さんくちゅああり

靖之

第1話「私、歌い手になる!」

「お姉ちゃん。歌い手ってなに?」

ドアを勢いよく開けて部屋に入って来た少女は、乱暴にそんな質問を投げつけて来た。

「歌い手って……」

座間(ざま)聡子(さとこ)はパソコンでプレイ中だったネットゲームが戦闘の最中ではなかったことに密かに安堵しながら、長く伸びた前髪をかき上げながら闖入者に目を向けた。良く知っている顔だが妹ではない。七つ歳下の従妹、有村(ありむら)梓(あずさ)だ。

「どうやって家に入ったのよ」

聡子はくぐもった声で、まずそれを訊ねた。

この子はどうやって私の穏やかなる日常を破壊したのか?

春麗らかな日差しがレースのカーテン越しに差し込んできている部屋で、片付けるタイミングを失いかけているコタツに足を突っ込んで、ラップトップパソコンでネットゲームをやる、そんな平和な時間がなぜ壊されないといけないのか。

 聡子は二年前から大学を休学して実家で引きこもりのような生活をしている。しかも父親が海外に転勤になり、先週、夫婦揃って旅立っていったところだ。一人娘が日本に残されたわけで、寂しくないわけではないが、それよりも解放感に方が勝っていたのは事実である。

 今、この家は私の城なのだ!

 しかし、対して高くもない城壁はあっさりと女子高生にあっさりと破られてしまった。

 女子高生?

 そこでようやく聡子は気が付いた。

「その制服……」

「やっと気が付いた?」

 梓は呆れながらもニコッと笑い、その場で一回転する。

「似合ってる?」

「ええ」

 黒地に桃色のラインが入ったブレザー、見覚えのある制服だ。この家から歩いて五分の場所にある聡子の母校、桃陰高校の制服である。

 大きな瞳に意志の強そうな眉が特徴的な顔は贔屓目に見てかわいいと思う。セミロングの髪が緩やかになびく。

「よく似合ってる。とってもかわいい」

 私にもこんな頃があったのだなとぼんやり思いながら誉める。

「ありがとう」

 梓は照れ臭そうに笑う。

 その笑顔を見ていると聡子も嬉しい気分になってくる。

「今日が入学式だったんだ」

「前に行ったでしょ。それでね、ママに鍵を借りたの」

 梓はスカートのポケットから鍵を取り出すと、キーホルダーの輪に指を通してくるくるっと回した。

「おばさんかー」

聡子はうんざりとした顔をする。

 おっとりとした性格の聡子の母親に対して、その妹である梓の母親は厳しくて口喧しく、聡子は苦手にしていた。

「ちゃんと呼び鈴も鳴らしたよ」

「一回しか鳴らしてないじゃない」

 聞こえてはいたが、大した用事ではなかろうと、面倒くさくて無視していたのだ。

「鍵があるからって、勝手に入らないの」

 かわいがっていた従妹とはいえ、不可侵領域に無遠慮に入って来られるのは気持ちの良いものではない。それに、子供の頃は良く一緒に遊んでいたが、聡子が中学に入ってからは、年の離れた従妹と遊ぶよりも友達と一緒にいる方が楽しくなって次第に疎遠になり、最近は年に四、五回会う程度になっていた。

 高校生になったのなら、少しは大人の心得を持ってもらわなくてはならない。

 聡子はそう思って少しきつめの口調で言ったが、残念ながら説得力はなかった。

「確かに、こんな部屋だと人を上げたくないよね」

梓は改めて部屋を見回してから溜息をつく。

そこに広がっているのはゴミ部屋である。

本や雑貨が散らばり、ポリ袋や空き缶が転がり、衣服がうず高く積まれている。その部屋の真ん中に置かれたコタツの上にも様々な物が雑多に広げられている。

 その一角にノートパソコンが置かれており、その前に上半身を折り曲げて聡子が座っている。タイガースファンでもないのにトラのつなぎを着ている。屋内にも関わらずかぶっているフードからは、伸ばしっぱなしでぼうぼうの髪が溢れ、長く伸びた前髪が目を隠している。

 新しい門出を迎えたばかりの若人にはふさわしくない、幽幽たるニートの部屋である。

 そんな部屋の主に「高校生になったからには」などと講釈をされてもなんの説得力もない。

 聡子が悔しがりながらも言い返せないでいると、

「そんなことより歌い手だよ、歌い手」

 ポンと手を打って梓はスタートに戻る。

「教えて」

「なんで私が知っていると思うの」

 聡子は不本意そうに返しながらパソコンを操作し、ネットゲームからログオフする。

「歌い手ってネット用語なんでしょ。そしてニートは一日中ネットをやっているんでしょ」

 梓は悪意の無い顔で言う。

「そういう間違った世間の認識が悲しいニートを生み出していくの。全てのニートがネットをやっているわけじゃないし、ましてやネットに詳しいわけでもない!」

「でもお姉ちゃんは詳しいでしょ」

 力を込めた反論はあっさりと打ち砕かれる。薄汚れたニートと真新しい制服に身を包んだ女子高生では基本スペックに差があり過ぎる。

「詳しくはないけど、歌い手ぐらいなら知っている」

 ノートパソコンをくるりと回し、梓が画面を見られるようにしてやった。

「百聞は一見にしかずってね」

 少し割れた音で音楽が流れ始めた。画面には傷のついたフィルムっぽい演出で、どこだか分からない薄暗い空間に佇む一人の少女が映し出される。

「これはなに?」

 梓が訝しげに眉を顰める。

 少女の姿は隠すかのように、画面には右から左へと大量の文字が流れていた。

「ああゴメン。最初はコメントが無い方が良いね」

 覗き込んだ聡子がマウスを操作すると、文字が消えた。

 薄暗い空間に無数の黒い羽根が舞い降りる。羽根の影から、アンティーク調の椅子に座った縦ロールの髪型で少しゴシックっぽい服装の女性が現れた。横顔のカットに切り換わり、歌を奏で始める。ハスキーな声だ。少し背徳的な内容の歌詞と共に画面は流れて行き、アンティーク調の戸棚を映す。その上には人形が置かれていた。ゴシックっぽい服を着た、先ほどの女性にとてもよく似た人形。

 カメラはその人形に寄って行き、閉じられていた瞳がぱっと開かれ、緑色に光った時、音楽が転調し、緩やかだった流れが激しい物に変わった。


 梓は黙ってじっと画面に見入っているが反応は薄い。

「明るい曲の方が好きだった?」

「明るいとか暗いとかじゃなくて、これって普通のミュージックビデオじゃないの?歌い手と歌手ってなにが違うの?」

 聡子は梓との間に大きな認識のズレがあることに気が付いた。

「梓はごきビデって知ってる?」

「知ってるけど見たことはないよ。ユーチューブみたいなものでしょ」

「これがごきビデだよ」と聡子が画面を指さすと、梓は「そうなんだ」と改めて画面を見る。

「ユーチューブとは何が違うの?」

「一番分かりやすく言えば、ユーチューブはアメリカの会社が作った動画投稿サイト?実質的には世界で一番大きな動画投稿サイトね。ごきビデは、正式な名前はごきげんビデオ。日本の会社が作った動画投稿サイトよ」

「そうなんだ」

 感心している様子から、本当に知らなかったのだと分かる。

「ネットはあまりやらない?今どきはユーチューブとかごきビデは小学生の間でも人気だって聞くけど」

「パソコンはパパとお兄ちゃんがほぼ占領しているかあんまりやらないよ」

「スマホでできるでしょ」

「できるけど、容量制限されているからすぐにいっぱいになっちゃうんだよ。だからスマホで動画を見られるのは知ってるけど、ほとんど見たことないよ。たまにパソコンを貸してもらってユーチューブは見てたけどね」

「どんな動画を見ていたの?」

「だいたいクラシックの演奏。他には吹奏楽部の大会や、マーチングバンド」

 梓が中学時代、吹奏楽部に所属していたことは聡子も知っていた。

「友達には面白い動画や猫がかわいい動画とかも教えてもらったけど、パソコンを使えるのはリビングだけだから、ママが良い顔しないんだよ」

「なるほどね」

 聡子は梓の母親がネット嫌悪派だという新しい情報を得て、げんなりしながら説明を続ける。

「ごきビデができた時にはすでにユーチューブは日本に進出していて、一番有名で大きな動画投稿サイトだったわ。今でも一番だけどね。それで、色んな企業とも提携していて、プロのミュージシャンや映画のプロモーションビデオなんかも公式に公開していた。だから後発のごきビデはユーチューブとの違いを出すために素人動画をメインに押していくことにしたの」

「素人動画?」

「そのままの意味よ。素人が、プロじゃない一般の人が作った動画のこと。ユーチューブもそもそもは素人動画から始まったんだけどね。素人が、絵をかいたり、模型を作ったり、一芸を披露したり、楽器を演奏したりする姿を動画に撮って、公開するの。その中でも大勢の人が公開したのが歌よ。歌は誰にでも歌えるし、道具もほとんどいらない。そうやって自分が歌った歌を動画にして公開する人を、歌い手って呼ぶようになったの」

「え?」

 梓は驚きの表情を浮かべた。

「じゃあ、さっきの人は素人だったっていうこと?でも、歌も上手だったけど、バックの音楽も良かったし、動画も綺麗で、本物のミュージックビデオみたいだったよ」

 梓はマウスをクリックして、改めて動画を流し始める。

「ええ、この動画は歌い手も、曲も、動画を作った人も素人よ。もっとも曲を作った人は最近プロの歌手にも曲を提供しているし、何枚かCDも出しているけどね」

「すごい!」

「歌い手の中には実際にプロデビューした人もいるよ。この人にもそんな噂があるわ。そうだ!」

 聡子はパソコンを操作して、違う動画を流し始めた。

「これが、さっきの歌い手が初めてごきビデに投稿した動画よ」

 画面の中には、自宅の一室と思われる白い壁の前に一人の少女が立っていた。事前に教えられていなければ、それが先ほどのミステリアスな雰囲気を持つ少女と同一人物だとは気が付かなかっただろう。

 少しこもった音で曲が始まると、少女はそれに合わせてたどたどしいダンスを始める。マイクを構えて歌い始める。素人にしては上手であるが、実力以前に音質がクリアではなく、その点でがっかりとした印象を受けてしまう。

「約三年前の動画よ」

「そうなんだ。……この人は歌い手?」

 梓は聡子を見て聞いた。

「そうね」

「そっか、これが歌い手なんだ。ねぇ、もっと色々見ても良い?」

 勢いよく聞いてくる梓に、どうせ断っても見るんでしょう、と聡子は苦笑しながら了解する。

 梓は「歌い手」で検索をし、検出上位の作品から見始める。動画画面の横には歌い手の名前が表示されるが、そこをクリックすると歌い手の曲の一覧が表示されるのを見つけて、気に入った歌い手の作品を次々と見る。その眼差しは真剣だ。

 聡子はその横顔を見ながら、なんで急に歌い手に興味を持ったのだろうと思っていると「きゃ」と梓は小さな悲鳴を上げた。覗き込むと、画面内はまた文字で埋め尽くされていた。

「間違えてコメントを表示にしちゃったのね」

「これなんなの!本当に邪魔なんだけど!」

 梓は本気で腹を立てている。

「動画を見ながら感想を入力することができるの。それによって、その場面で他の人がどんな感想を持っているのかを知ることができて、気持ちを共有できて、逆に、自分とは違う、こんな見方があるんだって知ることができるの。ネットを通じて気持ちを共感できるっていうごきビデの売りだし、醍醐味ね」

 最近では他の動画投稿サイトにも実装されていて珍しい機能ではなくなったが、ごきビデが始まった当時は目新しく、ごきビデが利用者を増やす要因の一つになった。

「私はいらないの!これね」

 梓は自分でコメントを消すボタンを見つけてクリックし、再び動画の視聴に戻る。パソコンを取られた聡子は肩をすくめながら座椅子に身体を預け、床に置いていた雑誌に手を伸ばした。

「そう言えばお姉ちゃん」

 梓は画面から目を離さずに聡子に声をかける。

「今日入学式だったの」

「さっき聞いた」

 改めてなんだろうか?

「ママが来てくれたのね。今は保護者説明会に行ってる」

 嫌な予感に冷たい汗が聡子の背中を流れる。

「終わったらここに来るって」

「それ、早く言ってよ~~~」

 聡子は大きな嘆き声をあげると、雑誌を放り出してコタツから飛び出した。

「なんで体をくねくねさせてるの?」

「どれぐらい困っているかを表現したの」

「それよりも部屋を片付けた方が良いと思うよ」

「分かってるなら手伝って!」

「もちろんだよ」梓は素直にぴょこんと立ち上がるが、改めて部屋を見回して呆れた顔を見せる。「伯母さん達が出発してからまだ一週間だよね。よくこれだけ無茶苦茶にできるよね」

「片付けができないことに関しては定評があるわ」

「そんな自慢は良いから早く片付けよ」

 無駄な虚勢は従妹に冷たくあしらわれた。片付けようと動き始めるが、何から始めたら良いか分からず右往左往する聡子に、ゴミの分別を始めた梓が声をかける。

「さっき台所を通ってきたけど、シンクの中にいっぱい洗い物がたまってたけど」

「そうだった!ここは任せる。お皿洗って来る」

 慌ただしく出ていく聡子を見送り、ゴミの分別に戻った梓は弁当ガラの下から新聞紙を発掘した。その日付を見て、すっと目を細める。

 二年前の新聞だった。

「この部屋どうなってるの?」


       *


 結論から言えば、片付けは間に合わなかった。

 最大の敗因は梓の「お姉ちゃん臭いよ」という指摘に聡子が「三日お風呂に入ってない」と答えたことだろう。シャワーに飛び込んだ聡子にとってさらに不幸だったのは、身体を拭くタオルのストックがないと真っ裸で出てきた姿を、梓の母親に見られたことだろう。

 結果、聡子は濡れた髪のまま、正座で説教を受けることになった。

 梓の頑張りによってなんとか床が見えるレベルにまでは回復していたのだが、梓の母親は聡子の部屋に入ることを拒否した。その結果、使っていないリビングルームの掃除がなされていないことも指摘された。

 聡子の母親から一人娘を任されている梓の母親は、週に一回は家中の掃除をすることを聡子に約束させた。更に梓に写真を撮らせて、きちんと掃除をしているかを確認することも一方的に決めた。

 心身ともにズタボロに切り裂く嵐が帰った後、梓に手伝ってもらって家中の掃除を終えた聡子は、綺麗に片づけられた部屋の真ん中に置かれたノートパソコンだけが置かれたテーブルに突っ伏した。コタツは良い機会だと片づけられた。

 スマートフォンで掃除を終えた証拠写真を撮っていた梓は、最後にその従妹の疲れ切った姿を撮影した後、ノートパソコンの前に座った。

「お疲れ様。続きを見ても良い?」

と訊くが、返事を待たずに起動させる。

「いいけど……」

 聡子はぐったりしながらも、ずっと気になっていたことを訊いた。

「なんで急に歌い手なの?」

 梓の動きがぴたりと止まるが、聡子はそのまま続ける。

「吹奏楽部じゃなかったっけ?えーと、なんだっけ?トランペットの大きい奴」

「チューバだよ。ぜんぜんトランペットじゃないよ」

 明るかった声色ががらりと変わった。

 落ち込んでいるような、怒っているような、泣きそうな、それでいて心がなくなってしまったような声。

「それそれ、高校ではチューバやらないの?吹奏楽部もあるわよね?」

 聡子は声色の変化に気が付かないふりをして聞き返す。

「多分、止めると思う」

 梓はそうぽつりと零した後、聡子を見た。感情を無くしたような……、いや逆だ。感情を必死に押し殺しているような顔。

 もし決壊して一気に溢れだしたら今の自分ではどうにもならないだろうと、聡子は訊いてしまったことを少し後悔する。

「お姉ちゃん、聞いてくれる?」

 本当は逃げ出したかったが、頷くしかなかった。

「ほんとはね、チューバに興味なんかなかったの」

 梓はすっぱりと言い切る。

「お姉ちゃんも名前を知らなかったぐらいマイナーな楽器だし、有名じゃないし、パッしない。演奏の中でもはっきり言って地味だよ。音も低くて派手じゃない。オケ全体を底から支えているんだって、重要なパートなんだっていうのは確かだし分かるんだけど、でもやっぱり、目立つのはペットとか、高音隊なんだよ」

 恨み辛みがすらすらと語られていく。

「そのくせ大きい!重い!ほんとにどれだけ邪魔だったか分かる。本当に重いんだよ!加えて金属の塊だから夏は暑くて冬は冷たいの!冬なんて本当に最悪なんだから。熱がどんどん奪われていって、めちゃくちゃ冷たいし寒いの。重くて動きが取れないからパフォーマンスもできないし、そうだ唾もたまるし、もう最悪だった。とはいえ、つばがいっぱい出てくるのは練習をいっぱいした証だし、達成感があってちょっと嬉しかったりもするんだけど」

 顔を顰めた後に、楽しかった思い出に少し顔がほころぶがすぐにまた険しいものに変わる。

「それにケース!チューバより大きいし黒いしで全然かわいくないし、電車に乗ると邪魔者扱いされるし、もう、なんでわこちゃんはこんな楽器をやりたいんだろうって何度思ったか分からないよ」

 聞き知った名前が出てきて、聡子は一度瞬きをした。昔から梓と話していると何度も名前が出てくる、むしろ梓の話の八割を占めていると思われる友達、野上(のがみ)わこ。聡子は会ったこともないのに名字も顔も知っている。梓が見せてくれる写真には大抵彼女が一緒に映っているからだ。

 綺麗だが、気の強そうな顔の娘だった。梓と同じツインテールをお揃いの音符が付いたゴムで止めていた。

 そういえば今日の梓はツインテールにしていない。高校生だから大人っぽくツインテールは止めたのだろうか。聡子が別のことを考えている間に、梓は話を続ける。

「でもね。わこちゃんと一緒にやるチューバは楽しかったよ。練習も演奏も辛くなかったよ。県大会で金賞取った時はとても嬉しかった。高校でも、チューバをやるんだって思ってたし、わこちゃんも卒業式の時言ってたの。高校でもチューバ頑張ろうねって」

 梓は大きな瞳から溢れそうな涙を必死でこらえていた。

「でも……、春休みにわこちゃんと連絡が取れなくなったの。東京の従兄弟の家に遊びに行くっていうのは聞いてたんだけど、東京に付いたってLINEは来たんだけど、その後は連絡が来なくなって、予定の日を過ぎても帰ってこなくて、電話しても出てくれないし、メールもLINEも全然返事が来なかったの」

「うん」

「昨日ね、やっと連絡が取れたの。LINEに連絡が会って、会いたいって。私も会いたいよって返事を返して。残念だけどクラスは違ったの。私はA組でわこちゃんはF組。それで、お姉ちゃんに教えてもらった場所に来てもらったの」

「そうか」

と相槌を打ちながらも「あの場所をもう使ったのか」と聡子は思った。

それは聡子にとっても大切な思い出の場所。入学祝代わりにその場所に入る鍵を梓に渡した。

特別な時に使うんだよと言ったのだが、入学初日に使うとは思わなかった。しかし考えてみれば入学式は特別な日であることに間違いはないし、連絡が取れなかった親友との再会の日も、特別な日というにふさわしく、咎めることはできない。

「わこちゃんはね、髪型を変えてた。ポニーテールにして、一緒の髪留めを使ってなかった。それで、チューバはもうやらないって、吹奏楽部には入らないって言ったんだよ。それで、なにをするのって聞いたの。そうしたら」

 梓の頬を涙が一筋走った。

「歌い手になるって言ったの。それだけじゃなくて、歌い手になる為に私とはもう会わないって言ったの」

 涙は滝のように流れた。

「歌い手ってなんなのよ」

 梓は絶叫し、テーブルにうつぶせになってわんわんと泣いた。

 わこの東京の従兄弟が原因であろうと聡子は想像した。従兄弟はごきビデに動画を投稿しているのだろう。梓と同じようにごきビデに詳しくなかったわこはカルチャーショックを受けたのだ。その世界に憧れた。もしかしたら従兄弟に誘われて動画の一本ぐらい撮ってきたのかもしれない。

 東京でステップアップした、一歩大人になった気分になった少女に、中学からの流れで吹奏楽部を続ける気分はなくなってしまったのだろう。

 そして、吹奏楽部と共に子供だった時の象徴である梓とも距離を置くことにした。

 聡子は見たこともない、わこの従兄弟に少し嫉妬した。

彼は従妹に大きな影響を及ぼしたのに、自分は目の前で泣いている従妹をうまく慰めることもできない。

そんなことを思いながらも聡子は何も言わず、背を撫でてやるようなこともせず、梓が泣く様子をじっと見ていた。


       *


 梓は唐突に泣き止むと、「帰る」と言った。

「顔洗って行きなよ」

「うん……」

 梓は立ち上がり、鞄を持って扉の方に歩いていく。

「高校生活頑張って」

 聡子はなんとなく、そんな声をかけた。

「お姉ちゃんも、ニート生活頑張って」

 クルリと振り返った梓はひどい顔で笑いながら憎まれ口を叩いた。

「パソコンありがとう。じゃあ、また写真撮りに来るから」

「それは来なくてもいい。気を付けて」

「はーい」

 入って来た時とは違い、そっと扉が閉じられる。洗面台を使う水音が聞こえてから、遠くの方で勝手口のドアが閉まる音が聞こえた。

「やれやれ」

 聡子は呟く。久しぶりに肩がこった気がしてぐるぐると肩を回す。

 親友と喧嘩して泣くなんて高校生っぽいなと懐かしく思う。

 懐かしいついでにごきビデを検索してみると、目当ての動画はすぐに見つかった。ごきビデができた当時、大学に入ったばかりの聡子が投稿した「歌ってみた」動画だ。

 当時は今のようにプロ顔負けのプロモーション仕立ての作品を作る者はいなかった。多くは自室で、公園や教室で歌っている姿を撮影しているものがほとんどだった。

 聡子の作品も高校の屋上で撮影したものだった。エアコンの室外機がうんうん唸っているのを背景に撮影した。

 ダンスもせず、棒立ちで歌っている姿を正面から撮っただけ。髪は短く、赤いTシャツにデニムパンツという飾らない格好。赤いTシャツは沖縄に遊びに行ったときに無くしてしまったことを思い出した。肝心の歌は褒められたものではない。当時はともかく、今このレベルの歌を公開したら、叩かれるのは必至だろう。

 引きつった笑みを顔に張り付かせながら動画を見る聡子は、最後まで再生が終わった瞬間にこの動画を削除しようと削除ボタンにカーソルを合わせる。

 恥ずかしすぎる歌が終わったが、画面に表示されている残り時間はまだ少しあった。

 画面の中の聡子は、照れ笑いを浮かべながら画面の方に一歩、二歩とぎこちないステップを踏みながら近寄ってくる。カメラに辿り着く前に動画は終わった。

 映ってはいなかったが、近づいて行った方にはカメラを回している人がいたのだ。

そう、いつも一緒にいたあの人が撮影していたのだ。

 削除ボタンを押すことをできず、聡子はマウスから手を放し、上を向いた。

「若いなー」とつぶやく。

 動画の中の聡子は今より四年若い。梓はそれより更に三年若いのだ。

「そりゃ若いや」

 上を向いたまま、もう一度呟いた。


       *


 その夜、ネットゲームの世界で仲間達と怪物を倒すために洞窟に侵入したもののつまらないミスから脱落してしまった聡子がそろそろ寝ようかと思っていたところ、携帯電話が鳴った。こんな夜中に電話が鳴ることなど久しくなかったので、びくっと震えてしまった。

 梓からだった。

 電話を取ると、明るく決意のこもった声が飛び出してきた。

「お姉ちゃん。私、歌い手になる!」

 高らかで青臭い宣言。

「そう。頑張って」

 短く応援する。

「ありがとう。お姉ちゃんもニートガンバレ」

「また言うか!」

「アハハハハ、おやすみ」

 喧騒は一瞬で去っていった。

 聡子はパソコンを閉じ、立ち上がってすぐ隣にあるベッドに移り、リモコンで電気を消した。

 暗がりの中で目を閉じながらそっと呟いた。

「ニートガンバレ」

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