鳥籠に咲く薔薇

氷山アヤ

プロローグ

 私はある日恋をした。名前も知らない、翼と角が生えたマジシャンに。


 あの時の私は貧乏で、親も家も無かった。親は私が小さい時に養育する事を辞め、日中に人通りが多くなる城下町近くのメインストリートに捨てた。それから誰も拾ってくれず、捨てられても尚一人ぼっちで貧乏な暮らしを強いられた。

 同じストリートチルドレンと呼ばれる子たちから食べかすを恵んでもらったり、野良猫と並んで落ちている食べ物を奪い合ったりは日常茶飯事。小さい身体は更に小さくなり、知らないうちに死んでいくのかと、死んだらこの身体はどうなってしまうのかと、子供ながらに怖い妄想をする夜も増えていった。


 そんなことを二年も続けていたある日、私が九歳になった時の話。

 手癖の悪い男の子から物を盗むことを教えられた。いつも食べ物に飢えていて、息も絶え絶えな状態の私を見かねて入れ知恵をしてくれたのだ。良い事だろうが悪い事だろうが、それが自分を守るためだったら正しい事なのだと、恵んでもらってばかりでは生きていけないと、そんなことも言っていた気がする。

 それから私は花屋から薔薇を盗み、それを売ってはお金にして、それで自分のお腹を満たした。沢山売れた日や王族お抱えの庭研究家が秘密裏に栽培していた珍しい品種の薔薇をくすねては町の植物研究家に研究対象として高く買わせた日の夜は御馳走だった。すると次第に私を無視し続けていたストリートチルドレン達は心を開いてくれて、みんなで一緒にご飯を食べる家族みたいな関係になれた。私はそれが楽しかった。逃げる時に大人たちから刃物や鈍器を投げつけられる日も多くて身体はボロボロになっていったけど、それでも楽しかった。心を開いてくれた子供たちも、私の痛々しい傷や痣を気遣ってくれたりどこからか薬を盗んで来てくれて癒してくれたりしたから、痛くても辛くなかった。


 ・・・そう。私たち社会からあぶれた存在が、人間皆平等と謳われた国で生きていくには、こうすること以外に術はない。私は幼いながらも、知性の足りない頭でいながらも、そう悟っていた。


「エマ!エマ!起きて!」


 ある日の事、広場の隅で転寝をしていた私を聞き慣れた声が起こしに来た。声の主は私に盗みを教えてくれた男の子、シリル。私より二つ年上でみんなのお兄ちゃんのような存在だ。無論私も彼の事をお兄ちゃんのように慕っている。


「ん・・・んん・・・どうしたの?シリル」

「すっげぇ大きな馬車に乗ってきたおじさんがアンに目を付けたんだ!」

「えっ!?」

「早く来てくれ!」

「あぁっ!ちょっと!」


 アンはシリルの実の妹で、私よりも一つ年下の女の子。私たちの間でもシリルとアンは有名な仲の良い兄妹だ。そんな二人のうち、妹のアンだけを養子にしたいと目を付けたおじさんが現れたらしい。

 シリルに手を引かれ二人でアンの元まで走る。場所はソニア城下町の中央公園だった。そこには立派な馬車、そこから降りて来たであろう身なりの綺麗なおじさん、そして、何か言われたのだろうか・・・深刻な顔をしたアンと私たちのようなストリートチルドレンの人だかり。「ごめんねー、ちょっとどいてねー」と優しく子供たちの輪をかき分けながら、目的の場所までたどり着いた。


「アン!どうしたの?」

「あ・・・エマお姉ちゃん・・・シリルお兄ちゃん・・・」


 アンは今にも泣きだしそうな顔をしている。そんなアンの肩を抱く私たちの仲間、クレアは自分たちよりはるかに背丈のあるおじさんを睨みつけていた。

 余所行き用のような綺麗な服を身にまとい、髪の毛も顎髭も綺麗に整えられた人だが・・・何故だか怖い。言葉は悪いが「嫌な奴」と見た目で感じ取った。


「何だね。そんなに怖い顔をしないでおくれ」

「あんたみたいな大人に!アンを渡すわけないでしょ!?」

「君たちは子供ながらの可愛らしさや人を信用することが欠けている。だから実の親に捨てられたのではないのか?」

「なっ!なんですって!?」


「クレア・・・やめなって」と、頭に血が上ったクレアを宥める。


「それに君たちにも悪い話ではない。今ここに集まっている全員にうちで採れた農産物と洋服を寄付してやろうと言っているのだ。それと引き換えなら君たちの仲間一人くらい安いものだろう」

「その言い方が気に食わないのよ!私たちだって人間なのよ!?物と引き換えですって!?馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!」

「別に彼女を悪いようにするわけではない。私の妻は子供が出来ないのだ。妻はそのことを心の底から悲しみ、最近は病弱で入退院を繰り返す始末でな・・・」

「あんたの家の事情なんか私たちには関係ない!それに、本当は奴隷が欲しいだけでしょ!?あんたの奥さんの為ってことはあんたはアンのお父さんになる!さっきみたいな言い方をする人にアンは渡せないわ!・・・シリル!あんたも何か言ってやりなさいよ!お兄ちゃんでしょ!?」

「クレア、わかった!わかったから!」

「放しなさいエマ!あんたも黙ってないで言いなさいよ!そこで突っ立ってる使えないお兄ちゃんに代わって!ほら!」

「そんな喧嘩腰で聞くから周りの空気が悪くなるの!ちょっと落ち着いて!」

「こんなオヤジの話なんか聞く必要あるものか!放しなさい!放せ!この薄らトンカチ!」


 クレアはおじさんを睨みつけたまま息を荒げていて、今にも殴り掛かりそうだ。それを私が羽交い絞めにして止めているのがやっと。

 それにしても・・・ずいぶんな物言いをする人だ。まるで私たちをゴミを見るような目。嫌な感じがしたのは・・・そうか、その目とその言動か。でも、どうしてだろう。そんな風に私たちを見ているなら、どうしてアンを、私たちと同じ境遇の子供を養子にしたいと思ったのかしら・・・。

 と、まぁ知りたいことは結構あるけども、この国の法律を考えたらこの人の考えていることは何となくわかる。


「おじさん、あなたの言い分はわかります。でも私たちみたいな家のない子供を里子にするということは、補助金を貰わない代わりに国から監視されないから虐待されても子供が助けを求める方法がないんですよね?国を通さないで里子を探すってことは・・・そういうことでしょう?」


 いつかは忘れたけど、たまたま道端に落ちていた新聞に、そんなことが書かれていたような気がする。この国が運営している施設はある。そこから養子をとると国から補助金ってお金が貰えるんだって。けれど、常に監視されていて、定期的な家庭訪問と子供は成人するまでボタン一つで施設に簡単に連絡できる機械を持たされる。ここ最近決まった・・・制度?っていうのかな?とにかくそういう決まりらしい。だから、養子が欲しければそこに行けばいいのにアンを欲したということは・・・。


「ほぉ・・・君はよく勉強しているね。そこの話の分からないお嬢ちゃんとは大違いだ」

「なっ!?」

「けど、虐待するためじゃない。だって、アン・・・君は私がわかるだろう?」


 えっ!?


「うん・・・わかる・・・」


 アンは泣きそうな顔をさらにゆがめながらも、はっきりと頷いた。アンの目に溜まっていた涙はとうとう頬を伝って落ちた。

 ていうより・・・え?アンはあのおじさんと知り合いだったの?じゃあいつもシリルと一緒にいたアンが知っていてシリルがまるで知らないのは何で?


「物みたいな扱いをしてすまなかった。彼女は私の恩人なんだ。私の家は大規模な農家なのだが、先ほど言った通り仕事を手伝ってくれていた妻が入退院を繰り返すようになった。彼女はそんな時期にぶつかった品種発表会に間に合わせてくれたのだ・・・君のおかげで、私は全てを諦めずに済んだのだよ」

「アン・・・そうなの?」

「ぐすっ・・・うん・・・ごめんなさい」


 いや、別に謝ることではないし、私も疑うことではないんだけど・・・でも俄かには信じがたい。人見知りのアンが、シリルにいつもくっ付いていたアンが、自主的に大人に手を貸すなんて・・・。


「君が手伝ってくれた品種はすごくいい評価を貰えたよ。だから私も妻も、その喜びを是非君と分かち合いたいと、意見が一致したんだ」

「うん・・・嬉しい・・・けど私は・・・!」

「国で探してもらうんじゃ駄目なんだ!君じゃなきゃ駄目なんだ!・・・だからこの通り!・・・私と妻の元に来てくれないか・・・?」

「おじ・・・さん・・・」


 あの人が・・・私たちの見ている前で、アンに土下座をした。さっきまであんな失礼な発言をしていた人とは思えない。アンの様子を伺うと、完全に困っているようだった。涙を目にいっぱい溜めて、私とシリルを交互に見つめる。この会話の間、シリルは一度も口を開けずに俯いていて、たまらず私はシリルに声をかけた。


「シリル・・・あなたからも何か言わなきゃ」

「あぁ・・・わかってる」


 シリルの声が震えている。そしてシリルはおじさんにゆっくりと近寄り、意外にも優しい声色で「顔を上げてください」と発した。その様子にさっきまで土下座をしていたおじさんだけじゃなく、私も、アンも、クレアも驚いていた。


「こいつを・・・よろしくお願いします」

「えっ・・・お兄ちゃん!?」

「シリル!?」

「あんた何見ず知らずの他人に自分の妹を差し出すような真似を・・・」

「うるせぇ!・・・こいつは妹じゃねぇ」

「なんで・・・なんでそんな酷い事言うの・・・?お兄ちゃ・・・」

「そのお兄ちゃんっていうのもやめろや。鬱陶しいんだよ」

「そんな・・・うぅ・・・」


 アンはとうとう本格的に泣きだした。声を上げることも忘れて涙だけが頬を伝い続ける。そして、そのまますんすんと泣き出した。私はてっきりアンの手を引いておじさんから引き離すものだと思っていただけに、意外なシリルの行動に暫くあっけにとられていた。ずっと一緒にいたたった二人の兄妹なのに・・・そんなことでいいの?そう思いつつ、私の口からは無難な言葉しか出てこない。


「シリル・・・いくらなんでも言い過ぎじゃ・・・」

「っ・・・このっ・・・クズ兄貴!!」

「ぐっ!」

「きゃっ!ちょっと!クレア!」


 クレアはとうとう癇癪を起こし、さっきまでおじさんに向けていた怒りが完全にシリルに向いた。私を振りほどいて、シリルに殴りかかる。こめかみにクレアの拳が当たり、一度よろけたシリル。けれどすぐに立ち上がり、顔を上げたおじさんにさらに近づく。まるでまだ話は終わっていないと言わんばかりに。


「そのかわり・・・もしアンを虐めたら・・・」


 そう低い声でつぶやき、おじさんの胸ぐらをつかむと・・・。


「テメェを殺す」


 そう言い放ち、乱暴に手を離した。そのまま背を向けて去ろうとするシリルだが、私の服の裾を遠慮がちに掴んだ。そこでシリルの気持ちを全て察した私は、走り出すシリルの後を追いかけた。小さくなっていくストリートチルドレンの群れからは誰一人私たちを追う子は居なかった。あのクレアでさえシリルの口から「殺す」という言葉が出た瞬間に力が抜けたようだ。走り出してすぐにアンの大きな泣き声が聞こえて来たけれど、その声が聞こえなくなるまで私とシリルは走り続けた。シリルは長い前髪で器用に目元を隠していたけど、それで涙を隠していたことに気付くまでそう時間はかからなかった。寧ろ、それに気づいたから私はシリルと一緒に走り去ったのだ。


 どれくらい走っただろうか。気がついたら見たことのない場所まで来ていた。恐らく港だろう。海に囲まれた場所で、近くには・・・船?だっけ?海に浮かぶ乗り物が幾つか停まっている。


「エマ・・・ごめんな」

「ううん。私も、あの場所にいるのは辛かったから」

「あいつ、きっと迷っていたんだ。じゃないと自分の口でお兄ちゃんといたいからって断るはずなんだ。・・・だから、それをしなかったってことは」

「もう考えるのはやめよう?自分の妹が幸せになれるかもしれないんだから・・・それに、シリルには私がついてる。クレアも、他のみんなも!」

「そうだよな・・・あいつは俺といるよりあのオヤジと居たほうが・・・」

「え・・・ち、違うよ!」

「いや、違わない・・・親から嫌われていたのは俺だけだった。あいつはそんな俺が可哀想だったから着いてきただけなんだ。あいつは親がいる当たり前の幸せを自分で捨てた・・・俺のせいだ。俺が最初にあいつを突き放しておけば、あいつは親が居なくて寂しい思いをしなくて済んだのに」

「違う!違うってば・・・そうだったらアンはとっくに自分で親のところに帰っていたはずでしょ!?シリルが大事じゃないわけないでしょ!」

「じゃあどうして!あいつは俺より他人を選んだんだよ!!」

「っ・・・!」

「あっ・・・わりぃ」

「たとえば・・・例えばだよ!?アンは本当はシリルと一緒にあのおじさんの家に行きたくてお仕事を手伝っていたとか!」

「・・・」

「あの子あまり言いたいこと言えないでしょ?嘘を吐くのも下手だし。だから最初から兄がいるって言って養子目的でおじさんに近づくのが嫌だったとか・・・!あるでしょ!?ねぇ!?」

「もういい」

「・・・え?」

「ごめんな。無理させちまって」

「無理なんかしてないよ!」

「仮にそうだったとしても・・・俺はあいつと違って大人が大嫌いだ。あいつはそれがわかっていた筈だし、養子の話が俺にも来たとしても断るってことくらいわかるはずだ」

「・・・シリル」

「ちょっと冷静になればそんなことすぐに気付く。だから、そんな気を使わなくてもいい」

「・・・」


 シリルにまるで伝わらない。シリルが笑ってくれない。いつものシリルじゃない。・・・なんて声をかければいいの?シリルだってアンがそういう妹じゃないってこと知っているくせに・・・どうしてそういう風に言うの?どうしてあげることが正解だったの?

 その時のシリルに寄り添うような言葉をかけられない私がとても情けなかった。寧ろ逆効果だったかもしれない。自分に語彙も知識も感情も、何もかもが足りないことを恥じたのはこの時が初めてだったかも。


「なぁ、エマ」

「ん?なに?」

「先に戻っていてくれ。俺はご飯調達したら戻るから」

「私も一緒に行くよ」

「・・・一人でいたいんだ」

「・・・そう。ごめん。じゃあ、待ってるから!・・・いつもの広場で」


 シリルは返事をしてくれなかった。そのまま私に背を向けて走り出した。

 生きる希望を失くした私を助けてくれたのはシリルなのにシリルを助けてあげられない私がとても情けない。


 その晩、シリルは戻ってこなかった。三日経っても四日経っても、戻ってこなかった。アンが居なくなってからの私たちの生活は、大きく変わっていった。目の前で大切な仲間が毛嫌いしていた大人に着いて行って、平然としていられるほど心に余裕は無かった。教育というものを受けてこなかったからなのだろうか・・・別れを受け入れられない子たちばかりだった。いや、私も人のことは言えない。少なからず私もその中に入っている。

 あれからはもう食べ物を持ち寄ってみんなで食べるということはしなくなった。別れがあんなに悲しいなら、最初から仲良くしなければいいんだ。最終的には皆その考えに落ち着いた。それで精いっぱいだ。


 再び一人ぼっちになった私は、ご飯にありつくために今日も花屋から薔薇を盗む。今日は大きなガラスの灰皿を投げつけられた。わき腹が痛い。もうこの傷や痣を癒してくれる人はいない。そう改めて確信すると、あちこちにある傷や痣が痛む。・・・もうこんな暮らし辛いだけだった。御馳走があっても一緒に笑って食べてくれる人が居なければ、美味しくない。


 じゃあどうして私はあの時アンを取り戻せなかったのだろうか。クレアみたいに、あのおじさんを睨みつけてアンの腕をひっぱることくらいは出来たはず。決してどうでもよかったわけではない。私だってアンが居なくなるのは寂しい。けれど、シリルも言っていた通りアンはあの時迷っていたこと、そしてシリル自身もクレアみたいにすぐ手が出なかったあたり、迷っていたのではないかと感じていたこと、社会の常識に抗って影で生きてきた私たちに、見えるように土下座をしてまでアンを欲したおじさん、これらを見ていたらこの流れに逆らうことをしてはいけないのではないかと怖気づいた。もともとこうあるべきだったんだと、嫌に納得してしまった。・・・そう納得した結果がこれだ。私たちはバラバラになってしまって、既にのたれ死んだ子もいるらしい。こんなことになるくらいなら、逆らってでもアンを取り戻せばよかったのだろうか。クレアを止めなければよかったのだろうか。そうしたら、シリルもいなくなることは無かったのだろうか・・・。


 ・・・寂しい。ぽっかりと穴が空いたような空虚感。そして、いつしかあの一連の出来事が私のせいなのではと思うようになった。そんなことを思ってももう前のような生活には戻れないことくらいわかっているけど。


 汚い路地裏の壁にもたれかかってぼんやりと考える。嫌でも考える。アンは元気にしているだろうか、シリルは今もどこかで生きているだろうか、あれから碌に会っていないけどクレアは何をしているのか、とか色々。そう思う中、私だけが時間が止まった空間に取り残された気分だ。また一人ぼっちになってしまった寂しさは、そう簡単に拭えない。

 三日くらいかな。何も飲み食いしていない。盗む気力も失せた。目の前には萎れかけた、それでも綺麗に咲く薔薇。仲間たちと綺麗にお店に並んでいたのに、盗んで一人ぼっちにさせちゃってごめんね。この薔薇には失礼かもしれないけど、なんだか私みたいだと思った。・・・いや、やっぱり違う。私はこんなに綺麗に咲けない。


 外はもう暗くなりかけている。どうせお客さんなんて来はしないだろう。なんだか眠くなってきた。このまま、寝てしまおうか・・・。


「・・・お嬢さん」


 ・・・ん?


「こら、起きなさい。こんなところで寝たら風邪をひいてしまうよ」


 ・・・だれ?


「ほら、起きなさい・・・」


 ・・・。

 あぁ、折角心地よい眠気が来たのに、誰よ邪魔をするのは。

 嫌々目を開けると、そこには顔の大部分が帽子で隠れた紳士。・・・いや、違う。人間にしては血色の悪い肌、肩から覗かす翼、帽子からはみ出た角・・・魔族だ。

 私は反射的に、私を起こすために肩に触れていた手を振りほどいた。怖いわけではないけれど、人間だと思って目を開けたら魔族だったからだろうか・・・本当に反射的に、だった。


「あぁ、失礼。驚いたかい?けど、今日は冷えるからこんなところにいてはいけないよ」

「う、うん・・・」


 と、ぎこちなく返しても、紳士は退く気配はない。しばらく沈黙が続く。


「・・・」

「・・・」

「・・・行かないのかい?」

「あなたが行かないから」

「あぁ・・・すまない。その薔薇が気になってね・・・どこで手に入れたんだい?」

「・・・キギョーヒミツってやつです。内緒」

「くくっ・・・」

「え?」

「ははっ。面白い女の子だな君は」

「え、あ・・・そうです、か?」

「さしずめ盗んできたんだろう。でもまさか内緒というとは思わなかったよ。開き直って怒るとか逃げ出すのかと思ってた。企業秘密なんて難しい言葉も知っているんだな。勉強もしていて感心感心」


 冷たい手が私の頭をなでる。表情は窺えないけれど、その低くてゆっくりで優しい声色がとても落ち着く。今まで大人を嫌いとは思ったことは無かったけど好きだと思ったこともなかった私にとって初めて好きかもって思った大人だった。・・・まぁ、仮装じゃなければこの人は魔族なんだろうけど・・・。

 それから少しだけこの紳士とお話をした。私の横に並んで座ってくれた。寒いだろうと纏っていたローブも貸してくれた。とても優しくて暖かい紳士。顔が見えないからお兄さんなのかもおじさんなのかもおじいさんなのかもわからないけど、そのわからないところにも魅力を感じるし、この人と話しているとさっきまで暗かった心も晴れた。同時に、私は案外お喋り好きなんだと気付いた瞬間でもあった。


「しかし・・・君みたいにいじらしくて可愛らしい子が・・・どうしてこうなってしまうのか・・・嘆かわしいね」

「仕方なかったの。元から貧乏で、このままじゃ家族全員死んじゃうから、私を捨てたんだと思う」

「怒りを感じたことはないのかい?」

「・・・わかんない。正直、怒りとかそういうのは、出てこないの」

「・・・不思議な子だ」

「不思議?私が?」

「この辺りの子供たちは大人を忌み嫌っている。まぁ嫌って当然のことをされただろうからな。・・・けど、君だけだ。怨恨をまるで感じない」

「エンコン?」

「恨みとか憎しみとか・・・そういうのだよ」

「捨てられてすぐは恨んだかもしれないけど・・・もう忘れちゃった。それに、もしかしたら親は死んじゃっているかもしれない。・・・ううん。もう・・・」

「お嬢ちゃん?」


 本当は知ってしまっていたんだ。既に。私の本当のパパとママは三日前に死んじゃった。昨日花屋の店主が読んでいた新聞に書かれていたんだ。忘れかけていた私の昔のファミリーネーム。パパとママは私を捨ててからも結局貧乏暮しのままで、最終的にはお家に食べ物は残されていなかったらしいし、二人の死因も餓死だった。だから私が三日間飲み食いもせず、盗みもしたくなくなった理由にそれも含まれていた。正直ここ最近色々なことがありすぎて頭の中がぐちゃぐちゃで、自分が今何を思っているのかすら曖昧だ。ただ言えることは、もう今の私には恨む相手も、怒る相手も、許す相手も、愛する相手も居ないということ。


「すまない。何か思い出させてしまったかな」

「え?・・・あっ!やだ・・・」


 気がついたら泣いていたらしい。自分でも気づかなかった。涙をローブに付けないように着ている服の袖を引っ張ろうとしたら、紳士に「それで拭いてもいいんだよ」とローブの端を目元にあててくれた。


「君は今まで本当に沢山辛いことがあったんだね。でもちゃんと生きてこれている。賢くて可愛らしいだけじゃなくて、強い子でもあるんだね。偉いよ」

「ううん。どれも違う。賢くもないし可愛らしくもないし、強くもないよ」

「それはそうやって言われたことがないからそう思うだけだ。私から見たら充分すぎるくらいだよ」

「そう、かな。・・・えへへ。なんて返したらいいのかわかんないや・・・。折角褒めてくれたけど」

「でもね、盗みはよくない。・・・折角君の心が綺麗なのに、盗みをして汚れてみせるのは駄目だ・・・これからはわざわざ汚れる必要のない人生を送ってほしい。だから、私が君にもう盗みをさせないマジックを披露してあげよう」

「マジック?そんなこと・・・できるの?」

「私はマジシャンなんだ。魔族だからって魔法でズルはしないよ?さ、君の左手で私の左手を強く握ってごらん」

「ん・・・こう?」

「そうだ。それで、君のタイミングで三つまで数えてごらん」

「・・・いち・・・にぃ・・・さんっ・・・え?」


 唐突に始まったマジック。紳士の魔法みたいな言葉で誘導されるがままに左手を握り、三まで数えると、握っていた私の手と紳士の手の間に違和感があるのがわかった。ゆっくり握っていた手を離すと・・・そこにはコインが一枚・・・と思いきや、私の服の袖から大量のコインがこぼれてきた。


「わっ!わわっ!な、なにこれ!?」

「ちょっと足早になってしまったが、私はもう行かなくてはならなくてね・・・ここで失礼させてもらう・・・おっと、御代はこれを戴いていくよ」


 そう言って手元にあった萎れかけの薔薇を持って去ろうとする紳士。


「ま、待って!まだ行かないでっ・・・こ、これどうなっているの!?まだ出てくるよ!」

「それで君が幸せになれますように。こんなにも綺麗な薔薇をここで枯らせるにはもったいないからね・・・では」

「っ・・・!」


 最後に私の額に触れるだけの優しいキスをして飛び立ってしまった。キスをされた瞬間、袖口から出てくるコインが止まった。まだあっけにとられている。あふれ出てきたコインが夜風で冷たくなるまで、しばらく私はぼっとしていた。


 本当はあの時あわよくばって思った。アンみたいに気にいられたら私を養子として置いてくれるかしらと妙な下心が生まれた。けれどあの紳士が私にしてくれたことは予想の遥か斜め上だった。

 本当はお金はあまり好きではない。パパもママもこれのせいで死んじゃったから。私たちもこれにずっと悩まされてきたから。それに、あの人が自分と一緒に暮らそうとは言ってくれず代わりと言わんばかりにこんなにたくさんのお金をくれたことが・・・嬉しいんだけど・・・ちょっと虚しかった。もっと話したかった。養子じゃなくてもいいから、もっと仲良くなりたかった。だって、最後に額にしてくれたキスが・・・何よりも一番嬉しかったから。


 そう。私はある日恋をした。名前も知らない、翼と角の生えたマジシャンに。


 その日から十年経った今、私はあの人のおかげで私を見下してきた国の頂点である王族の一味だ。どこでも見渡せるこの地位なら、あの人を探し出せるだろうと踏んだからである。しかし、それも今日少しだけ、風向きが変わりそうだった。

 王家の姓を持った私はエマ=ホールズワースと名乗り、一人息子であるカイル王子の嫁候補の中の一人となった。「候補」ならばまだ自由に動けるだろうと思っていた。・・・昨日までは。


「エマ、失礼するよ」

「カイル様、おはようござ・・・んっ!」

「来年、君は二十歳になるね・・・まだ気が早いかもしれないが・・・今日にでも婚約を結ぼう。来年の君の誕生日に、君は僕の妃となる」

「えっ・・・!?ほ、他の候補の女性は・・・」

「ふっ、何を間の抜けた質問を。この国は一夫一妻。他の女など追い出したに決まっているじゃないか」

「で、でも・・・そんな・・・急すぎます」

「僕にとっては急でもないよ。僕は君が十年前にパーティに紛れ込んだ時から、君しか見えていなかったんだ。だからこうして十年間悪い虫が寄りつかないようにこの城に閉じ込めていたんじゃないか・・・僕の愛、まだ足りない?」

「いや、その・・・いきなりすぎて理解が追い付いていなくて・・・申し訳ありませんがちょっと一人に・・・」

「そう、まだ足りないんだね。今日は公務もない。朝までかけて君の全身に教えてあげるさ」

「や、め・・・あっ!んっ!」


 こうなるはずではなかった。カイル様は私を町娘だと知っていたから、候補から外れて追い出されるまでの間にあの人を見つけられればいいと思っていた。

 あぁ、やめて・・・折角あの人が枯らさずにいてくれた花弁を、そんなに乱暴にされたら散ってしまう。絡ませられる指も舌も、あの人のためにあったのに・・・。


「エマ、愛してるよ。君は今までもこれからも・・・一生僕の鳥籠の中だ」


 あの人に触れてほしくて、あの人に汚してほしくて、あの人に愛されたくて綺麗にしたのに、たった一瞬で全ての夢と希望が破れてしまうことってあるのね。

 けれど、カイル様の瞳に映る私の瞳は、今も窓の外を映している。それでもあの人に会いたいと、子供の時に私を癒してくれたあの声が聞きたいと、今度は額ではなく唇にくちづけて欲しいと。




 _これは、鳥籠に咲く薔薇が名も知らない淫魔に焦がれた話。

 しかしこれは、淫魔が鳥籠に咲く薔薇に焦がれた話でもある。

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