おかしな空気。
今日の屋敷には少しピリピリした空気が漂っていた。
少女はその空気に気が付いているのだが、どうにも出来ずに困惑している。
まず女が静かなのは普段通りだが、男と衝突する様子が無い事に少女は違和感を覚えた。
そして男も普段の気の抜けた表情ではなく、何処か鋭さを感じる雰囲気を纏っている。
他の使用人達もその空気を感じ取ったのか、ピリッとした様子で仕事をしていた。
何か今日は普段と違う。それは少女も朝の時点でおかしな事を言われたから余計に解っている。
朝に何時もの様に少女を起こしに来た女は、少女にとある指示を出した。
それは「今日は屋敷内を自由にしていて良いが、使用人服は着るな」という物だったのだ。
少女は勉強の日に使用人服を着ない様に、と言われた事は何度かある。
けど自由にして良いのに使用人服を着るな、と言われたのは始めての事だ。
それに使用人服を着ないという事は、自由であって自由ではない。
言葉の意味を汲み取るならば、今日は仕事をしてはいけないと言われた事にもなるのだ。
「角っこちゃん、おはー。今日も可愛いねん」
勿論少女が近づけばこの通り挨拶はしてくれるし、優しい言葉もかけてくれる。
皆機嫌が悪いという訳ではないのだが、それでもやはり空気がおかしかった。
そしてその空気のおかしさの原因が解らないまま昼になり、女が作ってくれたサンドイッチを庭でもっきゅもっきゅとほおばる少女。
少女の背中には男の飼い犬が丸まっており、昼食の間は少女の背もたれになっていた。
サンドイッチを食べ終わり、犬を抱きながら今日はどうしようかなーと少女が考えていると、丸まっていた犬が頭を上げる。犬の視線の先には屋敷にやって来る車が有った。
少女がその車を眺めていると屋敷から女が出て来て、徐行する車を駐車場に誘導していく。
その様子を少女はぼーっと眺め、お客さんかなと思いながら犬を撫でている。
ただ撫でられている犬は何時もの利口で優しい目ではなく、何処かきつい目で車を追っていた。
そして暫く少女と犬が駐車場の方を眺めていると、高そうなスーツを着た神経質そうな男性が、これまた高そうな鞄を手に屋敷に向かうのが見えた。
だが男性は途中で少女の存在に気が付くと、方向を変えて少女の下へやって来る。
そして少し距離を空けた位置で立ち止まり、少女をじっと見つめ始めた。
すると犬が少女を隠す様に前に立ち、男性に唸り声を上げ始める。
大人しく利口な犬の余りに普段と違う様子に、少女は慌てながら犬の体を抱きかかえた。
「成程。甘やかされている様ですね」
犬が飛び掛からない様に抑える少女を見て、男性は冷たい声でそう口にした。
その様子は何処か気に食わないといった雰囲気があり、少女は意図が解らず困惑してしまう。
「ええ。別に問題は無いでしょう?」
「・・・ええ、確かに。それに関しては特に問題は無いですね」
「では、旦那様がお待ちです。どうぞこちらへ」
女が静かに男性に声をかけ、男性は舌打ちでもしそうな様子で女の言葉に従った。
屋敷に来てから初めて向けられた冷たい目に少女は困惑し、犬を抱きしめてその場から暫く動けなくなる。
少女にとってあの目は、何度も見た事がある目だった。
何故あんな風に見られるのか少女には理由は解らない。けど、何度も見られた経験がある。
格子に入っていた頃の少女を見る奴隷商や客の目は、いつもあの目で少女を捉えていた。
唯一男だけが、全く違う目を少女に向けた人間だったのだ。
怯えながら、ギリギリの体をもたせながら、何とか生きていた頃を少女は思い出してしまう。
不安な気持ちになりながらぎゅっと犬を抱きしめる少女に、犬は優しい眼を向けてぺろぺろと手を舐めていた。
本当に利口で優しい犬である。
暫くして神経質な男性は屋敷から出て来た。ただ今度は女だけではなく、男も一緒に居る。
少女は何とも言えない不安な気持ちになりながら、その様子を眺めていた。
すると三人は少女の下へ向かい始め、少女は男性の目に怯えて犬をぎゅっと抱きしめる。
「どうした、何かあったか?」
男は膝を曲げてしゃがみ、頭を撫でながら少女に訊ねるが、少女はぶんぶんと横に首を振る。
心配をかけまいという気持ちからの否定だが、男はそんな少女を見て苦笑してしまった。
誰が見ても何も無かった様には見えないし、誰に怯えているのかがまるわかりなのだから。
だたそれでも男は、この場は知らない振りをする事に決めた。
「そっか。何か有ったら言うんだぞ」
男の優しい声に少しだけ落ち着いた少女は、コクコクと男の目を見て頷いた。
それを受けてポンポンと少女の頭を優しく叩き、男は立ち上がって男性に眼を向ける。
「見ての通り素直に言う事は聞くし、こちらとしてもこの子に求める事はやらせて貰っている。問題は無いだろう?」
「・・・愛玩用に、ですか」
男が笑顔で男性に話しかけると、男性は汚らわしい物でも見る目を男に向ける。
その目と言葉に男は思わず苦笑し、方眉を上げながら口を開く。
「愛玩、ね。まあ否定はしないさ。屋敷の住人皆で可愛がってるし、本人も至って健康だろ?」
「・・・解りました。特に問題は無いようです。その様にさせて頂きます」
「ああ、宜しく頼む」
男性は気に食わなそうな様子で鞄からバインダーを取り出し、少女に見えない位置から何かを書き始めた。
書き終わると一枚の紙を男に渡してバインダーを鞄に仕舞う。
その際に男性はペンを落としてしまい、そのペンは少女の真横に落ちる。
少女は怯えながらも落ちたペンを拾って男性に渡そうとすると、男性はびくっとしながら素早く身を引いた。
「ち、近寄るな! 薄汚い人殺しの犯ざ――――」
男性が少女に向かって叫ぶが、その言葉は最後まで言い切られる事は無かった。
何故なら途中で男が男性を思いきり殴り飛ばしたからだ。
「・・・旦那様、監査の人間を殴り飛ばして一体どうするつもりですか?」
「知るか! くっそ、余計な事ぬかしやがって! 大体てめえも拳握ってんじゃねえか!」
「何の事やら。私は旦那様の様に感情のままに政府の人間を殴る使用人ではありません」
「うそつけ! 俺が動いてなかったら絶対殴ってただろ!」
男に容赦なく殴られた男性は完全に気を失い、地面に倒れ伏している。
少女は男が女以外を殴った事に驚き、その前の言葉への驚きは消えていた。
男は少女が固まっている様子を見て、とりあえず今は誤魔化す事に決める。
「ごめんな、驚かせたな。ちょっとこのオッサンと色々話があるから、俺とこいつは出かけて来るんで、今日は家で大人しくしててくれな?」
男はそう言うと、少女の返事を聞かずにそそくさと駐車場に向かう。
女は男性を片手で引きずり、男について行った。
少女は二人をぽかんとした様子で見送るが、落ち着くと先程の男性の言葉を思い出してしまう。
男性が言った「人殺し」という言葉を、なぜ自分が言われたのかと。
「クソが、もっぱつ殴ってやろうかな」
「止めて下さいよ。私だって我慢しているんですから」
「わーってんよ。返事は何て?」
「すぐに向かう、との事です。任せろとも言っていました」
「さっすがー、頼りになるねぇ顧問弁護士」
女は男の言葉に応えながらついさっきまで通話していた電話を切る。
これから二人は役所へ向かう予定になった。
何故なら役人を殴り飛ばして気絶させてしまったからだ。
男性は、奴隷を持つ家への監査を仕事とする人間であった。
奴隷を持つ家は、奴隷に対しある程度の面倒を見る義務がある。
その義務を成しているかの監査なのだが、今回はそれ以外の意味も有った。
男は今まで一度も奴隷を持った事が無いのに、訳ありで誰も買わない様な少女を買った事で政府からの監査が入ったのだ。良からぬ事でも考えているのではないか、と。
少女が奴隷になった経緯も知った上で屋敷に来た男性は、少女を警戒していた。
それどころか、こんな娘は死ねば良いのにとすら思っていた程だ。
男性の害意が見えていながらも男は上手く受け流すつもりだったのだが、少女に吐かれた言葉で頭に血が上ってしまったのだった。
「家帰ったら何の事か聞かれんのかなー。やだなー」
「私は説明するのは絶対に嫌ですからね」
「ひっでえ! お前本当に嫌な事ばっかり俺に押し付けるよな!」
男は今から起きる面倒よりも、帰ってからの少女の扱いの方が大きい悩みになっていた。
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