ」

「確かに。けれど、大きすぎるものだって悪くはない。空を見上げるのと同じさ」

「同じ、かな」

「同じさ。どちらも人間のポケットには大きすぎるし、手が届かない。けれど色を変え、姿を変え、私たちを感動させる」


 まあ、言っていることは分かる。けれど。


「僕にはポケットに収まるくらいの話の方が丁度良いかな」

「君の場合はそうだろうね、楠木君」


 少女が肩を竦ませて見せる。


「じゃあ、ポケットに収まるような話をしようか。転入生の話はもう聞いたかい?」

「転校生?」


 聞き返した。その噂は僕のところにまで届いてはいない。確かに噂話には疎い方だけれど。


「C組に一人。女の子らしいよ」

「ほう」


 始業式も終わって久しくないこの時期に転入生というのも珍しい。


「美人だと評判らしい」

「それはそれは」

「まあ、私には敵わないだろうけどね」

「……それはそれは」


 確かに猫屋敷も美少女の類である。街を歩けば十人に八人くらいは振り返るかもしれない。が、しかしそれを自分で言うか。


「他のクラスならいざ知らず、C組なら、まあ、安心じゃないかな」

「どうしてだい?」

「あそこの委員長は面倒見が良いから」

「あれは面倒見が良いというより、お節介なだけだと思うけれど」

「……違いないね」


 けれど、C組委員長――野々宮ののみや美里みさとは僕の恩人でもある。彼女には借りがいくつもあるのだ。


「悪い人ではないんだけれどね」

「善すぎるのも問題さ」


 どうにも猫屋敷は野々宮さんのことをあまり気に入っていないようだった。野々宮さんと僕は中学の時からの知り合いである。つまり猫屋敷と野々宮さんの付き合いもその頃からあるということなのだが、前から反りが合わなかったのかもしれない。


「君は昔から近くのことがよく見えている。人も、物も。だから気付けるんだろう? 物事の本質って奴に」

「さあね。物はともかく、人間なんてそんなに単純じゃないと思うけど」

「まあ、そうだろうね。君はたった一人の女の子の気持ちにだって気付きやしないんだから」


 そう言われると耳どころか心が痛い。

 僕はその鈍感故に、一人の女の子を――


 殺してしまったのだから。


「君は一生その女の子を思い出しながら生きていくんだ。楽しいことがあっても、辛いことがあっても、その度に思い出す。一生ね」


 猫屋敷はそう言って、悪戯めかすように笑った。


「それと、楠木君。女の子のもう一つの遺言を覚えているかい?」

「……覚えているさ。勿論」


 謎を解け。名探偵になれ。

 それが、僕を愛し、そして僕が愛した女の子の最後の言葉だった。


「中学時代の君の活躍はなかなかのものだったよ。それと高校生になってからの働きも」

「それはどうも」

「学園の名探偵と呼ばれる日も、そう遠くはないんじゃないかな」

「どうかな。せいぜい便利屋くらいだと思うけれど」


 だとしても、約束した以上、諦めるつもりはない。


「それはさておき」


 猫屋敷がチラリと僕の背後――扉の方に目をやる。


「どうやらお客人が来たらしい。あるいは依頼人かな」

「そう決めつけるのは早いと思うけれど」

「こんな辺鄙なところに、依頼以外の用事で来る人間なんているものか」


 まあ、そうだろうな。

 僕は溜め息をついてからテーブルの上の文庫本を持ち上げ、立ち上がった。立ち上がって、猫屋敷の隣の席に移動する。依頼人には扉側のソファに座ってもらうことにしているからだ。

 数秒して、扉がノックされた。

 どうぞ、と短く答える。


「失礼します」


 そう言いながら入ってきたのは、サラサラとした長い黒髪が特徴の、美少女だった。

 いや、美少女というのもどこか変な感じだ。如何にも大和撫子、深窓の令嬢、といった雰囲気の彼女には“少女”というのは少し違う気がする。何だか子供っぽい印象の言葉だ。どちらかというと美女と言った方が良いのかもしれないし、もう数年もすれば、間違いなく満場一致で美女という判定が下るだろう。とにかくその女子生徒は、透き通るように綺麗で、儚げで、言葉で表すのが難しいほどの美貌を持っていた。

 僕は咳払いを一つ挟んでから、口を開く。


「どうぞお入り下さい。依頼の方ですね」

「はい。でも、その……」

「何か?」

「一つ訊いても良いでしょうか?」

「何でもどうぞ」

「先程から話し声が聞こえたのですが――貴方は一体、誰とお話ししていたのですか?」


 そう言った黒髪の少女の表情は、真剣そのものだった。

 部屋には、二人の人間しか存在していなかった。


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