第八話 猿は願った。
猿は激しくキーボードを叩き続けていた。
文字がディスプレイに次々と表示されてゆく。
画面の片隅に閲覧者数が表示されており、その時点で五百万を超えていた。さらに数字は上昇している。
いまや、総数八百万の読者層の大半が、猿の生みだす作品に釘付けになっていた。
それで多少、世界に歪みが生じていたけれども、そんなことは彼らには関係なかった。
「さらに先を書いてくれ。もっと先の世界を見せてくれ」
そんな読者の熱気を感じながら、猿はキーを叩き続けていた。
猿自分も手応えを感じていた。
――これは最高傑作になる。
猿がどん底まで落ち込んでいた時に思いついたプロット。それを時間をかけて頭の中で練り上げ、スクリプトとして仕上げる。
既に、最初の一文から最後の一文まで一瞬の隙もない緊張関係を保った文章が、出来上がっていたのだ。
今はただ、それを打ち込んでいるだけである。
疾走感が心地よかった。
リアルタイム評価が刺激的だった。
ライブで作者と読者が一体化しているような気分になる。
先程から声が聞こえなくなっていたが、これは読者が離れたためではない。
むしろその逆。今や全員が息を潜めて彼が書く世界の行く末を見つめていた。
そしてとうとう、猿は最後の一文字を叩き込む。
一瞬、世界は静まり返った。世界の片隅で針の落ちる音が聞こえるほどに静まり返った。
続いて歓喜が押し寄せてくる。そう、現場に居合わせた殆どの者が考えていた時、
「あの、中盤のところに誤字がありますよ。しかも、これは『姦淫聖書』並みにまずい誤字です」
という言葉が画面に表示された。
猿は慌てて画面をスクロールさせる。
指摘されたところを表示させると、確かにそこにはキーを余計に打ってしまったことによる誤字があり、そのせいで全体を通して最も重要な謎の一つが完全に台無しになっていた。
猿のキーボードにデリートキーはない。
でたらめに打った場合のことしか想定されていなかったため、やり直しはきかない。
つまり最初から改めて打ち直すしかないのだが、この疾走感や躍動感は二度と戻ってこないだろう。
猿は悲憤慷慨した。
号泣した。
慟哭した。
僅か一文字のために、千年かけた猿の努力のすべてが無駄になった事実を悲しんだ。
その悲しみの激しさに、猿をここに連れてきて気紛れな実験を始めた神が心を動かされたほどである。
神は言った。
「努力は認めるからさあ。願い事を一つ叶えるけど、どうするよ?」
無論、猿は即座に願った。
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