第二章 驚愕 三


 授業とホームルームが終わり、時刻は十五時四十七分。

 今日、部活動がなかったことは幸運だ。

 響子は何か用事があるらしく、ホームルームが終わると同時に一人で走って帰って行った。

 そんなわけで、俺は一人で家へと帰ることとなった。いつも通りの道を歩き、いつも通りに駅へと向かう。当然この時間では、駅はそれほど混んでいない。改札を抜け駅のホームへと行き電車を待つ。

 ……つもりだった。

「何だ、このいやな感覚は」

 改札へと向かう途中、いや、それよりも前だ。階段を上って駅へと入った瞬間から、誰かに見られているような感覚があった。足を止めて周囲を見渡すけど、どこから視線を感じるのかははっきりとわからない。

 視線だけじゃない。意識を集中すると周囲の雑音に混ざって、噂話をするようなひそひそ声や、何かが歩く音、何かを引きずる音が聞こえてくる。

 そして臭い。

 野生の獣をイメージさせる様な臭いが、そこかしこから漂ってきている。もちろん僅かなものなので、普段なら絶対に気付かないだろう。でも、全身の五感を集中させて周囲を観察すると、それらのものを感じ取ることは十分に出来た。

 いったいどこからだ?

 微かに聞こえてくるそれらの音や臭いは、今この駅にいる人たちの行動とはまるで関係がないようなものばかりだった。俺の方をじっと見つめる者や、ひそひそと噂話をする者はどこにも見あたらない。確実に何かがいる。

 周囲を注意深く観察すると一人、奇妙な男を見つけた。曲がりきった猫背、汚れてぼろぼろになった衣服、まるで顔を隠すためのようなサングラスとマスク。体臭を隠す為のような、あまりにもきつすぎる香水の臭い。

 ……まるで俺が朝駅で見た、人身事故の現場にいたあいつと同じじゃないか。

 その男は俺が視線を向けると、不自然に顔を背け、その場から去っていった。

 視線を感じたのはこの男からだったんだろうか。いや、たぶん違う。ほかにも、もっと沢山、息を潜めてどこかに隠れてるはずだ。きっと、俺のことを監視している。

 いったい何のために?

 俺が、見てしまったからなのかもしれない。今日の朝、駅であの男が人を殺すところを。俺がそのことに気がついたと、あいつ等はわかった。だから俺のことを監視しているんだ。

 あいつ等が何者なのかはわからないけど、それでも推測することは出来る。あいつ等は人とは違う何かで、自分たちの存在を巧妙に隠蔽しながら、俺たちの日常に紛れ込んでいるんだ。

 心は決まっていた。

 俺自身の目で、直接正体を見極めて見せる。もし俺の命を狙っているなら何をしようと危険なことに変わりはない。ならその正体を見極めることで対策する方が、よほど建設的なはずだ。朧も、その言葉を信じるなら、という条件付きだけど、いざってときに頼ることが出来る。

 俺は改札へ向かうのをやめ、あの奇妙な男が去った方へと足を向けた。あの男が向かったのは、駅のデパートの下の階だった。

 注意深く周囲を観察しながら、俺は階段を下りてデパートの一番下の階へと向かう。掲示されている地図を確認すると店内の端の方に商品の搬入口と、そのすぐそばにある非常口があることが分かる。店員の視線を避けるようにして、俺はその非常口を目指す。非常口の先には上の階へとつながる階段があり、エレベーターやエスカレーターが使えなくなった時に、そこを登って外へと出る様になっている。でも、俺の目的はそこじゃない。

 非常口から入った階段の踊り場についた。上へ続く階段があるのはもちろんのこと、階段の陰に隠れた場所に、『立ち入り禁止』の張り紙が付いたドアがある。普段は使わないはずの非常口、しかも、『立ち入り禁止』の張り紙が付いたそのドアの周囲の床。そこを注意深く見てみると、いくつかの足跡がついていた。普段なら、絶対に人が使わないような場所で、だ。

 立ち入り禁止のドアに手をかける。

「やっぱりここか」

 鍵は、掛かっていなかった。

 なるべく音を立てないように、ゆっくりとドアを開く。ドアの先は、レンガ造りのアーチと、さらに地下へと続く階段になっていた。埃っぽく、カビ臭い空気に顔をしかめながら、俺は階段を下っていった。

 廃線になった地下鉄が今でも残されていて、いろんな用途のために使われているという話を昔テレビで見たことがあった。廃線になった地下鉄は、現在の地下鉄と、ほとんど並行するように走っているらしく、その地下鉄の古い駅へと、このデパートの地下から行けるそうだ。

 どうやら、俺の記憶は正しかったみたいだ。

 ケータイのライトを懐中電灯代わりにして、使われていない真っ暗な駅のホームを進んでいく。一応非常灯が付いてはいるけど、それだけじゃ心許ない。

 壁や天井の通気口には、所々人が通れるくらいの穴があいていた。多分、デパートや今使われている駅の補修のためのものなんだろうけど、俺はそれ以外のための用途を想像してしまった。例えば、都心部を走っていたこの旧地下鉄と現在の地下鉄とを行き来できるようにして、さらに下水道とつながるような穴をあけることが出来たとする。そうすれば、地下から地上のあらゆる箇所にアクセスすることが可能な上に、自身の存在を完全に隠しながら生活することが出来るんじゃないだろうか。適切な箇所に隠し通路を造ることが出来れば、駅にいる人間を監視し、必要に応じて姿を現したり眩ましたりすることは、容易くできるだろう。

 ホームから降りて、線路の上を歩く。時折電車の走る音が聞こえ、来ないとわかっていても思わず身構えてしまう。なるべく足音をたてないようにして、息を殺しながら進んでいく。

 ……足音が聞こえた。

 大量の何かが歩いている音だ。

 足音と同時に、何かを引きずるような音も聞こえてくる。そして、それらはだんだんと俺の方に近づいてきていた。

「これは、まずそうだな」

 ライトを消して物陰に身を隠す。暗闇の中から近づいてきた『何か』は少し離れた場所で足を止めた。どうやら、俺のことには気が付いていないみたいだ。

 俺は物陰から、何かの方を見た。その何かは、まるで人間のようだった。頭部にはほとんど髪がなく、破れたりすり切れたりしたぼろぼろの衣服をまとっていた。鋭い牙や鉤爪が見える。皮膚が緑色に見えるのは、果たして非常灯のせいなんだろうか。そして異臭。まるで獣のような強烈な臭いを彼らは放っていた。

 彼らは屈み込むと、引きずってきたものへと各々が手を伸ばした。ある者はそれを引きちぎり、またある者はかぶりつき、噛みちぎり、咀嚼し、嚥下した。彼らの食事をする音が、暗い地下に反響する。そして、彼らの放つ異臭に混じって、鉄の様な臭いが漂ってきた。暗闇のせいで、彼らが何を食べているのかはよく見えない。

 ……彼らは一体、何を食べているんだろうか?

 そのことに興味がわいてきた。今なら、俺のことに気が付かないはずだ。そう考え、音を立てないとうにしてゆっくりと近づく。

 突然、彼らのうちの一人が、俺の方へと振り向いた。

 非常灯の明かりに照らし出され、彼の顔が鮮明に映し出される。

 赤い液体を口の周りにつけ、肌色の太い棒のようなものをくわえた彼の姿が。

 その瞬間、俺は頭が真っ白になるような感じがした。目の前の光景が、一体どんな意味を持つのかを、俺の脳が理解することを拒んだのだ。少し冷静に考えればわかることだった。あの奇妙な男が、朝、駅で何をしたのかを。ならば、彼らは一体何を引きずって歩いていたのかを。

 屈んでいた彼らが一斉にこちらを振り向いた。俺は半ば本能的に、彼らに対して背を向けると、全速力で走り出した。

 彼らの口に付いていたのは血。

 彼がくわえていたのは、引きちぎられた腕。

 彼等が引きずっていたもの、そして、彼等が食していたもの。

 それは、人間の死体に他ならなかった。


×××


 背後から迫り来る足音は、確実に近くなっていたけど、俺には振り返ってそのことを確認するような余裕はなかった。

 足音は近づき、徐々にその数を増している。耐え難い異臭とともに、猛獣のような唸り声が聞こえてくる。薄暗い線路の上を、何度も足を取られそうになりながら走る。

「っ! 嘘だろ!?」

 先回りされたのか、あるいは待ち伏せされたのか。俺の目の前に、彼等の仲間が数人現れた。俺のことを捕らえようと、腕を広げて襲いかかってくる。

「捕まるもんかよ、こんなところで!」

 ギリギリのところで体勢を下げてそれを回避する。しかし無理に体勢を下げたせいでバランスを崩し、さらには線路のレールに足を取られてしまった。

「痛っ」

 前のめりに勢いよく転んだ。即座に起きあがろうとするが、その直後、背後からあの強烈な異臭を感じた。息が掛かるほどの距離、首を、後ろから捕まれる。まるでゴムのようなぶよぶよとした感触が伝わってくる。鉤爪が首へと食い込み、荒い息と唸り声が間近に聞こえる。

 ……俺は、死ぬのか?

 実体を伴った死の予感が、余りにも現実的に迫っていた。

――その直後だった。

 俺の首をつかんでいたあの奇妙な風体の男が吹き飛ばされたのは。

 驚き視線を上げ、そして見た。

 俺の真横に、そいつは立っていた。

 全長二メートル超え、尖った耳、鋭い牙と爪、長い尾、全身を覆う白銀の体毛。怪奇小説やホラー映画に出てくる、狼男を連想させるような化け物が、拳を突き出していた。こいつが、俺を掴んでいたやつを殴り飛ばした。

 そのことは理解できた。

 でも何故? どうして俺のことを助けた? そもそもこの化け物は一体何者なんだ? 

 少なくとも人間じゃない。あの奇妙な男たちよりも、いっそう人間離れした外見だ。狼のようなその化け物は、急な出来事に対処できず、呆然と立ち尽くす俺のことを押し退けると、群がる大量の奇妙な男たちの前に立ちはだかった。

 そして吼えた。

 暗闇の地下に反響する、巨大な咆哮を発した。

 奇妙な風体の男たちは怯み、ある者は動きを止め、またある者は後すさった。俺はそれによって一気に正気に戻った。確かな事実が一つだけある。この化け物は、俺の首を掴んでいたあの奇妙な男をたった一発の拳打で殴り飛ばしたのだ。それがどれほどの腕力を要求されるのかはよく理解してるし、そもそもこの化け物は、いっさい誰にも気取られることなくこの場所に現れたのだ。

 ただひたすらに得体の知れない化け物。

 例え俺の窮地を救ったのがこの化け物だったとしても、こいつが俺の味方だっていう保証はない。今重要なことは、俺があの奇妙な風体の男達の拘束から逃れることが出来たということだ。こんな正体不明の、謎の化け物にかまっている暇なんてない。

 俺は、その狼のような化け物から背を向け、そして、出口を目指して一目散に逃げ出した。

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