第二章 驚愕 一
第二章 驚愕
一
火曜日の朝、俺はいつものように駅で響子が来るのを待っていた。
「おっはよー、明!」
「……ああ、おはよう」
相変わらず響子は元気そうだ。うらやましい。
「ん? どしたの? 元気なさそうなんだけど」
「……いや、何でもない。ただ眠いだけだ」
超常の存在が実在することを朧は示唆した。
彼の言葉を鵜呑みにするつもりはないけど、ある程度までは信用しても良さそうな気がする。少なくとも、俺が見たあの少女が人間ではない何かなのは確実だ。
そう考えると妙にわくわくして、昨日はろくに眠れなかった。朧から受け取った名刺は、今もとりあえずポケットの中にいれている。
「ふーん、珍しいね。明って朝強いイメージがあったんだけど」
「そうでもないさ。朝に強いのは、むしろ響子の方じゃないのか?」
「私? うーん、まあ確かに起きられはするけど、その分昼ぐらいになると一気に眠くなるかな」
「それはよくわかる」
いつも通り電車に乗ってS駅へと向かい、乗り換えるためにY線のS駅へと向かう。通勤通学で多くの人が行きかう連絡通路を通りS駅のホームにつくと、そこで電車が来るのを待つ。
何気なく響子のカバンやスカートへと視線を向けたとき、奇妙なものを見つけた。いや、奇妙というのは流石に言い過ぎかもしれないけど、でも、響子にしては珍しい。
それは、動物の毛のようなものだった。
色は白銀、長さからすると犬、それも、大型犬のものだろうか? 紺色のスカートやバッグについている白いはそれなりに目立つ。響子が何かペットを飼っているというような話は聞いたことがないし、それ以前に響子の住んでいるマンションはペット禁止だ。
色々と気になったので聞いてみることにした。
……しかし、その直後それを思いとどまった。何かものすごく嫌な予感を、このホームの中から感じた。
原因はすぐに分かった。電車を待っている人の中に、一人だけ奇妙な人物がいたからだ。
帽子やマスク、サングラスを使って不自然なまでに全身を覆い隠し、異常に濃い香水の中からまるで獣のような体臭を放つ男だ。
これだけたくさんの人々がいるんだから、奇妙な人物が一人や二人いたところで、さほど驚くようなことじゃない。そんなことはわかっているけど、この男の気配は、常人のそれとは明らかに違った。あの廃工場で俺が見た少女と同じような、明らかに人間とは別次元の存在が放つ気配だ。
あの奇妙な風体の男は、最前列で待つ人物の背後へとぴったりと張り付いていた。アナウンスが鳴り電車がホームへと入ってくる。
――まずい!
次の瞬間、あの奇妙な風体の男の前で電車を待っていた人物が、前へとよろけた。まるで、誰かに背中を押されたかのように。
「響子っ!」
「ん?」
怪訝そうな顔をした響子がこちらへと振り向く。俺は、そんな響子を勢いよく抱き寄せた。
「あ、明!? 一体何を……」
響子の問いに答えない。いや、答える余裕なんてなかった。身長差を利用し、響子の顔を胸元へと強引に引き寄せる。そして無理矢理に響子の視界を塞いだ。そこから先の出来事は、何もかもがスローモーションのようだった。
線路の中へと、吸い込まれるように落ちてゆく人。
周囲のざわめき。
俺の突然の行動に、訳も分からず抗議の声を上げる響子。
誰かが、電車の非常停止ボタンを押した。
入ってきた電車が急ブレーキをかけたのだろうか。
金属同士の擦れ合う音が響く。
非常ベルがけたたましい音を上げる。
俺の鼓膜へは幾重にも重なった騒音が、網膜へは落ちていく男の姿が、まるで永遠のように引き伸ばされて届いてくる。
体勢を崩した響子の肩から、バッグが床へと落下する。
――バチンッ。
唐突にそんな音が響いた。まるで、重い金属に何かがぶつかったような音が。叫び声が、悲鳴が、非常ベルの音が、幾重にも騒音が積み重なる。それに続いて、重い金属の塊が何かをひき潰したような音が聞こえてきた。直後、潰されたものから飛び散った赤い液体を知覚した瞬間、俺の感覚は現実へと引き戻された。
……。
一瞬、まるで時が止まったかのような静寂に包まれた。そして、悲鳴を上げこの場所から離れようとする人々と、鳴りやむことのない非常ベルによって駅の中は騒然となった。
「……あ、明、一体、何があったの」
響子のかすれた声が聞こえる。無意識のうちに響子を抱く腕に力が入る。見せちゃいけない。響子には、この凄惨な光景を。それを今の自分の使命のように感じていた。
……いや、違う。
そんなカッコいい、上等な理由なんかじゃない。
響子の柔らかく暖かな感触が、生の証たる心臓の鼓動が、今の俺には必要だった。ただのわがまま、あまりにも子供じみた俺の弱い心には、誰かの温もりが、それを許してくれる響子の存在が必要だった。それでも、精一杯の虚勢を張る。
「……大丈夫だ、響子。まだ、絶対に振り返るなよ」
何が起こったのかは、今、駅全体へと響き渡っている放送によって響子へも伝わっているはずだ 腕へと伝わる震えは響子のものか、それとも俺自身のものなのか、今の俺はそんなこともわからなくなっていた。幾度となく、数秒前の光景が脳内で再生され、徐々にそれが現実のものであると脳が認識し始める。それと同時に、心の奥からいくつもの感情が沸き起こってきた。
恐怖、嫌悪、拒絶……。
いやな汗が体中から吹き出す。自分の意思とは関係なく全身が震え、筋肉が弛緩していく。半ば響子へと寄り掛かるようにして、それでも俺は目の前で繰り広げられる人々の動きから、そして、目の前で起こった現実から目を離せなかった。あの奇妙な男の姿は既に無い。この混乱の最中、どこかへと消えてしまったのだろうか。
これが、仮にあの男の仕業だとして、いったい目的は何だ? 悪戯? 怨恨? 口封じ? いや、やっぱりこれは運悪く起こった事故か、あるいは、自分の意志による飛び降りなのか?
……何だ? 今、何か見えたような。
ホームと線路の隙間にある空間、予備のレールが置かれていたり、線路内での緊急退避場所になっているあの空間に、何かがいたような気がした。人間ぐらいの大きさのものが動くのを、単なる見間違いで済ますことが出来るはずがない。
薄暗い線路の上を何かが走り抜けていったのは、混乱した俺の脳が作り出した幻覚なのか? まるで何かを引きずるような音は果たして幻聴なのか? あの奇妙な男と同じような気配を放つ存在が、この近くに何体もいるように感じるのはただの気のせいなのか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます