4月5日の憂鬱(2)


 がやがやとした下駄箱を足早に過ぎ

 1年2組の教室へと向かう。

 今までは考えられなかったが

 この高校にはクラスが2つしかないらしい。


 1つ上の学年は3クラスあるため

 たまたまおれたちの学年に子どもが少なかったのかもしれないと思ったが

 後になって調べてみると

 今年から家政科なる学科がなくなったということらしい。

 今まで、普通科2クラスと家政科1クラスの3クラスだったが

 学校運営にもいろいろあるのかもしれない。


 教室の前までくると、中からはすでに話し声が聞こえてきた。

 ほんの少し入りづらいと思ったが

 ここで立ち尽くしているのも無意味なので、そっと扉を開ける。


 教室に入った瞬間、数人の視線を一身に浴びる。

 この瞬間だけは、何度味わってもいい気持ちがしない。

 ましてや、この教室にはおれが知る顔は1つもなく

 それはおれに対して視線を送っている彼ら彼女らにとっても

 同じように見知らぬ顔ということなのだ。


 ひと時、時間にすればわずか3秒のことだったと思う。

 教室の話し声がわずかに小さくなった後

 なにごともなかったように、再び喧騒が戻る。

 そうだ。それでいいんだよ。おれのことは気にせず、そうして話していてほしい。

 我関せず、というスタンスは、互いにとって一番ストレスがない形でもある。

 なにより、おれの生き方自体が、我関せずなのだ。


 黒板に貼られた座席表を一目見た後

 そこに記された、一番後ろ、窓側の特等席へと向かった。

 今日は運が向いているかもしれない。


「はーい。みなさん、席についてください」


 聞きなれたチャイムと同時に

 担任と思われるスーツを着た女性が教室に入ってくる。

 見たところ20代後半だろうか。

 想像していたよりも若い。


 女教師の声掛けに応じるように

 あちこちで談笑していた生徒たちが自分の席へと戻っていく。

 きっとこの素直さも、しばらくしたらなくなってしまい

 だんだんと反抗的になっていくのだろう。

 高校生とは、そうした反抗期の世代なのだ。


「席についたね。自分の席がない、なんて人はいないよね」

「だいじょーぶでーす」


 ノリがいい男子生徒からの茶々もあり

 教室が笑いで包まれる。

 いいクラスかもしれない。こうした冗談に笑いで返せる人は心にゆとりがあるからだ。

 そんな冗談をいきなりかます女教師はどうかと思うけど。


「それでは、今日の予定について説明しますね。

 と、その前に」


 生徒たちに背を向け、チョークを手に取った女教師は

 慣れた手つきで黒板に文字を綴っていく。

 いつも思うが、教師はいつごろから、チョークを上手く扱えるようになったのだろう。

 黒板の書き辛さもあるが、おれはどうもチョークというものを上手く扱えた試しがない。


「はい。今日からこの1年2組の担任を務めることになりました

 東山沙苗(とうやまさなえ)です。

 みなさん、なにかあったら私を頼ってくださいね」


 ウィンクをする東山先生の愛嬌は無視しつつも

 クラスは拍手に包まれた。

 この人、ノリが完全に大学生なんだが、大丈夫なんだろうか。


「東山先生!質問がありまーす」


 さっきの調子のいい男子生徒が流れを無視し、手を挙げる。

 ああ、やっぱりこういうやりとりはどこでもやるんだな。


「えーっと、君の出席番号は……」

「田中です。田中良太(たなかりょうた)です」

「田中くんね。言っとくけど、彼氏はいないからね。

 歳は秘密。女性に年齢は聞くものじゃないよ」


 再びクラスに笑いが起こる。

 手を挙げた田中くんは、どこか気まずそうに笑った後

 挙げた手をそっとおろした。


「みんな、良く聞いてね」


 優しく笑っていた東山先生は

 姿勢をスッと正した後、教室中に視線を向けて

 本を朗読するように声をかけた。


「高校っていう場所はね、今までみんながいたような

 なにもかも教えてくれるような教育機関ではないの。

 この場所は、みんながこれから社会に出ていくために

 なにが必要なのかってことを考えるための場所なの。

 それは知識かもしれないし、友達とのコミュニケーションかもしれない。

 ただ1つの正解なんてないの。

 だからね、みんながそれぞれで、正しいと思ったことを考えてほしいの」


 真剣な声を感じ取ったからか、教室は静かになった。

 外からは、窓ガラスに向かって、春の温かい風が吹き付ける音が聞こえてくる。


「先生は、基本的にみなさんにすべて任せます。

 これから始まる高校生活、いろいろなことがあると思います。

 そのすべてに、一生懸命取り組んでほしいの。

 だって、その方が、きっと楽しいと思うから」


 楽しい、か。それはきっと、人によっていろいろ感じる違いがあるだろう。

 おれには、楽しいってことはいまいち良くわからないが。


 ざっと数えて30人ちょっと。これだけの数の人が

 1つの教室に集まっているんだ。それはきっと、考え方だって違うだろう。

 人が集まれば、きれいなことだけが起きるわけではない。

 嫌なことだってあるだろうし、悲しい出来事だって起こるかもしれない。


 教壇では、今も東山先生がなにかを言っている声が聞こえてきたが

 おれはその声を意識から締め出し

 窓の外、桜の花びらが舞い散る春の景色に意識を移した。


 願わくは、今日から始まる高校生活が

 今までと変わらない、何事もない、平穏な日々であることを祈る。

 いつの間にか始まった自己紹介の順番が回ってくるまで

 おれの意識はずっと外に向いていた。

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