エリシオン

アルセーヌ・エリシオン

1998年5月18日 『光景』

今日は、恐らく


人間が産まれてから死ぬまでの間に


一度あるか無いかの


奇跡の瞬間というものに立ち会った。




 朝、目が覚めると陽の光が枕元から足元へとゆっくりと差し込み始めたところだった。

ベッドから降りお気に入りのガウンを羽織って新聞と牛乳を取りに外へと出た。

門柱にあるポストと牛乳入れから新聞と牛乳を手に取り振り返ると

朝日に薄く霞がかかっており幻想的な景色が目の前に広がった。

ここに住み始めて10年、初めて目にする光景だった。

暫く見惚れていたが陽が昇るにつれ、日常の朝へと変貌を遂げた。

少し得した気分と軽い高揚感に素晴らしい一日を予感した。


部屋に戻ると、いつものように

珈琲を煎れ、先程の牛乳を足し

お気に入りの椅子にゆったりと腰掛け

新聞を開いた。

小一時間程かけ最初の日課をこなし、

その後もいくつかの日課を済ませ

午前中の最後の日課、散歩へと出かけた。

お気に入りの散歩コースがいくつかあるが、

今日はこの時期にはあまり行かない

葉桜の並木道へと足を向けた。


思えば、

ここが私の分岐点だったのかもしれない。


この時期、例年なら桜も散り

浅く青い空に散りばめられた黄緑の若葉、

その隙間から零れるように寄り添う

柔らかい光と影を楽しんでいる。

しかし、目の前に現れたのは、

過去にも例を見ないほどの桜並木だった。

花蕾が辺りを薄紅色に染めるほど

揚々と咲き誇っている。

柔らかい光が降り注ぎ安らぎに満ち溢れた

なんとも心満たされる光景だった。


そんな至福の瞬間に


その惨劇は起きた。


一瞬で訪れた悪夢・・・


事故だ。


それも目を覆いたくなるほどの大惨事だった。

だが私が、いやその場に居合わせた

全ての人々が驚いたのは、

その惨劇の事故そのものではなく、

その直後に起きた出来事だった。

まさしく『青天の霹靂』だった。


誰が見ても、

もう助からないであろう若い女性に

数人の人影が駆け寄った。

微動だにしないその女性を囲み、

皆がそれぞれに出来る事をしているなか、

先ほど真っ先に駆け寄った青年は

何度も何度も必死に声をかけていたが、

その一生懸命さが

彼女の反応の無さをさらに浮き彫りにした。


私も遅ればせながら

その人だかりに溶け込んだ時、

さっきまで必死に声を掛けていた青年が

失意のあまりだろうか

涙したその瞬間、一面が眩い光に包まれた。


どれくらいの時が刻まれたであろうか・・・

恐らくは一瞬の出来事だったんであろうが、

微かに景色が鮮明になるにつれ

そこにいた皆が目を疑った。


「何が起きた・・・?」


私を含め皆がそう思ったに違いない。

何せ、そこにいたのは、

今の今まで微動だにせず

瀕死の状態だったはずの

あの女性だったのだから。

服は破れ血だらけだったが、

彼女自身は無傷だったのだ。

彼女は自分の手から体へと目を走らせ

一体自分に何が起きたのか

必死に理解しようとしている様子だった。

それだけで充分寿命が縮んだのだが、

皆の目を釘付けにしたのは

もう一人の方だった。

そこに居たのは、

今までそこにいたはずの青年ではなく

完全なる『別人』だったのだ。

いや・・・違う。

青年が入れ替わったとでも言うべきか・・・

先ほどと服装は変わっていない・・・

と思う。

ここの記憶は曖昧である。

何せ、

注意力が女性に向いていたためである。

あの一瞬で

別の人間と入れ替わる余裕など無い。

となると『青年そのものが変わった』と、

認識せざるを得ない。

そこにいた皆がそう把握したからこそ

驚愕したのだ。

確か、声を掛けた青年は

短い黒髪だった。

が、そこにいたのは、

美しい白銀の長髪、

しかも目が釘付けになるほど

美しい異国の青年だったのだ。

だが不思議と彼に・・・というか、

その光景に畏怖は感じなかった。

強いて言うなら・・・

違和感とでも言うのか・・・

おそらく、そこに居た皆が、

同じ感覚だったであろう。

誰一人違う行動をとらなかったのが

その証拠ではなかろうか・・・

そう考えている間に救急車が到着した。

それに合わせ現場が騒然としてるなか、

何回かの瞬きの隙に

その青年だけの姿が忽然と消えていた。


「あれは・・・」


隣の他人に声を掛けている者、

辺りを見渡している者、

茫然自失状態の者など、

私を含め何人かは

それに気づいていたようだが、

何しようもないのは皆同じだったようだ。

救急車が一応彼女を乗せ走り去ると、

人だかりははらはらと自然消滅した。

あまりの出来事が重なり

頭を整理出来ずに家路についたが、

どう帰ってきたのかすら記憶にない。

しかし、なぜだろうか・・・

私はあの青年に

いつかまた逢えるような気がしてならない。

今夜はあの光景が夢に出るか、

眠れないか・・・だろう。

変なトラウマにならなければいいのだが・・・

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