第23話 やってみた

 東京駅から走ってきた黒塗りのリムジンが高速道路を降り、右に曲がってしばらく走ると右手には大きなショッピングモールが見え、左手にはビル群が続く。交差点を左に曲がって橋を渡ると左右に天井がなだらかな曲線を描く建物が見えてくる。幕張メッセ国際展示場の展示ホールである。

前方にある歩道橋を大勢の人が渡っているのが見える。

「あれって大図鑑に来た人?開場までまだ一時間もあるのに、こんなにいっぱいの人が来てるの?」

「もう、一時間前よ」

 梓は想像以上の盛況ぶりに目を丸くして驚いているが、コミケなどの大型イベントに慣れている和は落ち着いて認識の間違いを指摘する。

 千葉県にある幕張メッセは日本最大級の展示場であり、十一の巨大なホールと一つのイベントホール、更に複数の会議室を備えている。ごきげん大図鑑は、これら全ての設備に加えて、裏手にある千葉マリンスタジアムまで使用する巨大なイベントである。

 リムジンは歩道橋の下をくぐり、幕張メッセの前を通り過ぎると右に回り、資材搬入口から会場に入る。左側に展示ホールに沿ってずらりと並ぶ人の列が見えた。どこまで続いているのか先が見えないぐらい長い列だ。梓は声を出さずにその行列をじっと見つめた。車の中にまで、そこに並んでいる人達の熱気が伝わって来た。

 係員の誘導に従って、右側の会議室棟の前で車が止まる。梓は車から降りると寒さにぶるるっと身体を震わせた。全員が車から降り、機材を下す。機材と言っても、トランク一つに収まる梓用の衣装と、ノートパソコンぐらいだ。

「座間さん」

 アゴヒゲをまばらに伸ばした長身痩躯の若い男が駆け寄ってきた。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

 頭を下げる聡子にならって、皆も挨拶をする。打合せの為に東京に通っていた聡子には何人か顔なじみになったスタッフがいた。

「おはようございます。これ、皆さんの入場パスですので首から下げて下さい」

 物珍しそうに入場パスを受け取った梓が質問する。

「これって、歌っている時も下げてないといけないの?」

「そんなわけないでしょ!」すかさず吉本花月のつっこみが入る。

「歌の間は大丈夫です」スタッフは笑いながら優しく答えてくれる。

「さっきAgOgさんのリハが終わったところです。すぐに歌えますか?」

「もちろん」梓は元気よく答える。

「こちらです」

 スタッフの先導で会議室棟に入り、階段で二階に上がって渡り廊下を通ると広い通路に出た。幕張メッセの二階には東西に延びる長く広い通路があり、一階にある八つのホールと繋がっている。

 係員に入場パスを見せて中に入ると、巨大な空間には様々なブースが立ち並んでいた。

「わあ」っと思わず声が出る。

 一番目を引くのは左手奥にある巨大な箱である。「十番勝負!闘ってみた!」と書かれたのぼりが箱を囲んでぐるりと並べられており、そこが梓達のステージだと分かった。

 他にも食べ物の屋台が並んでいるコーナーや、小さな舞台、たくさんの机が並べられている区画があり、巨大なタコのバルーンが浮かんでいる。そして大勢の人が、その間を忙しそうに走り回っていた。

 それらをゆっくりと見ている時間はなかった。スタッフに促されてエスカレーターで下に降りると、案内されたのは予想通り、巨大な箱だった。箱の奥にはステージが設置されており、その両脇には巨大なスピーカーが聳えている。箱の内側に複数建てられた櫓には、照明やスピーカー、カメラが設置されている。会場の後方には音響調整ブースがある。ここでも大勢の人間が蠢いていたが、先ほどまでリハーサルをしていたAgOgのメンバーはいなかった。

「花月おはよう」

「あっ、おっはよー」

 エンジニアリングブースから声をかけられて花月が手を上げる。そこで作業をしている者の大半は花月の父親のスタッフで、梓達が知っている顔もいくつかあった。

「早朝からの移動で疲れているところを申し訳ないけど、時間が押しているから早速歌ってちょうだい」

 女性スタッフはそう話しながら、梓にイヤホンとマイクを渡す。

「了解です!」

 梓はコートを脱いで聡子に渡すと、元気よくステージに向かって走って行った。

「聞こえますか?」

 マイクのスイッチは入っていなかったのに、梓の声は会場中に届き、準備をしていたスタッフが笑いをもらす。

 この会場は十番勝負用のステージである。全ての勝負がリハーサルを行うわけではないが、各出演者に与えられているリハーサル時間は短く、梓の実際のステージは十五分であるが、リハーサル時間は五分だけであった。スタッフから立ち位置の説明を受けると早速声出しを始める。

「梓ちゃんはいつも通りだね」

 ステージの真正面に陣取って、鞄からデジカムを取り出して構える多佳美の横に、花月が寄ってくる。

「そうね」

「やっと夢が叶うのだから、嬉しいですよね」

 多佳美は花月の反対側に立つ和をじろりと見て、少し苛立った声で応える。

「夢じゃないわ。目標よ」

「そうか。そうですね」

 和は納得して頷く。花月も同じ気持ちだ。

 わこちゃんと同じステージに立つ。それは梓にとって、叶うかどうかわからない夢ではなく、必ず辿りつく目標であった。最初はどんどんと遠ざかっていく目標であったが、梓は追いかけ続け、そしてとうとう追いついた。

 曲が流れ、梓が歌い始める。到着したばかりだというのに、疲れを全く感じさせない明るく伸びやかな歌声だ。

「浮かない顔してどうしたの?どっか変なところある?」

 花月が多佳美の顔を見上げながら訊ねる。

「……そんな顔していた?」

「全然楽しそうじゃなかった」

 そう言われた多佳美は無理に口角を上げようとして、すぐに諦めて呟くように言った。

「目標に到達した梓はこれからどうするのだろうと思ったの。もしかしたら歌い手を止めるかもしれない。そうしたら、私達の関係は……」

「またそんなことを考えてたんですか」

 多佳美の悩みを笑い飛ばすように言ったのは和だった。

「言ったでしょ。好きにすれば良いって」

「でも……」

「大丈夫だよ」

 そう断言する花月の瞳はステージ上の梓へと向けられている。

「だって、歌い手を続けても続けなくても、私達は友達だもん」

 曲が終わり、梓は三人に向けて投げキッスを飛ばした。

「そうね」

 多佳美の顔に、ようやく笑みが宿った。


       *


 リハーサルを終えて会議室棟の控室で休んでいると、館内放送が入った。

「これより、ごきげん大図鑑三冊目を開催いたします」

ホールから聞こえてくる拍手に合わせて梓達も手を叩く。

「コミケみたいだね」

「へー、コミケって拍手するんだ」

 梓の感想に、普段はこのようなイベントに参加しないのであろう、花月の父親のスタッフも面白そうに拍手する。

「それじゃ、私はちょっと出かけてきます」と和がいそいそと立ち上がる。

「みんなで行こうよ」

「個人的に挨拶したい人がいるから、ごめんね」

 和は梓の誘いを申し訳なさそうに断りながら出て行った。「私も」と桐子もそれに続く。

「私も見に行きたい」

 梓に視線を向けられて、花月は困った顔を返す。

「私とたっかみーはまだ作業が残っているから行けないよ」

 花月の言葉に、多佳美はそわそわと上げかけていた腰をがっくりと下ろした。

 そこに関係者への挨拶周りに行っていた聡子が帰って来た。

「お姉ちゃん、大図鑑を見に行こうよ」

「良いわよ」

「やった」

「梓待って」

 すぐに飛び出していこうとする梓を呼び止めた聡子が頭を捻りながら周囲に訊ねる。

「変装とかしなくて大丈夫かな?」

「ただのニートのお姉ちゃんのことを知っている人なんかいないよ」

「あんたの心配をしているの!」

 聡子はあははと笑う梓を睨む。

「うーん、有名人がいっぱい集まっているわけだから大丈夫だと思うけど……」

 難しい顔をする花月の向こうから、先ほど梓にイヤホンを渡してくれた女性スタッフが声をかけてくる。

「用心のために眼鏡と帽子を被って行ったら良いんじゃない?良かったらこれを使って」

「ありがとうございます」

 梓は素直に受け取って、黒縁のセルフレーム眼鏡をかけ、ツーサイドアップにしている髪を下ろして後ろで一つに縛り、ハンチング帽を被ると、鏡で一度チェックしてから皆に見せる。

「良いね。ちょっと見ただけだとARIAだって気づかないよ。ねぇ?」

「そうね」

 花月は多佳美に同意を求めたが、返って来たのは少しひっかかりのある声だった。

「それじゃ、行ってきます」

 梓は手を振ると、聡子と一緒に部屋を出て行った。

「どうしたの?まだ悩んでいるの?」

 梓を見送った花月は多佳美に訊ねた。多佳美は首を振る。

「いえ、そうじゃないわ。花月はちゃんと仕事を優先させられてえらいなって思ったのよ。私は梓から誘われたら作業のことをすぐに忘れて一緒に行こうと思ってしまったのに」

「いや、だって、絶対に成功させたいし」

 照れて顔を赤くする花月に多佳美は微笑む。

「そうね。私も成功させたい。……ねぇ、花月はこれからも作り手を続けるの?プロを目指すの?」

「やっぱり悩み相談の続き?」

「友達として知りたいだけよ。前に委員長にも聞いたけど、趣味としての同人活動は続けていくけど、プロになる気はないって言っていたわ」

「そうなんだ。委員長なら同人誌だけでも食べていけると思うけどな。私かー、私はねー、あんまり真面目に考えたことがないからなー」

 人気歌い手ARIAの全楽曲を手掛ける作り手フラワームーンは頭を抱えて天井を見上げた後、顔を下ろすと、周囲に自分達二人しかいないのを確認してから、声を潜め気味に言った。

「私は、親が乗っているレールに乗ってみただけだから。しっかりとしたレールが目の前にあって、楽しそうだったから乗ってみただけ」

 自嘲して、少し悔しそうに打ち明ける。

「それでも、私が作った曲を好きだって言ってくれる人がいて、それはとても嬉しくて、期待に応えたいって思うけど、でも、それをずっと続けていくかどうかは分かんないな。それこそ、梓ちゃんが止めたら私も止めちゃうかもしれない」

 コンコンと開けっ放しになっていたドアがノックされ、花月の父親である吉本修二が顔を見せた。

「お嬢さん達、そろそろ最終ミーティングを始めたいんだけど良いかな」

「遅れて来たくせにえらそうに!」

 修二は素早く壁の影に姿を隠し、花月が放った言葉を受け流す。

「悔しいけど」立ち上がりながら花月は言う。「レールに乗ってみたは良いけど、前を走っている電車は先を行き過ぎていて、大きいはずの背中も全く見えてこないんだよね」

 振り返った花月の顔にあるのは悔しさではなく、楽しそうな笑顔だった。

「行こう」

 多佳美は、差し出された小さな手をしっかりと握った。


       *


 一般参加者の入場口は一番西側の第一ホールにあり、二階の入口は出口および再入場口になっている。そのため、梓と聡子が会議室棟から二階の大通路に出た時、人通りは少なかった。窓ガラスからホール内の様子を覗くと、大勢の人が自分の目当ての場所へと急いでいる姿が見えた。

「民族大移動だね」

「そうね、一日の収載者数は約八万人らしいから」

「収載者数?」

「私達みたいに出店したり出演したりしている人達だけじゃなくて、一般の人達もただの入場者ではなくてイベントへの参加者って考え方をされていて、大図鑑だから図鑑に収載されている人、収載者って言い方をしているの」

「そうなんだ」

 聡子の説明を聞いた梓はもう一度ホールの中を見て、頷いた。

「そっか、みんな同じなんだ」

「それで、何を見に行きたいの?」

「何があるの?」

「調べてないの?」

「調べてないよ」

 全く悪びれずにニコニコと笑う従妹に聡子はふっと一度脱力してから提案する。

「それじゃ、私が行きたいところに行くわよ」


「おお」

 聡子が見たかった物を目の前にして梓は感嘆の声を上げた。

「オスプレイだ」

 展示されていたのは二基のローターを持つヘリコプターのような飛行機だった。非常に人気があり、大勢の人が群がって一心不乱に写真を撮っている。気が付くと、聡子もスマホでバシャバシャとシャッターを切っている。

「お姉ちゃんは、こういうのが好きだったんだ」

「好きってわけじゃないけど、燃えるじゃない。一緒に撮ってあげるよ。はい、チーズ。次、私も撮って」

「はいはい」

 写真を撮った後、梓は訊ねる。

「ところで、なんでオスプレイがここにあるの」

「在日米軍が参加しているからよ」

 聡子が指し示した方には、迷彩服やパイロット服を着た外人が笑って記念写真を撮っていた。米軍の服や装備を貸してくれて、コスプレ写真を撮ってくれるようだった。

「自衛隊もいるわよ」

 オスプレイの向こう側には戦車と装甲車が展示されており、ゆるキャラっぽい着ぐるみがチラシを配っている。

「ほんとだ!」

 梓はオスプレイの周りを迂回して戦車の前に行く。

「戦車初めて見た」

「私も。結構大きいのね」

「そりゃ、闘うんだから、大きくて強くなくちゃ駄目だよ。でも、自衛隊ってこういうところにも来て良いんだ」

「広報活動でしょ。札幌の雪まつりでも毎年大きな雪像を作っているじゃない」

「そうだった。雪まつり良いな。来年見に行きたいな」

「十番勝負にも出るんだって。米軍、自衛隊、サバゲーマニアによるエアガン対決。これ見たいな」

「歌い手は出られないのかな」

十番勝負の告知パネルを熱心に見ていた聡子は、梓がふらふらと歩きだしたのを見て、慌てて追いかけた。

「ちょっと待ってよ」

「だってお姉ちゃん。こんなに大勢の人が色んなことをやっているんだよ。見せてくれるんだよ。見に行かなくっちゃ」

「ああんもう。まもるくんと一緒に写真撮りたかったのに!」


 会場には様々なブースがあり、様々な人がいた。

 三階分の高さがある壁にプロジェクターで映された画面を使ったゲーム大会、金網デスマッチに出場している相撲取り、政治家が達磨の目を入れるスピードを競い合っていたりもした。

 アート広場と名付けられたブースでは、絵画、彫刻、陶芸などのアート作品の実演を行っており、その一角ではなぜか和が漫画を描いていた。

 演じている側も、見ている側も楽しむ。

 様々な情熱が渦巻いている会場に中てられた梓がふらふらと歩いていると、横手から小走りで移動してきた集団に気が付かなかった。小走り集団は梓を避けていったが、驚いた梓は体制を崩し、小走り集団が通り過ぎて行った後に、倒れてしまった。

「梓!」

 後ろに付いていた聡子が慌てて駆け寄るが、その前に近くにいた男が立ち上がるのを助けてくれた。

「大丈夫ですか?」

 優しく声をかけられるが梓は答えず、じっと相手の顔を見る。そして気が付いた。

「あ、社長さんだ!」

「ええ?」聡子はぎょっとしながら男の顔を見、固まった。

 そこにいたのは、ごきげんビデオを運営している会社の社長で、このごきげん大図鑑の主催者でもある二河だった。

 梓は立ち上がると、ピンと背筋を伸ばし、深々とお辞儀をした。

「初めまして。歌い手ARIAの有村梓です。今日は貴重な機会をいただいてありがとうございます」

「こちらこそ、出演してくれてありがとうございます。二河です。髪形がいつもと違うから気が付きませんでした。失礼しました」

「全然大丈夫ですよ。あ、こっちはお姉ちゃんです」

 思いがけない社長との遭遇に緊張して固まっていた聡子は、梓に紹介されてぎくしゃくと自己紹介する。

「座間聡子と言います。初めまして。えっと、この子の、ARIAのマネージャー的なことをやっています」

「初めまして。うちのスタッフがあなたのことを誉めていましたよ。ARIAさんの成功の秘密が分かったって」

「そんな、とんでもないです」

「そうです。とんでもないです」

「あんたが言うな!」

 聡子は茶化す梓につっこんだが、そのことで恐縮しっぱなしだった心が少しほぐれた。

「それより社長さん、ここは凄いですね。私、ネットのことはあまり知らなくて、大図鑑のことも今回初めて知ったんですけど、こんなに大勢の人が、こんなに色んなことを同じ場所で楽しめるって、凄いって思います」

 梓は素直に感想を伝える。

「そういってもらえると嬉しいです。いやー、最近は規模が大きくなりすぎて、そういう率直な意見が聞けなくなっているから、生の感情的なものっていうのかな、ぶつけてもらえるととても嬉しいです」

 興奮気味に話す梓に、二河は頭を下げる。

「感謝するのはこっちですよ。こんな素敵な場所を作ってもらえてとっても感謝です」

「そう言ってもらえるとやりがいが出ます。僕も最初はみんなが作ったおもしろ動画をいっぱい見たくて、動画投稿サイトを作ってみただけだったんですけど、思っていた以上に何かをやってみたかったり、そしてやっているところを見て欲しい人が多かった。そんな人達の姿をもっと見たくて、こんな大きなイベントまでやってみたんだけど、規模が大きくなればなるほどお金の話ばかりになるんだよね。いや、久しぶりにやる気が出てきました」

「そっか、この大図鑑が、社長さんの作品なんですね」

 笑顔でぐるりと見回す梓に、二河は晴れやかな笑みを返す。

「そうです。凄いでしょ」

「凄いです。でも、凄すぎて全てをネットにはアップできませんね」

 その言葉に二河は苦笑する。

「でも、」聡子が口を挟む。

「ネットにはネットの限界があってリアルにはリアルの限界がある。でもここは、ネットとリアルの境界線じゃないでしょうか。だからこんなにみんなが熱狂している……」

 熱気に押されてこぼれ出た言葉に二人の視線が集まっているのに気が付いて、聡子は顔を真っ赤にして謝る。

「すみません。変なこと言っちゃって」

「あなたは、何かをやっているんですか?」

 二河は穏やかな表情で聡子に訊ねる。

「いや、私は特に……」

「お姉ちゃんはニートをやってみているところです」

「ニート?」

「こら!いや、恥ずかしながら実は……」

「ニートをやってみているか。ハハハハハ」

 声を出して笑う二河を、聡子はポカンと見る。

「いや、失礼しました。でも、失礼なのだけど、ニートをやってみているって良いですね。僕もやってみたいな。今すぐは無理だけど、少し手が空いたら……」と呟きながら真剣に考え始める。

「その場合はemployerも入れてもらわないといけないな」

「真面目な人だ」

「こら!」

「いや、楽しい時間をありがとうございました。それじゃそろそろ失礼します。ライブ、楽しみにしています」

「任せてください」

 去っていく二河に、梓は自信満々の笑顔で答えた。

 開演時間が近づいていた。


       *


 準備を整えた梓達は控室を出ると、一階で車に乗った。梓は衣装を見られないようにポンチョを羽織っている。車で展示ホールの裏側に回る。そこにある入り口から入ると、ホール内に設営されたステージの裏側に出るようになっている。AgOgは既にホール内に入っているようだが、スタッフが忙しそうに駆け回っていた。右側の袖がAgOg、左側がARIAとなっている。左側用の入口では、口元をにやつかせた修二が待っていた。

「瘡乃刃君はさすがだな」

「なんで笑っているのよ」

 つっこみながらホール内に入った花月は、緞帳の隙間からステージ内を見てびっくりした。暗いために詳細は分からないが、ステージ内にはかなり大きなセットが組まれていた。

 十番勝負の演目間にはそれほど大きな時間の間隔はない。AgOgのスタッフはかなり短い時間でこの巨大なセットを組み上げたのだ。

「先攻を譲らなかったのはこれが理由だったんだな」

「納得しちゃダメでしょ」

「大丈夫だよ」

 梓はセットを見ても全く慌てない。

「私達だって凄いんだから」

「それはそうだけど……」

 修二がスタッフに呼ばれて離れていった。AgOgのライブが始まるアナウンスが入る。本来、この対決はプロデューサー対決であり、戦うのは吉本修二と瘡乃刃だ。しかし、実質的にはAgOgのリングとARIAの昨年ブレークした歌い手対決との見方が強くなっていた。それによって、最初は修二と瘡乃刃による前座が予定されたのだが、それはキャンセルされ、純粋なライブのみでの対決となった。

 アナウンスの後、ざわついている観客の間をスネアドラムが一つ走る。鋭い一撃に人々が息を詰まらせた瞬間に緞帳が落ち、眩い光が放たれ、スピーカーが轟音を鳴らす。

 朽ちた洋風の城、その中に黒き妖精女王のような衣装をまとったリングが姿を現すと、大きな歓声が上がった。

 その様子を見つめている梓に、桐子が声をかける。

「ウィッグをつけるからこっちに来て」

「うん」

 そう答えた梓は、怪訝な顔を返す。

「ウィッグって誰が持っているんだっけ?」

「梓ちゃんでしょ」

「持っていません」

 梓はポンチョから両手を出し、開いて何も持っていないことを示した。

「どこにあるの?」

 桐子は悲鳴を上げるが、自分がステージ袖にいることに気が付いて慌てて口に手を当てた。

「控室だと思う」

「取ってくる」

 桐子は、ホールへ飛び出していった。

「意外とアグレッシブなんだね」

「梓、あなたね……」

「うん、ごめん」咎める聡子に梓は素直に謝る。

「私も緊張しているのかも」

 そう言って梓はステージを見た。リングの艶やかなバラードが、観客を魅了している。

 四人も、梓の後ろに立ってステージを見つめる。

 そこにいる野上わこの姿は少し前まで自分達と同じ学校で高校生をやっていた人間だとは思えなかった。一年前、AgOgのバンドメンバーはごきビデ内で神と言われるレベルの演奏能力を持った者達だった。リングの歌唱力は彼らのレベルに達しておらず、容姿だけで選ばれたという書き込みも多く見られた。しかし今は、大勢の人の心を打ち、惹きつける、バンドを脇役にしてしまえるだけの、それだけの能力を持った立派なプロの歌手、「A Girl in the Opera glasses」のリングだった。

 曲はバラードからアップテンポな曲に変わる。それに合わせて観客のテンションも上がっていく。


「みんなありがとう」

 ステージの方を向いたまま、梓は唐突に言った。

「一年前、自分がこんなところに立っているなんて思いもしなかったよ」

 四人は黙って梓の言葉を聞く。

「花月ちゃん、たっかみー、委員長。私がここに立てているのはみんなのおかげだよ。みんなが助けてくれなかったら、絶対にここには立てなかった。本当にみんなに会えて良かった。……ありがとう」

 花月は瞳を少しうるませながら恥ずかしそうに頬をかく。多香美はぼろぼろと涙を流しながらも、しっかりと梓の後姿を見つめ続けている。和は穏やかな表情を見せていた。

「そして、お姉ちゃん」

 三人の様子を愛おしく見ていた聡子ははっと前を向く。

「ニートをやっていてくれて本当にありがとう」

 三人に対するのと同様の言葉が来ると思い込んでいた聡子は、がくっとしたが、つっこむのはぎりぎりで思いとどまった。

「お姉ちゃんがニートをやっていてくれたおかげで、あの日あの部屋にお姉ちゃんがいてくれたおかげで、私は歌い手になろうって思えた。だから、みんなにも出会えた」

 梓はくすりと笑う。

「あの汚い部屋のパソコンの画面が、こんなキラキラしたステージに繋がっているなんて思わなかったよ」

 AgOgの曲は三曲目に入った。紅白歌合戦でも歌われた人気のある曲に、観客は一層ヒートアップしていく。

「間に合った」

 息を切らせた桐子が飛び込んできた、

「梓ちゃんこっちへ」

「あなたは休んでなさい。私がやるわ」

 息を切らせている桐子を見かねて、女性スタッフがウィッグを受け取る。

「外は凄いよ。どんどん人が集まっている」

 ぜえぜえと息をつきながら桐子が教えてくれる。

「盛り上げてくれてる、わこちゃんに感謝だね」

 毛先の荒いショートボブのウィッグをセットしてもらいながら、梓はにこやかに笑い、曲が終わった瞬間には拍手までした。

 暗転した瞬間、いつの間にかセットの後ろに控えていた大勢のスタッフが一斉に動き出し、セットを折りたたんでいく。あまりの早業に横から見ていてもどのような仕掛けになっているのか分からなかったが、巨大なセットはあっという間に折りたたまれ、逆側の袖に片づけられていった。

 薄暗がりの中でもその様子がぼんやりと見えているらしく、観客席からも感嘆の声が上がっている。

「これも見せれば良かったのにね。セットを大急ぎで片付けてみたって」

 軽口を叩きながら梓は立ち上がり、ポンチョを脱いだ。

 会場にはARIAを紹介するアナウンスが流れ、歓声が上がる。

 梓は進む。いつも通り気負いもなく、自然に、嬉しそうに。

 笑顔で言い残して。

「行ってくる」

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