1999年5月25日 『奇跡』

 今日は、朝から胸騒ぎがした。

『その瞬間の日』だと直感がざわめく。

私はいつもの帽子を浅くかぶり、

導かれるように『そこ』へと向かった。

道すがらあの親子のことが頭をかすめた。

私はどこへと向かっているのか

という疑問もないまま

確信に近い足取りで『そこ』を目指した。

導かれるようにバスに乗り

小高い丘の動物園で私は降りた。

疑問がないというのは面白い。

体が迷いを知らない分、

無駄がないというか、効率が良い。

当たり前のように入園し、

キリンのエリアへと向かった。

数分歩いたろうか・・・

親子3人が

キリンを見ているのが

目に飛び込んで来た。

間違いない・・・

あの親子だ・・・

もう一人はご主人であろう。

気配を感じたのだろうか、

母親が不意に振り返った。

私は軽く会釈をしたのだが、

その母親は深々と頭を下げた・・・

考える間もなく、

それは私に向けられた物ではない事に

気付いた。


「待たせたな・・・」


と後ろから聞こえたのだ。

私は恥ずかしいやら、

びっくりしたやらで、

はじめて我に還った気がした。

彼は一瞬、

私の肩に優しく手を添え、

そして横をすり抜けて

その親子の前に躍り出た。

その瞬間、

当事者でもなく、

部外者でもないという立ち位置を

自然と認識出来たのだ。

客観視する立場とでも言おうか・・・

彼はそのまま母親をもすり抜け、

その少年と父親の間に立ち

柵に肘をかけ一緒にキリンを眺めながら

優しい口調で囁いた


「決まったか?」


それは、

あきらかに母親に対する言葉だった。

その言葉を聞き、

母親はご主人に目配せして


「お願いします」


とだけ答えた。

その時の母親の顔、

あれは、決意というより、

覚悟の表情のように思えた。

ご主人は複雑な表情で

キリンの向こうに広がる

空を見ているようだった。


「仮契約成立だ・・・

 ボウズ・・・

 立ってみな・・・」


彼が優しくその少年に促した。

その少年が父親を見上げると、

父親は腰を下ろして同じ目線で

優しく囁いた。


「ゆっくりでいいから

 立ってごらん」


不安げな少年は母親にも目をやり


「でも・・・」


と畏怖の表情を浮かべたが

母親も優しい眼差しで諭すように囁いた。


「大丈夫よ」


車いすを掴むその少年の手が

小刻みに震えていたが

父親が左手に、

母親が右手に軽く手を添えて


「一緒に頑張ろうか・・・」


と静かに励ました。

次の瞬間、

少年の視界にいきなり

柵の上から頭を下ろして来た

キリンの顔が飛び込んだ。


「うわぁ~~~」

「うわっ」

「きゃっ」


親子3人びっくりして

2~3歩下がったが、

反動で車いすだけが

さらに数歩分、

親子達の後ろまで滑っていった。

ただ、不思議なことに

普通なら笑いに包まれそうな

そんな光景にも拘らず

その場にいた皆が驚いていた。

急に現れたキリンにではない、

その光景にだった・・・

立ったのである。

少年は立っていたのだ。

しかも両親の支えも無く、

そこに立っていたのである。


「あぁ・・・神様・・・」


母親が小さく呟いたのが私には見えた・・・

直感であろうか・・・

人間の感情は伝播するというが、

そのせいであろうか・・・

私の頬にも涙が伝った・・・

その後の事は

私も涙でよく見えなかったが、

おそらく『奇跡』が自分の身に起きたら、

みんなするであろう行動を

していたような気がする。

軽い人だかりが出来る中、

彼が母親に近づき口を開いた。


「効力は3日だ・・・」


そう告げると彼は、

また私の肩に優しく手を添え、

そして横をすり抜けて

その温かくも驚異的な存在感と共に去った。

どれくらいの時間が経ったので有ろうか・・・どうやってここまで来たのやら・・・

気が付くと独り、

バスの車窓から見える霞む景色の中、

あの親子の涙した笑顔と

彼の優しい横顔が

記憶の中で私を癒していた。

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