第4章:きみのことが知りたくて
5月10日の心情
あの日から、時間はものすごい早さで進んでいった。
あっという間、なんて言い方があるけど
身に染みて思わされたのは初めてだった。
2人で調べてきたメニューについて
東山先生は意外なほどあっさりゴーサインを出してくれた。
まるで、メニューなんて最初からどうでもよくて
あの日、2人を街に送り出すことが目的だったと言わんばかりに。
それからは、それぞれのクラスの学級委員を交えながら
歓迎会当日の予定を調整していった。
2・3年生や教職員に対する周知に関しては、ほとんどのことを東山先生が引き受けてくれたことで
おれたちがやらなければいけないことは実質的にはなかった。
当然のことながら、準備をしていると中原さんと話すことが多かったが
あの日、あの場所でのことは、不思議とお互いの口から話題にすることはなかった。
それでも、どこか恥ずかしさを感じることがあったり
目が合うと微妙な空気が流れたり
手が触れ合うと時間が止まったような感覚になったり
そんな、初めての体験がいくつもあった。
彼女がどう思っているのか、その本心まではおれにはわからなかったが
それでも、以前よりは感情の変化を感じ取ることができた。
目を見ればわかるのだ。
息遣いを聞けば気が付くのだ。
話しているば理解できるのだ。
彼女がどんなことを想っているのか。
どんな気持ちになっているのか。
コミュニケーションは、言葉がないと伝わらないことも多い。
それでも、それがなくても分かり合える人がいる。
それをたぶん、恋というのだろう。
愛というのだろう。
お互いに思っているからこそ、分かり合えるのだろう。
そうであったら嬉しい。
彼女もそう思っていてくれたら嬉しい。
だって、彼女の幸せこそが、おれの幸せなのだから。
人の幸せを願うことが自分の幸せになる。
そんなこと、1ヶ月前のおれには考えることもできなかった。
――――
「それじゃあ、明日はよろしくね」
「はーい」
おれと中原さんに少しずつ視線を送った後
東山先生は委員会室から出て行った。
外はすでに日が落ち、校舎の中には学生もほとんど残っていない。
委員会室に残ったおれと中原さんは
いよいよ明日に迫った歓迎会に向けて、最後の準備をしていた。
折り紙を使った飾りを作るため、お互いの手は休まず動き続けているが
2人の間に流れる空気は、どこか心地が良いものだった。
「折り紙なんて、久しぶりに使ったよ。
昔は結構器用な方だと思っていたんだけど
こんなに下手くそだったなんて知らなかった」
思っていたよりできない自分の不甲斐なさから、申し訳ない気持ちになってくる。
すぐ隣で作業をしている中原さんの手元をみると
自分の倍くらいの早さで飾りが作られていた。
「そんなことないよ。
こういうのは慣れだから」
「そうなの? でも、中原さんはすごく上手だね」
「私はこういうの……、結構やること多かったから」
なにかを思い返すように、少しうつむく中原さん。
もしかしたら、あまりいい思い出ではないのかもしれない。
人のためにと動いてきた中原さんにとって
きっとそれは、演じてきた自分の中の1人なのだろう。
それでも、中原さんはすぐに顔を上げて
なにもなかったかのように作業を続ける。
「いろいろあったような気もするけど
なんか、最近はあんまり思い出すこともなくなってきてね。
過去って、案外あっさり忘れていくものなのかなって」
「うん。そうなのかもしれないね」
過去に縛られて、なんて言い方をするけれど
結局、過去はどこまでいっても過去なのだ。
起こってしまったことが変わることはないし
どんなことがあっても過去に戻ることはできない。
「前に同じをことをやっていても
明日やることは前とは違う思い出になるかもしれないよね」
「え?」
未来にどんなことがあるのか
それは誰にもわからないけれど
一生の内に1回しかやらないことなんて、あんまり多くないと思う。
それなら、過去に戻ることはできないけれど
未来の出来事で上書きすることはできるんじゃないだろうか。
「勝ち負けとか、そんなはっきりしていることじゃないかもしれないけどさ。
思い出って、結構美化されたりするよね。
だから、悪い思い出は実際よりも悪いこととして記憶されているんじゃないかな」
記憶なんて曖昧なもので
人は、昨日の晩御飯だってすぐに思い出すことはできない。
それなのに、悪いことはいつまでも脳が記憶している。
なんともやっかいな機能を与えられたものだ。
「そう、か。そうかもしれないね」
「そうそう。そうだよ」
だって、そう思った方が、これからの人生を楽しむことができる。
そう思った方が、今を楽しむことができる。
それは、決して難しいことなんかじゃなくて
ただの考え方の問題なんだ。
それから、なんとなく話す話題もなくなって
おれたちは黙々と作業を続けた。
すべての飾りを作り終わったころには、夜空に月が現れていた。
結局、おれが飾りを作るペースは全く上がらず
ほとんどの飾りは中原さんが作ったものだった。
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