Aeolian Harp

@kourui

prologue

 a novel


「待ってよ~」

 背中から理想的な妹ボイスで呼びかける声に俺は立ち止まった。

「お前が寝坊するのが悪いんだろ」

「寝坊したんじゃないよぅ。お弁当作ってたの!」

 いつの間に自分のお弁当を自分で作るようになりやがったんだ、こいつは。

「慣れないことすっから遅れるんだよ! 今日始業式だぞ! 新学期だぞ!」

「う~ひどいよ。せっかく……ごにょごにょ」

「なにいってるか分からねえよ! 行くぞ」

 さっきから俺が偉そうに説教してるこの少女は、別に俺の妹でもなんでもない。しかし長い付き合いの間に俺はこいつの兄ポジション、そしてこいつは俺の妹ポジションとなった。

 たまに双子の兄弟かなんかだと勘違いされるのだが、血の繋がりはまったくないぞ。

 俺は真智さそり。そしてこいつは戸泉麗奈。ほら、苗字が違うだろ? 顔も似てないし。

 しかしもし結婚して同じ苗字になったら……完全に兄妹だな。いくら夫婦だと強く主張しても誰にも信じてもらえないかも。

「おい。お前まだそんなの乗ってるのか?」

 毎朝キックボードで登校する幼なじみは、軽やかに自転車で進む俺の後ろでひいこらいっている。

「別にいいでしょ。私が何に乗ろうが勝手じゃん」

 そんなに額に汗を張りつけた顔でいわれてもなあ。どうみても辛そうじゃんか。

「自転車……安いのでよければ俺が買おうか?」

「うちはそんなに貧乏じゃないっ!」

 だったらどうしてキックボードになんか乗るんだ? その質問の答えは聞かなくても分かっている。こいつは昔の俺なんだ。つまり、昔のクソガキだった頃の俺の影響を強く受けていて、未だにそれが尾を引いているんだ。だから俺はこいつを見てるとむずがゆい気持ちにさせられる。そして、だから面倒を見てしまうのさ。

「なあ麗奈。久しぶりに俺にもそれ乗せてくれよ?」

「え? い、いいけど。これ小さいよ?」

 高校二年生にもなってもロリな麗奈は子供用のキックボードに乗っている。俺はキックボードを受け取って、足を乗せてみる。懐かしい感覚に笑みがこぼれた。

「で、私はさそりの自転車に乗ればいいわけ?」

「お前こそ気をつけろよ。サドル下げてもいいぞ」

「サドルなんか下げなくても大丈夫だっつーの!」

 うわっ。またガキみたいなこといってやがるよ。

 危なっかしくぐらぐら揺れながら自転車を漕ぐ麗奈はあまりスピードを出せずゆっくりとしている。その後ろから、標準的なキックボードのスピードで進む俺。丁度同じくらいのスピードで学校へ向かっている。

 特徴もない住宅街を抜けると田んぼの道が現れる。開けた景色に朝の光が降り注いでいるのを見ると、綺麗だなと思う。寂れた町だけど俺は好きだ。朝はとっても爽やかで、夕方になるとノスタルジーな雰囲気に満ち溢れ、夜になると射干玉の闇に包まれる。たった一日でも沢山の表情を見せてくれるんやで。


 チャイムが響く校舎の中をばたばたと駆け抜ける。チャイムが鳴り始めてから終わるまでには二十秒あるから間に合うぞ。少しのんびりしすぎたわ。

「麗奈、さあ! 俺の手をつかめ!」

 階段の途中で疲れかけている麗奈に手を差し伸べる。俺ひとりが間に合うなんてことはできない。兄としてのプライドがそれを許さないし、それよりも新学期早々遅刻という不名誉を麗奈に担わせたくなかった。しかし……伸ばした腕を麗奈は拒絶した。

「ごめん。先行って」

「そんな! お前を置いてけぼりになんかできるかよ!」

 王子様みたいだな、俺って。朝から自分のキザな態度に酔いしれてしまう。

 立ち止まったまま麗奈は小さく首を振った。

「ど、どうしたっていうんだ?」

「さそりと一緒に教室に入ると、またからかわれちゃうもん。婚約してるとか、夫婦だとか」

「婚約してるのは事実だろ」

「は?? 何いってんの? バッカじゃない!」

 バカじゃないわ。婚約しているのは事実だ。もう何年も前から俺たちはそういう約束をしている。当時クソガキだった俺は勢いに任せてプロポーズしてしまったのだが、今でもその想いは変わらない。

「やっぱり私が先に行くね! さそりは時間差つけてから来てね」

 不倫相手みたいなことをいいながらすたすたと階段を上がって行く。追い抜かされた俺は棒立ちで立ち尽くす。三十秒数えてから教室へと向かう。悲しいんだがこれ……。


 退屈な授業は嫌いな俺だが、実は意外と始業式みたいな行事は好きだったりする。人が沢山集まっててお祭りみたいだよな? こんなこと考えてるのは俺だけかもしれないけどさ。

 今男女別に五十音順で二列に並んでいて、俺は列の後ろの方から首を伸ばして麗奈の様子を確認する。いた。眠そうに突っ立ってやがるぜ。間抜けそうなその姿が妙におかしくて笑いそうになってしまう。笑っちゃいけない状況に限って笑いたくなるのはどうしてだろうなあ。

「何笑ってんの?」

 隣に立っているクラスメイトの女子が話しかけてきた。

「げっ! 堀北絵里」

 失礼な印象を与えかねない反応をしてしまった俺だがこれには理由がある。だって、堀北に関しては悪い噂しか聞かねえんだもの。その噂によると校内で男性アイドルのライブチケットを高値で売りさばいているらしい。いわゆる転売ってやつだ。抽選販売のライブチケットが多い昨今、こいつみたいな奴らが転売目的で応募するせいで倍率が上がって本当にライブに行きたいファンがチケットに当らなくて嘆いているんだ。

「今嫌そうな顔したでしょ?」

「い、いえ。してません。何でもないです。ごめんなさい」

 上ずった声で平謝りしておく。

 たしかに噂の真偽は闇の中ではある。しかし火のない所に煙は立たぬともいう。視線を合わせただけで心臓が凍り付いてしまうほど鋭いこの目つきは普通じゃない。とりあえずこういう外れた女とは付き合わないようにしておくのが無難だ。一緒のクラスになってから五か月が過ぎようとしている今日この頃、俺はまだ堀北とは片手で数えられるくらいしか会話してない。どうかこのままこいつとは関わらずに卒業できますように。

「ふんっ、あんた変わってんね」

 にこやかな笑顔で接しながらも、我ながら結構ひどいモノローグを心の中で呟く。

 俺には、麗奈以外の女子に冷たくしてしまう嫌いがある。

 ふいに罪悪感が頭をもたげてきた。堀北の方を少し見てみる。憮然とした表情のままガムを噛んでいる。

「あの、堀北」

「ん?」

「新学期もよろしく」

 堀北は薄く整えられた眉をひそめて、

「よろしく? 何が?」

 吐き捨てるようにいった。うう、やはり俺はこいつが怖い。女子とは思えないような剣のある喋り方は、どことなく麗奈に似ていた。あのまま麗奈が成長したらこんな感じになってしまうかもしれない。今のうちに修正しておかないと後悔するぞ。麗奈は現在、ボーイッシュと不良少女の分かれ道に立っている大事な時期だ。

「そーいやさあ」

 堀北が怠そうにいった。

「あんたって麗奈と付き合ってんの?」

「そ、そんなんじゃねえって」

「へえ~私の目には随分と仲睦まじく見えるんだけど」

 仲睦まじいことは認めるけど、実際付き合ってはないんだよな。

「あいつはどう思ってるか分かんねえけどさ、俺は好きだぜ」

「はあああ?」

 目を剥いて驚く堀北に、俺は平然と話を続ける。

「なんだよ。こういうことが聞きたいんじゃなかったのか? 俺の正直な気持ちってやつをさ」

「正直すぎんだろ。ちょっと痛いなお前。まあいいよ、そんでさ、二人で出掛けたりとかしねえの?」

「するよ。今週の日曜もどっか行くと思う」

 予定はまだ決まってないんだな、と堀北は頷いて、

「だったさ、水族館のチケットあるんだけど」

 なんか始まったぞ! もしかして、なんか買わせようとしてる?

「二枚で五千五百円な」

「た、高いよ」

「だったら五千円に負けてやるよ」

「それ、定価だったらいくらなんだ?」

「四千四百円」

「……」

 ナチュラルに六百円ぼったくろうとしてるわ。転売やってるというあの噂も本当なのか。

「いっとくけどこの水族館東京にあってな、前売りチケット買いに行くのに千円以上もかかるんだぜ」

 一応この街も東京都に属しているんだけどな。なぜかここの住民はここが東京じゃないような言い方をよくする。それはそれとして、堀北の言い分もわかる。電車賃分を上乗せしてるという訳か。だったら安いんじゃないか?

「よし、じゃあ五千円で買わせてもらうよ、ありがとな」

「へへ、まいどあり」

 わずかに口元を吊り上げて笑う堀北は、右手を振って俺を招き寄せた。

「楽しんでこいよ」

 こっそりとチケットを二枚受け取る。

 行ったことのない場所の水族館だ。品川、か。勿論名前は知ってる。

 麗奈を誘ったら付いてきてくれるかな。普段の行動圏から遠く離れた街に行くのは少し不安だ。しかし、もう高校生だしそういう遊び方を覚えるのもいいかもな。

 ところで始業式では女子バレー部が活躍したとかで表彰されていた。たしか俺たちのクラスにも女子バレー部員がいたはずだったが、誰だっけ。


 始業式と簡素なホームルームを終えて、もう帰宅の時間だ。学校が早く終わると嬉しい。帰り道で麗奈を誘うことに決めた俺は、麗奈の支度ができるのを待つ。しかし、あいつは自分の席に鎮座したまま動かないでいる。俺はじれったくて急かしに行った。

「麗奈、早く帰ろうぜ」

「ふぇ?」

 ピザパンを咥えたままの麗奈の顔が振り向いた。

「お前、そんなに腹減ってんのか? 午前中で学校終わるのにそんなの持ってくるなんて」

「違うよ! 間違えて作ってきちゃったの!」

 机の上に置かれた大量のピザパンを見て、俺は嘆息した。

「間違えたにしても作りすぎじゃないか」

「そ、そう! 作りすぎちゃったの! だからさそりも食べるの手伝ってよ!」

 やけに嬉しそうに微笑む麗奈に頼まれて断れるわけがない。しかし今日は早く帰れると思ってたのにこれだけの量のピザパンを食べるにはかなり時間を要するぞぉ……。新学期初日に何してんだろな。俺は隣の席の椅子を拝借させてもらい麗奈の机の傍らに座った。

「美味しそうに食べるな、麗奈は」

「私のことはいいから早く食べて」

 ピザパンを食べるのは久しぶりだ。かつて毎日のようにピザパンを食べてた俺は懐かしい想いに打たれた。その時はさ、俺がピザパン作って麗奈に無理やり食べさせてたんだよな。ようやくピザパンの魅力がこいつにも分かってきたというわけか。俺はとっくにピザパンに飽きちゃってるんだけどね。

 注意しなきゃいけないのは、食パンの上にのせたピザの具を落とさないようにすることだ。両手で慎重にパンを持ち上げ、口に近づけていく。俺の口に吸い込まれるパンを麗奈が凝視する。

「そんなに見られると食べづらいのだが」

「わわ! ごめん、じゃあ私目隠しするね!」

 そこまでしなくてもいいのだが……どっかの日光東照宮の猿のように律儀に手の平で目を覆う麗奈。いつもと違う妙な仕草に苦笑しながら、一口かぶりついた。

「おお! よくできてるな。昔俺がお前に教えた通りの味だ!」

 ゆっくりと目を解放した麗奈はにっこり笑って、

「そうなの。さそりに教えてもらったピザパンの味、練習したんだ。覚えてたんだね」

 ピザパンばかり作っては食べてたあの時代は黒歴史だったけど、それでも俺が麗奈との思い出を忘れてしまうなんてありえない。絶対に、な。

「けどまだまだだな。今度俺がお手本にピザパン作って来るから、それ食べてもう一度勉強しろ」

「……はあああ? 偉そうに何いってくれちゃってんの?」

 うっかり地雷を踏んでしまったらしい俺は、また麗奈を怒らせてしまった。麗奈は怒りの沸点が低くてすぐ怒る。見た目も性格も本当にクソガキみたいな奴だ。男子からの人気がイマイチなのもそのせいだろう。

「おい! 聞いてんのかよ!」

「ぶかぶかの制服着た奴にいくら凄まれてもまったく怖くないぞ」

 萌え袖を通り越して、手がブレザーの袖に完全に埋まってしまっている。

 ちょっと待てよ。さっきからこいつこの袖でよくピザパン食べれたな。しかも、袖にはパンくずもピザの具も付いていない。綺麗にアイロンがけもされているし。結構器用だな。 

 とりあえずその場をやり過ごして再びピザパンを食べ始める。どんだけ作ったんだか、まだまだ残っている。

「麗奈、今週の日曜なんだけどさ」

「ん?」

 口ももぐもぐさせながら空返事を寄こす。こぼさないように食べろよな。

「遊び行くんしょ?」

 小首を傾げて俺を見つめる。はらりと、黒い髪が揺れた。

「俺たち、東京に行かないか!」

 小さい声にならないように気をつけたら、予想外に大きすぎてしまった。ほとんど叫ぶように発せられた言葉に、麗奈は目を丸くする。

「か、駆け落ち?」

「違う! あ、遊びに行こうって誘ってんだよ。東京の、水族館に。チケットも持ってんだ」

「わざわざ東京まで遊びに行くの?」

「だからさ。一応、この街も東京都なんだけど……え? そうだよな? ここって田舎だけど東京と名乗ってもいいんだよな?」

「うん。そだよ」

 こくりと頷いて肯定してくれた。

「で、どうするんだ。俺と一緒に東京まで付いてくる気はあるのか?」

「はん! むしろ私があんたを東京に連れてってやるよ!」

 そういって小さい胸を張る麗奈はちょっと頼もしかった。ちなみに頼もしかったという形容の前にはガキにしてはという接頭辞がつく。

「チケットは俺が持ってるんだけどな」

「じゃあ私に渡して、持っとくから」

 変なスイッチが入ってしまった麗奈に付き合ってやることにした。

「無くすなよ」

 俺は一旦チケットを麗奈に預ける。

「そういえば、土曜日はなんか予定あんの?」

「あっ土曜日はね、姫香と山まで星見に行くの」

 姫香ってのはこいつの友達で、よく俺を睨んでくる変な女だ。あまり詳しい素性は知らない。分かってるのは短めの茶髪で色が白いってことくらいだな。

「星ってことは、夜行くのか。気をつけて行けよ」

「さそりにいわれるまでもないわよ。それより自分の足元を心配したらどうなの?」

 足元がなんだって? またこいつ訳の分からないことをいいだしやがって。

 しかし間抜けは俺だった。実はさっきから足元に嫌な感触を感じていないでもなかったのだが、無視を決め込んでいたのだ。そして、麗奈の手元からピザパンが消えている。食べかのピザパンの行方を気にしながらも、俺は無視を決め込んでいた。この二つの謎現象が意味する事実。それは……。

「ごっめーん! ピザパン落としちゃったね、てへへ」

「くわぁっ!」

 いきなり腹心に刺された権力者のように俺は狼狽えた。

 し、新品の上履きにピザがべったり。

「だからいっただろ? 自分の身がどうなっているか、気が付かなかったか?」

「いつからだ、お前、もしや最初から!」

「ふふふ。ありがとよ。楽しかったぜ、さそりくん。じゃあな」

 ようやく俺は自分の状況を理解した。遅すぎる理解にもはや意味はない。俺は地に伏して、大きく広がっていく血だまりと、小さく萎んでいく身体を意識した。そして一言だけ、最期の言葉を振り絞った。

「こんな茶番でごまかそうとしても駄目だぞ」

「ごめんなさい……」

 俯くとさらに小さくなる麗奈を見て、俺はなんとも遣り切れない気持ちになった。これだとまるで俺が説教してるみたいだ。ピザパンを落としたのはこいつだというのに。どうにも俺は麗奈に謝られるのが苦手だ。

 ピザパンを拾い上げた俺は、躊躇なくそれを食べた。

「えええええ??」

 俺の突然の奇行に麗奈は愕然とした。

 さすがに自分でも気持ち悪いことしてるなという自覚はある。

 おそらくドン引きしたであろう麗奈は、それでもあからさまに表情に出すことはしなかった。

「食べるんだね、なるほど」

「真似したらあかんぞ」

 それから俺たちは家に帰った。俺は自転車で、麗奈はキックボードで。家に着いたら三時を回っていた。新学期初日なのにこんない遅くなってしまうとは。満腹になった胃の重さと共に、とてつもない疲労感に襲われた。ふらふらと自分の部屋のベットに倒れこむ。

 あーあ。上履きにピザの跡ついちまったなあ……。

 これがいつもと変わらない俺の日常だ。学校に通って、麗奈に振り回され、麗奈を怒らせ、くたくたになって帰宅する。夕陽に染まったオレンジ色の天井を見上げながら、心地よい眠りの世界へと。きっといつかはこんな日々も終わってしまうのだろう。高校を卒業して大学に進学して、麗奈も大人になって……。けどあいつは大人になっても今と大して変わらんだろうな。いわゆる合法ロリと呼ばれる種類の女になって、近所でも有名な幼妻に……。そして俺はロリコン疑惑を噂され、でも幸せに生きていく。そんな未来を夢想しながら俺の意識は落ちた。


 麗奈が星を見に行くという土曜日。明日の約束について連絡をしようと携帯でメッセージを送る。もっと早く連絡しとけよという感じだが、俺たちはいつもこんな感じなのだ。時刻はもう零時を過ぎている。たぶん麗奈も余裕で起きていると思う。

『明日は十時に駅前で待ち合わせな』

 すぐに既読がついて、返事が来る。

『はーい。明日、楽しみだね(*^-^*)』

『星は見れたか?』

『(>_<)』

『何だそれ、分かんねえよ!』

……。なんか噛み合っていないような気がする。もしかして麗奈の奴東京に緊張してるのかもしれない。それとも眠いのかな?

『じゃあ、明日な』

 それだけ打って、明日の方向へ携帯を放り投げる。

 実は俺も緊張してるし、めっちゃ眠いし、人のことをいえないんだよな。


 ここは俺たちの街にある唯一の駅。さして説明する必要のある特徴もない。小さな駅舎に、行く用と戻る用の二つしかない改札。切符売り場は一つだけ設置してある。そのくせ、ベンチは駅前に四つも置いてある。その一番右端のベンチに座り、澄んだ日曜の空を見上げた。夏が終わり、季節は穏やかな秋となっている。水を打ったように静まり返った空間で、麗奈を待つ。

 携帯で時刻を確認したら九時半。って、マジかよ。早く着きすぎだろうが。

 そもそも日曜の午前中の駅前ってこんなに空いてるもんなのか? 深刻な過疎化に直面した街の若者こと俺は、でも人の少なさに安心もしていた。今から行く東京にはどれだけの人がいることか。

 二十分程経って、道の向こうからこちらに歩いて来る女性の姿を認めた。あーよかった。ちゃんとこの駅にも利用者がいたんだな。俺も失礼だとはわきまえているがついつい見てしまう。田舎者の悪い癖だ。あんな綺麗な女性、この街で見たことがない。よそ者だろうか。

 頭に疑問符を浮かべながら俺はその女性をこっそり観察する。

 すると、その女性が(といっても同い年か少し年上くらい)、俺に向かって爽やかに透き通った声音で挨拶してきた。

「おはよう」

「……おはようございます」

 ……は? 

「早く来てたね、私も早く来たつもりだったんだけど」

「え?」

「さそりくん、おはよー。ん? どうしたの? もしかしてまだご機嫌ななめ?」

 肩が接するほど近くに座った女性が、猫なで声でいった。

 俺の、名前を、知っている? もしかしてどこかで会ったことがあるのか? こんな人学校では見たことないのだが。なんというか、俺の理想の先輩像、近所のお姉さんのイメージを具現化したような人だ。だから話しかけられて嬉し恥ずかしい。たぶん俺はこの人のことを覚えてないし、知らない人だけどこれを機会に仲良くなっちゃおう!

「あの、お名前窺ってもよろしいですか?」

 てか、ご機嫌ななめって何のこと?

「え? レイナ……だけど」

 レイナってよりによって俺の幼なじみで本日の待ち合わせ相手のあの麗奈と同じ名前じゃねえか。

「どうして僕の名前を知っているんですか?」 

 俺にとっては何気ない質問だった。しかしレイナさんの反応は生易しいもんじゃなかった。

「え? さそりくん?」

 レイナさんは信じられないようなものを見る目つきで、ぽつりと言葉を落とした。

 俺はまた、何気ない質問を重ねる。

「レイナさんは今日はどこへ出かけるんですか?」

「レイナさんって誰かに似てません?」

「ご機嫌ななめって何のことですか?」

 これ以上の質問はよした方がいいような、漠然とした恐ろしさを感じた。俺は今、禁断の扉を開けようとしているのではないか? だって、だってよぉ……。

 麗奈じゃん!!

 この髪型、服、何よりもこの顔。声。雰囲気。

 そしてこの時間に、この場所にきて、俺の隣に座ったこと。

 違う、違う違う違う! やめろ、これ以上考えるな。けど、

「お前、誰だ?」

「もう、怒るよ! 怒っちゃうよ? いつもふざけてばかりなんだから。私は戸泉麗奈。デートの約束は覚えているのに、デート相手のことは忘れちゃったの?」

「いや、あまりにも綺麗だったから、分からなかったんだ」

「ああ。なるほど、そういう着地点か」

 麗奈は奇妙な俺の態度に納得したようだった。別に俺は、綺麗すぎて麗奈とは思わなかったよ的な感じで口説こうとしたわけじゃあない。だって、綺麗すぎるだろ! いくら成長期でも一日でこんなに変化するかよ! 背伸びてるし、その服見たことあるけどそんなにピチピチじゃなかったし。只の半袖とデニムなのになぜか目のやり場に困っちゃうんだけど! 

 いかん。目がくらくらしてきた。俺の幼なじみがこんなに綺麗なわけがない。

「俺、帰る……。これは夢、おかしな夢だ。帰って横になりたい」

「ええ? 帰るの?」

 俺は答えず、真っ直ぐと家へと急いだ。駅横の駐輪場に停めた自転車に乗って一心不乱に自転車を漕いだ。

 ああ、とうとう俺の頭はおかしくなってしまったのか。あんなのどう見ても別人だ。混乱している。最後に会ったのは金曜日の時点では、まだまだ少女でしかなかったのに。一日置きに会ってみたら年相応の女子高生の見た目になっているなんてことが、果たしてありえるか? これは現実なのか? そんなわけない。まずは自分の脳を疑うべきだ。

 俺は狂人になってしまったのかもしれない。あまり外に出ない方がいいかも。もう自分で自分のことが分からねえよ……。


 寝て目覚めたら次の日になっていた。眠るという行為はなんて便利なものだろうと改めて実感する。そして気持ちが落ち着いていることを確認してみる。よし、大丈夫だ。俺は正常。学校に行っていつもの麗奈を一目見れば俺の悩みも消えることだろう。

 いつもより早い時間に家を出る。嫌なことは早く終わらせてしまった方がいい。

 誰もいない朝の教室に一番乗りした。窓を開けると、涼しい風が教室に入り込んでくる。普通の日だ。普通どころか、それよりもちょっと良い一日になりそうな予感さえする。九月の涼しい風に吹かれて俺の気持ちは安らいだ。

「ねえ」

突然、冷たい性質の声が俺の背中を撫でた。

「麗奈に……会った?」

 季節は秋なのに極寒の冬のような声。その主は、鈴江姫香だった。麗奈と仲が良いみたいだけど俺はあまりこのコのことは知らない。今年の春に転校して来た謎の少女である。話すのもこれが初めてだと思う。そもそも、鈴江は俺のことが嫌いなんじゃなかったっけ。だっていつも睨んでくるし。そんな鈴江が,、今普通に話しかけてくれている。

「麗奈? まだ学校来てないんじゃないか?」

 正面からじっくりと鈴江を眺めた。肩までの短い茶髪。そして異常に色が白い。男子と喋る姿を目撃したことはなく、男嫌いだと噂されている。しかしその愛想の悪さを持ってしても根強い人気を誇る。紛れもない、美少女。

「そうじゃなくて……。昨日麗奈と会ったでしょ?」

「お、おう。会ったぜ」

 会ったといえば会った。しかしそれ以上のことを話しても鈴江には理解してもらえないだろうし戸惑わせてしまうだけだ。

「会った、のね」

 そう呟いて教室を出て行った。肩を落としているように見受けられたが、どうしたんだ。レズの嫉妬は恐ろしいというやつか? もし鈴江がヤンデレズだとしたら帰り道に気をつけとこう。

 しかし、そんな心配はすぐに吹き飛んでしまった。

 ちらほたと登校する生徒が増えてきて、やがてその人物が現れた。

「おーはよー」

 俺の目の前に立って朝の挨拶をするこの人物は、昨日駅前のベンチで話をしたこの人物は、

「おはよう……」

 一般的な男子高校生ならば、この綺麗なクラスメイトに微笑みかけられただけで勃起してしまうかもしれない。しかし今の俺は微塵も性的興奮を感じないし、そんな冗談を考える余裕もないはず。

「昨日ぶりですね、レイナ……さん?」

「あはは。レイナさんって、なんかよそよそしくない? さそりくん」

 人形じみた渇いた笑いを漏らしたレイナさんは、簡単には見抜けないくらいの寂しい顔をした。初対面のはずの女子の、そんな微妙な表情の変化が俺みたいな唐変木に分かるはずがない。分かってしまったのは、たぶん、この人が本当に麗奈だから……?

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