1 おーぷにんぐ

 最初には天だけがあった。空をたゆたううちに、物悲しい歌が聞こえはじめた。女性の高いキーで、透き通るように美しい音色。微かな声はやがてはっきりと、青の中へと響くアカペラの音楽になり、次第に他の楽器がこのソプラノに従い、単純な音が増えてゆき、ある一つの曲を奏でた。そして意識だけのプレイヤーは天空の中に読み取る。晴れ渡る青い空の中へと浮かび上がる、輝きと共に降臨したタイトルの文字を。


 幻想交響詩~ウィルスナ~


 女神の深い哀しみを顕した楽曲は続き、静かに流れていき、やがて瀑布の轟々と鳴る音に掻き消された。この地の行く末と、物語の末路を仄めかすように……。タイトルの文字は砂が零れ落ちるように、煌めきながら光の粒子となって消えた。

 芝居がかった演出だ。やがて青い空と白い雲ばかりだった視界にも、変化が現れる。自動的に向きは変わり、地上が近寄ってくる。豊かな森と、巨大な滝。遠くまで続く緑の大陸に、幅広の、ナイアガラに似た瀑布へ注ぐ大河が悠々と流れている。割れたような形状で広がる下段のフィールドでは海のような滝壺が白い飛沫を受け止めて、その大地にも緑が繁っていた。大陸の端には崖が広がりその先には草原が見える。ゴマ粒のような動物の群れが縦横無尽と走っていた。大部分は森に覆われる大陸の、その周辺は複雑な地形を構成している。陸地の端、巨大な滝を背景にする小さな村が見えた。広大な森林地帯は見せかけだけの事で、見えているままの景色は地上にはない。作り物の世界だ。


 加速度を付けて落下する意識はリアルで、ここがバーチャルの世界であることさえ忘れそうになる。落下を感じているのに近付くことのない大地の景色。やがて白んでゆく風景が、最後には闇に変わった。真の闇に抱かれている。ねっとりと絡むような黒は、何もかもを塗りつぶし、それまで見えていた風景も、聞こえていた声や楽曲も、すべてが幻であったかのような錯覚に陥らせた。強制的な浮遊感の次には、強制的な自閉の空間へと急き立てられ、今、彼の意識は孤独を感じていた。

 闇の中でBGMが変わる。軽快なオルゴールの音が響き、不安をいくらか和らげた。なにせ冬夜にとっては初めてのバーチャルゲームの世界で、不安を感じないわけにはいかなかった。何もない真っ黒の空間に、意識だけで浮かんでいるのだ。手を挙げてみても何もない。挙げたはずの手が目に映らない。冬夜の体はそこになかった。


 虚無の空間にまた変化の時が訪れた。

 白い物体が突如、闇の中に現われる。意識は引き寄せられるように近付いて、冬夜自身の体と対面した。幽体離脱という現象は、たぶんこんな感じがするのだろう。自分がここに居て、自分を見下ろしている。眠っているらしい自分の肉体はパンツ一丁で、横向きにくるくる回転していた。珍妙過ぎて笑えてくる。ネットゲームの設定場面は、どのタイトルでもこんなものなのだろうか。

 操作方法はどこまでも感覚的なものとなり、自分が思うそれだけで、自在に自分の肉体が変化した。

 不思議な感覚だと思えた。自分自身を見えない力で外側から操作している。目を開けようと念じれば、眼下の自分がぱちりと目を開くのだ。その瞳が、黒に近い茶色から、透明に近い水色に変化した。肌も明るめに、顔つきは少しだけ外人寄りに。髪は黒のまま、三歳ほどサバを読んで設定は二十歳に変えた。夢を見ている感覚で、冬夜は自分を作り替えた。まさしく夢の技術だと感心した。

 あまりかけ離れた姿にしてしまうと自分酔いを起こすのだと、何処かで聞いた話が脳裏をよぎった。冬夜はもともと背丈に恵まれて育ったので、身長や体重を操作することは止めておいた。

 冬夜とよく似た、日本人の冬夜とは違うどこか中東風の外国人男性がくるくると回っていた。


『これでOKですか?』


 頭の中には、さっきから何かをする度に囁きかける声がある。その都度で無視していた声に対して、冬夜はここで初めて返事をした。「うん。もういいよ。」声はもう一度同じ質問を返し、冬夜も同じ返答をした。

 そして、すべてが崩れ落ちた。

 闇も、冬夜によく似た肉体も、冬夜のものであろうこの意識も。

 ふたたび落下が始まった。


 白く輝く淵が、呑みこんだ。


 しつこかった例の声がまた話しかけてくる。白い闇の中。右も左も上も下もない。

『お疲れ様でした。キャラクター設定はこれにて終了です。次にゲーム世界の簡単な説明と、各種施設、序盤のゲーム中に現われる主要NPCの紹介に移らせて頂きます。村で最初に出会う人物は自称この村の門番を名乗っている青年で、名前はハンスです。―― 』

 勝手にしゃべり続ける声は、勝手にチュートリアルの注意事項を長々と読み上げた。十分ほども喋り続けると、プレイヤーの返事を聞かずに説明の終了までをも告げた。

『それでは目を開けて、ウィルスナの世界をぞんぶんにお楽しみください。』

 ふと気付けば、天地の感覚が自身の中に戻っている。足には大地を踏みしめている感覚がある。BGMはいつしか微かに聞こえる濁流の音に取って代わられて、その音響は次第に音量を上げていた。

 最後のアナウンスに従って、冬夜はゆっくりと目を開ける。

 轟音と共に落ちていく豊かな水流がまず視界を占拠した。足元には崖が連なり、巨大な滝の豊かな水量がけぶる水飛沫の雲に落ちていく。抜けるような青い空には飛行船と乗用の飛竜が優雅に翼を広げる。前面に広がるパノラマ、山々の連なりが遠くで蒼く霞んでいる。空の遥かな高みに小さく太陽が煌めいていた。

 しばらくの間、冬夜はこの雄大な風景に見とれていた。やがて後ろを振り返った。

 そこには始まりの村がある。この世界へ降り立ったプレイヤーがまず真っ先に立ち寄るべき場所。


 草原が広がって、その行きつく先がこの崖になっている。なだらかな坂は緑の草に覆われて、風が吹き抜けるたびに、これも海のように黄緑色に波打った。一見は美しい世界、ウィルスナ。この草原が、一番最初のログイン地点と定められている。今、ここには冬夜の他には誰も見えない。チュートリアルの中で勝手に決められた冬夜の初期服の色は黒だ。黒い長袖のシャツと黒い七分丈のズボン。村人と同じデザインの服だ。素朴な村人とは違い、笑みを浮かべる冬夜の表情はどす黒く、悪人としか映らなかったが。


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