第二章 驚愕 四
四
背後から人間のものとは思えないような叫び声や、叩きつける音、飛び散る音が聞こえる。それでも俺は振り返ることなく、何度もつまずきながら走り続ける。そして、どうにか旧地下鉄から脱出することが出来た。あの暗い場所で、どうやって出口を捜し当てられたのかまったく覚えていない。それぐらい無我夢中に走って、気が付いたときには改札の前まで戻っていた。
転んで出来た怪我や、あの奇妙な男に捕まれた生々しい感触が、地下での出来事が現実だったと告げていた。
超常の存在は間違いなく存在する。
そのことは、他でもない俺自身の体験で証明された。そして、あの奇妙な風体の男とその仲間達が、人間に対して害をなす存在だということが嫌というほど理解できた。
「結局、こうなっちまったか」
俺は、ポケットから一枚の名刺を取り出した。『救済者 朧』と書かれた、見るからに胡散臭い名刺だ。言葉を信じるなら、という条件付きではあるが、今の俺の置かれている状況をどうにか出来そうなのは、結局この男だけみたいだ。
超常の領域へと踏み込むことは、元より俺の望んでいたことなんだから、今更後悔はない。
俺はケータイを取り出し、名刺に記されている電話番号を打ち込んだ。
もう、後戻りは出来ない。
×××
朧は、すぐに俺の電話に応じた。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ、賀上明君。今君がいる場所はわかっている。そこの近くの喫茶店、そう、そこだ。そこで待っているよ、立ち話と言うのも疲れるからね」
と、いうわけで、俺は朧に指定された喫茶店へと向かった。
喫茶店へ入ると、奥の方の席からコートに身を包みサングラスで視線を隠した男、朧が手招きしてきた。どうしてこの男がこの場所にいるのか、俺が何処の駅にいるかも言っていないのに、その場所に一番近い店を指定することが出来たのか。そのことについて、今はあまり深く考えないことにした。
「やあ賀上君。こんなに早く再会できるとはね。まあ座りたまえ。腰を落ち着けてゆっくりと話そうじゃないか。そのためにこの場所へと君を呼んだのだから」
俺は朧の正面に座り、そして訊いた。
「単刀直入に言います。駅や旧地下鉄にいたあの化け物達。奴等は、一体何者なんですか? どうして俺のことを、いや、俺だけじゃない。どうして人間を襲うんですか?」
それに対し朧は、どこか芝居がかったような、わざとらしい口調で応じた。
「教えることはかまわない。しかし、一つ訪ねたいことがある。覚悟はあるかね? 聞いてしまえば、君は今までの日常に戻れなくなるだろう。そのことに対する覚悟を問いたい」
「かまいません。どっちにしたって、俺は奴等からは逃れられない。だからこそ奴等の正体がなんなのか、そのことを知りたいんです」
そう言ったが、理由はそれだけじゃない。
夢、憧れ、好奇心。
そっちの領域は、昔から憧れていた場所だ。今更何の後悔もあるわけ無い。
「ふむ、いいだろう。君に教えるとしよう。君が今、いかなる状況に置かれているのかを。奴等の恐るべき正体を」
朧は運ばれてきたコーヒーを一口飲み、そして言った。
「奴等は、『
「屍喰鬼。……アラブ人の伝承に登場する怪物、ですか?」
「なかなか博識だな。そう、その屍喰鬼だ。砂漠に棲み、墓を漁って死体を喰らい、子供や旅行客を砂漠の奥まで誘い込んで殺し、そして喰らう。まあ、盗賊や墓泥棒なんかの犯罪者を怪物として表した存在、と言ってしまえばそれまでだ」
「でも、それはただの伝承ですよ。あなたが今言った屍喰鬼の正体の通り、実在はしないんです」
「君は、そうだと言い切ることが出来るのかい? 屍喰鬼、あるいはそれに類似する存在が実在することは、君自身が一番よくわかっているはずだ」
そうだ。
俺はほんの数十分前にその屍食鬼とやらに遭遇している。それはつまり、屍喰鬼が実在することの証明に他なら無い。
「世界中に屍喰鬼が実在するという証拠は存在する。例えば、君はアメリカの、リチャード・アプトン・ピックマンという画家を知っているかい?」
生憎だが芸術には疎い。……が、その名前には聞き覚えがあった。俺の興味の、オカルトの範囲に含まれる作品の生みの親だ。
「知っていますよ。余りにも写実的な屍喰鬼の絵を描いた人物、ですよね、確か」
そこまで言って、ハッとなった。なるほど、彼の絵はそういうことだったのか。
「気付いたようだね。『食事をする屍喰鬼』、『教え』、『地下鉄の事件』他にも色々と。重ねて言うが、それらの作品はあまりにも写実的なのだよ。今の君ならば、それが何を意味するのかわかるだろ?」
ピックマンは想像によって思い描いた屍喰鬼を写実的に描いたのではなく、自分が遭遇した屍喰鬼を忠実にスケッチした。そうシンプルに考えれば、何も不思議なことはない。
そして朧の口から出たピックマンの作品のタイトル。
「『地下鉄の事件』……」
俺が今日遭遇した事件、地下鉄という場所、屍喰鬼。出来すぎと言ってもいいほどに、それらは符合している。
「いいところに気が付いたね。そう、地下鉄だ。君はアメリカの地下鉄職員が、あくまでも非公式だが、銃火機による武装を義務づけられているということを知っているかね? 人身事故が起こった時、その処理は一体誰の手によって行われているのか、考えたことがあるかね? それは日本においても同じことだ。一体一年間の内に、どれだけの人間が線路の中へと身を投げている? 彼等が死んだのはただの不幸な事故なのか、それとも、自らの意志で命を絶っているのか。しかし、それ以外の可能性を考えることが出来るのではないかね? いや、もしかしたら君は、すでに見ているのではないかね? 鉄道事故の陰に、一体何が潜んでいるのかを」
あの時、俺は確かに見ていた。『人身事故』を引き起こした存在を。線路のそばを走り抜けた異形を。
「奴等は屍喰鬼。奴等が人を殺している。そのことは分かりました。でも、いったい何の為に?」
「私に聞かずとも、君はすでに気付いているのだろ?」
何故屍食鬼は人を殺す? 怨恨によって? 縄張を守るために? 自身の存在を隠匿するために?
……違う。恐らくはもっとシンプルな理由だ。
「屍喰鬼が、人を喰うために、そのために殺す。そういうことですね?」
「まさにその通りだ。屍喰鬼が口に出来るものは死肉だけ。だから奴等は人を殺すことによって自らの『食料』を作り出すのだよ。奴等にとっては、人間など所詮食料でしかない。外見こそ人に近いが、しかし奴らの行動理念、思考形式、肉体構造などは根本的な部分で私達と違っている。何しろ、奴等についての説明をしようとすれば、科学的な理由付けなど不可能な部分があまりにも多すぎるのだからね」
「……朧さん、屍食鬼って、いったい何者なんですか? どうして人間の死肉を食べるんですか? 屍食鬼は、いったい何時何処から現れたんですか? いったい何故!?」
「私は、君の問いの全てに対して正確に答えることは出来ない。言っただろ? 奴等には不明な点が多すぎるのだ。奴等が何処から現れるかという話だが、これは大きく分けて三つの要因が考えられる。まずは最初から存在した屍食鬼、つまり、生まれながらにして血縁的に屍食鬼だということだ。次に、一度死んだ人間が屍食鬼になるという場合だ。ごく稀にだが、死んだはずの人間が屍食鬼として蘇ることがある。そして最後に、生きた人間が屍食鬼になる場合だ」
朧はそこまで喋ると言葉を切った。
「あいつらは、もともと人間だったってことですか?」
「ああ、その通りだ。そして、生きた人間が屍食鬼になるためには、あることをしなければならない。奴らと同じように人の屍を喰らい続けるののだ。すると、奴らと同じような姿形に体が変化していき、そしていずれは屍以外を喰することは叶わなくなる。そして屍食鬼になるのさ」
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