第0話 その男、魔術師 余談
事件から数日、笹間が本部に戻って最初に目にしたのは斧銀とともに去っていったはずのスカイラインだった。短期間にもかかわらずなぜか壊れ方にも風格が出ており、パッと見だと元々そういう車だったようにも思えてくる。
【緊急異常事件対策係室】とゴシック体が無理矢理詰め込まれた小さな表札を確認し、ドアをノックする。しばらくして「どうぞー」と間延びした声が返ってきた。
「笹間巡査、ただいま戻りました」
こじんまりとした室内は旧水道局を改装しただけあってレトロな雰囲気が漂っている。人員はほとんど出払っていたが、一番奥のデスクにはくわえ煙草の女性がオカルト雑誌を広げて座っていた。
「お疲れ様。軽い火傷だったってね。報告書は今週中でいいよ」
女性は手をひらひらとさせて言った。もう帰っていいということなのだろう。
「あの、矢野係長。誠に申し上げにくいんですが、車の件は……?」
「ああ。あれはね、後藤君に頼んで委員会で
思わぬ朗報に笹間は胸を撫で下ろした。
「そしたら何か処罰とかそういうのも……」
「でも後藤君こういうこと苦手だからなぁ。うっかり『乗れなくなったから部外者にあげましたー』なんて言ったら二人とも減俸かもね」
矢野は煙草の灰を落としながらケタケタと笑う。セミロングの髪が細かく揺れていた。笹間は撫で下ろした手でそのまま痛くなった胃を抑える羽目になった。
「ところでさ、笹間ちゃん」
「はい?」
「本、見なかった?」
「本ですか? 何の?」
「うーん、魔術関係の本。笹間ちゃんが戦ったとこだったり、島田さん……だったっけ。その人の家になかったかな。本じゃなかったら石版や、巻物でもいいんだけど」
笹間は記憶を漁ってみるが、あまりピンとくるものがあるように思えなかった。捜一から回ってきた資料では部屋の写真の中に易学の本やオカルト本などが写っていたがそれの話だろうか。矢野の顔を見ても屈託のない笑みを浮かべたままである。
「……すいません、事件資料以外には心当たりがないです」
愛想笑いで返し、部屋を出ようとドアノブに手をかけた時だった。
「そっか。ありがとう」
矢野がそう言った途端、笹間の背中を氷柱の先端で撫でるような寒気が通り抜けた。唾を飲み込み、ゆっくりとドアを開けて振り向かないよう退室する。廊下に出て数歩進んだところで彼女は自分がひどく汗をかいていたことに気付いた。
笹間が退室したのを見届けると、矢野は新しい煙草に火を点けた。
「本に足が生えて一人で逃げちゃいましたーってか」
ストレッチのように大きく腕を伸ばす。椅子の軋む音が響いた。
◇◇◇
部屋に一カ所だけ取り付けられた監視カメラは、ドア横の左隅から中央にかけてを映すにとどまっている。映像の左端にはベンチに腰掛けた影の足だけが映っている。
ゴトン、と何かが降ってきた音がした。
影はダンス・ステップを踏むようにカメラの前を横切って、ドアポストを開ける。照明が薄暗いためその顔ははっきりと映らない。少し物音がした後、再び影が映像に戻ってくる。画面中央で止まると、監視カメラの方を一瞥してそのまま映像の下部へくるくると歩いていった。
突然カメラの向きが大きく変わった。影が手で動かしたのだろう、映像の範囲は部屋の奥まで広がった。影は先ほど自分が座っていた場所も通り過ぎ、奥の壁の前で立ち止まる。丁寧なサイドステップを踏んで右へ左へと踊っているが、その中で何か探しているような動きが微かに映像から読み取れる。
小窓から月が覗いて、室内は冷たい光が充満する。その部屋の正体は本の集合だった。壁も床も天井も全てが本で出来ていた。光を浴びる窓枠も、影が腰掛けていたベンチも本である。厚さ、大きさは様々で、使われている文字は世界各国のものから古代のもの、人類の歴史に存在しないとされていたものまである。影は月光を恐れていた。まるで舞台でジャンプするプリメーラのように月光を避けると、一冊だけ開いていた本の中に飛び込んだ。排水溝に引き込まれる毛髪のように影が姿を消すと、部屋には静寂だけが取り残された。
やがて月光も去っていく。雲に遮られ、針のような一筋となったそれは、スポットライトのようにとある本を照らす。それは影がついさっきポストから受け取った本であり、数日前には島田夢一に魔術を授け、
映像は闇に包まれる。
数分後、パタンと表紙の閉じる音だけがした。
◇◇◇
十五時近いせいか食堂はだいぶ空いている。
昼食の惣菜を金平牛蒡か切干し大根かで迷っている笹間の肩を何者かが叩いた。
「あら、後藤さん」
「新しい車はクラウンだそうだ」
「ああありがとうございます! 神様仏様後藤様」
「気にするな。その結果俺とお前が二ヶ月の減棒になったがな」
「撤回です。地獄に落ちろ」
この実直すぎる上司はどうやら全てありのままに報告したらしい。しかし彼が元々嘘や誤摩化しがあまり向いてないのだろうということは、一汁三菜が綺麗に揃えられているトレイを見てもよくわかることだった。
「そういえば斧銀さん来てるんですか? 車ありましたけど」
笹間の質問に後藤が顎で向こうを指す。不審者のような黒づくめが再放送のサスペンス劇場を見ながらナポリタンを頬張っていた。二人で勘定を済ませて同じテーブルに着くと、斧銀は開口一番
「減棒おめでとう!」
とわざとらしい拍手をしてきた。この男は地獄耳も持っているらしい。
「元はと言えばあんたのせいでしょうが!」
「あぁん? 知るかそんなの。こっちは廃車寸前をリサイクルしてやったんだぞ。感謝されることはあっても非難される謂れはないね」
斧銀は悪びれる様子もなくナポリタンを食べ続ける。一口食べるごとにケチャップが飛び散り、笹間は同じテーブルを選んだことをかなり後悔した。
『臨時ニュースです。先ほどG県山中で隕石が落ちてきたとの報道が入りました。現在中継が……』
食堂にいた全員が箸を止めた。テレビの画面はサスペンス劇場から中継のカメラへと切り替わる。
『はい、こちらですね。ようやく消火が終わったところで、まだ報道陣が立ち入ることはできないのですが、視聴者の方がドローンで撮影した映像が……』
「視聴者投稿による映像」とテロップが入り、若干画質が荒い山林映像。やがて投稿者が騒ぐ音声と落下する火の玉、そして爆発音。
「映画みたいだな」「人里じゃなくてよかった」と食堂からもまばらに声が上がる。
落下したと思われる場所にカメラが移動すると、放射状に薙ぎ倒された数本の木々が映った。それほど規模は大きくないようだ。中心地では建造物の残骸らしきものが燃えている。
ワイプに映るキャスターや食堂の面々が怪訝な面持ちで映像を見つめる中、一カ所だけ異なる反応を見せるテーブルがあった。
「先物取引で全財産溶かしたような顔をしてますね」
「うむ」
ポカンと開ききった口、カランと落ちるフォーク。
燃えている建物はどう見ても笹間たちが数日前に訪れた斧銀の家であった。
「大丈夫? ショック死してない?」
笹間が顔の前で手を振ると、斧銀は餌を見つけた鯉のように掴み掛かった。
「オイコラお前俺が一体何を、何をしたって言うんだ一体!!」
「……もしやあれが」
と後藤が冷静に呟く。
”「あれ? 同じように書いたのに」”
”「怖いもの知らずかお前は」”
”「現代日本語とアラビア数字で書く魔法陣が正確であってたまるか。陣の位置関係も逆だ。多分近しい文字に誤変換されてどっか飛んでったな」”
「お前かあああああああ!!!!!」
「あー……あはは、ごめん」
笹間があの日、コーラ精製の魔術として書いた歪な魔法陣は不幸にも時間を【本日】、方向を【斧銀宅】に設定し見事隕石の魔術となって成立した。
こうして今日もすべての魔術は成立し、世紀の魔術師は期せずして家なき子になってしまったのである。
第0話 了
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