ブリューテ・ドウタ あとでもっと

有坂有花子

第1話

 アリアは椅子に座ったまま、壁にかけられた時計を見上げた。時計の針は午後一時を指しており、白い壁紙には窓からの光が映りこんでいる。

 アリアは目の前のベッドに横になっているギルを見て、ギルの口から体温計を取り上げた。

「三十七度七分……大分下がりましたね」

 アリアは体温計の目盛りからギルへ視線を移す。ベッドの上のギルは眠そうな小さなうめき声と共に、ぼんやりした目のまま小さく頷いた。

 皇都から海辺の町へやってきて半年、二日前ギルは飲食店兼酒場の仕事場から帰ってくると、急に倒れるように熱を出した。三十九度の熱で、医者を呼んだが、疲れからくる風邪だということで栄養を取って休養するようにと言われた。大きな病気ではなくアリアは一時胸を撫で下ろしたが、ギルに無理をさせてしまっていたのかと思い、ギルが治ったら自分も働くと言おうと決めていた。

 アリアは体温計を拭き、振ってからベッド側のサイドテーブルに置いた。

「何か食べますか?」

 ギルは伸びをする時のように小さくうなると、アリアの方に寝返りを打った。

「まだいいや」

「飲みますか?」

 アリアはサイドテーブルの上に置かれたオレンジジュースの瓶を指した。既に栓は開いていて、ごみが入らないように口のところに布がかかっている。その隣には透明なグラスがあり、底の方にオレンジジュースの色が少しだけ残っていた。ギルが意外とオレンジジュース好きだと知ったのは一緒に暮らすようになってからである。

 ギルは眠いのか、目を半分しか開けない状態でまばたきをしていたが、急に吹き出した。

「な、何ですか?」

「や。心配されてんなと思って」

「そ、それは、心配、します」

「飲み物くらい自分で飲めるよ。って言いたいところだけど、心配されるの嬉しい。にやにやする」

 ギルはいたずら好きの子供のような顔で微笑んだ。こういう顔をする時は大抵アリアをからかっている。

「それで、心配性のアリアは俺にオレンジジュース飲ませてくれるの?」

 アリアが自身の頬に上ってくる熱を感じながら嫌な予感を覚えていると、ギルは付け加えた。

「口移しで」

 だから何で、そうなるのだろう。

「今自分で飲めるって言ったじゃないですかっ」

「どうせなら飲ませてもらう方がいい」

 ギルは意地の悪い笑みを消さない。アリアは唇を引き結んで、オレンジジュースにかかっていた布を取ると、グラスに注いでギルに突き出した。

「そんなに元気なら自分で飲めますよね」

 ギルはアリアの顔を数秒見つめてから吹き出し、上体を起こしてグラスを受け取った。

「残念」

 ギルがグラスを受け取った方と反対の手を伸ばしてアリアの頬に触れると、アリアは小さく肩を震わせた。触れられた頬はすっかり赤く染まっている。

「そういうのは治ってから言って下さい……」

「治ったらいいの? 覚えとく」

 余計なことを言ってしまったとアリアが後悔している間に、ギルはオレンジジュースを飲み干していた。おかわりは、と言おうとしてアリアは口をつぐんだ。欲しければ自分で入れてもらえばいいのだ。

 ギルは空になったグラスをサイドテーブルに置いてアリアを見つめた。アリアは居心地の悪い思いで目をそらし、唇を引き結んだまま椅子から立ち上がる。

「着替え持ってきます」

 アリアがベッドに背を向けてドアの方に一歩踏み出した瞬間、ギルがアリアの腕を引いた。アリアは小さな悲鳴をあげ、背中からギルの腕の中へ倒れこむ。

 静寂が戻って、アリアは自分の鼓動が跳ねるように強く、速くなっているのを感じた。腰にはしっかりとギルの両腕が絡みついている。

「ちょっと、ギ、ギル、熱い、熱いです」

 恥ずかしさもあったが、それよりアリアが背中から感じるギルの体は熱く、心配の方が勝った。そんな気持ちを知ってか知らずか、ギルは猫のように体をすり寄せてくる。

「気持ちいい……冷たくて」

「それはギルが熱いだけですっ」

 アリアの腰を抱きしめていたギルの手が、脇腹を撫でて胸へ上がってくる。アリアは体を跳ね上がらせ、ギルの腕の中で体をよじる。

「駄目ですっ、そういうのは元気になってからにして下さい!」

 アリアがギルの手をつかむと、ギルはアリアの耳元で不満そうに低いうなり声をあげた。抵抗されなかったので、とりあえず分かってくれたのかとアリアが思った瞬間、首筋に熱い何かが押しつけられて叫んでいた。振り返るとギルの顔がすぐ側にあり、首筋に感じた冷たさから、そこに口をつけられたのだと分かった。

「可愛い」

 ギルは意地の悪い笑みを浮かべてささやき、アリアがつかんでいた方の手を動かした。止めるより早く、アリアは上げてしまいそうになる声を噛む。

「ギル! 何考えてるんですかこんな時に! ちゃんと寝て下さい!」

 ギルはまた黙りこんだ。今度こそ分かってくれたかとアリアが思った瞬間、耳元に吐息がかかった。

「触りたい。熱いの半分あげるから、もらって」

 アリアは自分の心臓が跳ねたのが嫌でも分かった。何を言っているんだと断固拒否するべきだが、その言葉に動揺してしまっている自分がいて、何て馬鹿なんだろうと思った。

 ギルの片手がアリアの胸に触れて動き出す。アリアは拒否の言葉を口にするべきか迷って、結局溢れそうになった声と一緒に噛み殺した。

「おっきくなった?」

 ギルにささやかれ、アリアは肩口へ振り返る。

「な、何が、です、か?」

「胸」

「し、知らないですそんなの!」

 ギルの指がアリアのビスチェドレスの前ボタンにかかる。アリアが見下ろす先で、ギルは手早くボタンを外していき、ドレスの下、スリップの中に手を入れた。

 アリアは声を噛んだ。けれど息は殺せない。声を殺した息をついていたら、先程口をつけられた首筋に同じ感触があって、悲鳴に近い声をあげていた。聞こえてくる肌を吸う濡れた音は絶対わざと立てているんだと思った。それより、吸われたら痕が残ってしまう、のに。

 首筋から唇の感触がなくなると、今度はそれが肌を這うように上がってきて、耳元に触れた。唇で耳元に触れられ、吐息が聞こえると、半身に痺れのように鳥肌が立つ。

「我慢してるのも、好き。可愛い」

 低い、熱っぽい声が聞こえて、反応するように指先が痺れる。羞恥と快感が入り混じって、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 ギルの手がアリアのドレスの中から抜けていき、そのままアリアはベッドに倒され、ギルに覆いかぶさられた。

 ギルはアリアの目の前まで顔を近付けてきてから、何か思い出したように顔を離した。

「な、何です、か?」

 もしかして今更やめる気になってくれたのだろうかとアリアは思ったが、ギルはまだ熱を持った目でアリアを見下ろしていた。

「口にするとうつるかもしれないから、首で我慢する」

 ギルはアリアの首元に顔を近付けて、肌を吸った。

「別に、もうこんなに近くにいるから変わらないですよ」

 アリアはギルのよく分からない基準をおかしく思いながら、ギルの背中に腕を回した。

「その、あんまり……舐めたりとか、されなければ」

 アリアの言葉が尻すぼみに消えていく。ギルは顔を上げて、小さな声で子供のように素直に返事をすると、アリアに唇を合わせた。

 最初は触れているだけだったが、そのうち我慢できなくなったのかついばむように吸われた。ギルの手が服の上から体を探るように撫でてくる。脇腹から腹、胸まで。撫でられるとその部分に電気が走ったように、痺れて熱くなっていった。心地いい、とも違う、多分、体の中から熱が溢れてきて気持ちいい、のだ。

 声をもらしてしまうと、唇を強く吸われ、ギルの手が服の中に入ってきて、肌に触れられた。脇から、胸へ。

「っん……」

 体が跳ねてしまうと、ギルは唇を離して、浮かされたような目で見下ろしてきた。

「可愛い」

 ギルはアリアの胸に触れた手を動かして、首筋に唇を埋めて音を立てて吸った。

 アリアは自然と声を上げていた。熱くて、頭の芯がぼんやりして、溶けてしまいそうだ。このまま、熱と混じり合って全部委ねてしまおうと思った、その時。

 はかったようなタイミングで、ドアチャイムの音が鳴り響いた。

 アリアは体を固くして、ギルも顔を上げる。けれどすぐにギルはアリアの目を見て、胸元に唇をつける。

「ちょ、ギル、お客さんが」

「いいよ、出なくて」

 なぜ出なくていいのかさっぱり分からなかったが、アリアは再び動かされた手に言葉も声も全部飲みこむしかなかった。

 もう一度、チャイムが鳴り響く。

「ギル、出ないと……」

 ギルは顔を上げて、むきになった子供のような目でアリアを見た。

「嫌だ」

「嫌って」

 言葉の途中でアリアは唇を唇で塞がれて、声にならない声を出した。

 その間にチャイムはまた鳴り響き、連打へと近い速度になっていく。

『アリアさーん。アリアさーん、いないんですか? カミーユですー』

 玄関の方から可愛らしい高い声が聞こえてくると、アリアは跳ね起きるようにギルの肩を押し返した。

 カミーユは近所に住んでいるアリアの主婦友達である。ふわふわ、おっとりしているが、天然なのか大胆なところもある。一応、ギルも会ったことがある、が。

 アリアに押しのけられたギルはものすごく眉を寄せて、唇を歪めていた。アリアはギルの腕の中から抜け出して、ベッドから立ち上がった。

「ご、ごめん、なさい。さすがに出ないと」

 カミーユは家の中にいることを確信しているのか、玄関の方からはまだ『アリアさーん、アリアさーん』と声が聞こえてくる。

「何でこんな時に……」

 ギルは毒づいてベッドから立ち上がる。

「あ、駄目です、寝てなきゃ」

「ん。アリア、ボタン」

 ギルは返事だけ素直にしてアリアの前に立ち、開いていたドレスの前を留めていった。

「あ、ありがとうございます」

 このまま行くところだったとアリアがほっとした瞬間、ギルはアリアの胸元に顔を埋めて肌を吸った。

「ちょっ、や、ギル!」

 アリアがギルの肩を押して引き離すと、ギルは吹き出して、からかうような笑みを浮かべた。

「あとでもっとしてあげる」

 その声と表情にアリアの鼓動が跳ねる。嫌ですと言えない自分が嫌だったが、断れない。

「とにかく、寝てて下さい!」

 アリアが自分でボタンを留めようと手を伸ばした瞬間、部屋のドアが静かに開いた。

 開いたドアの向こうから、黒髪を一つにしばった女性が顔をのぞかせて、目を見開いて動きを止めた。

 アリアは固まった。まずこの状況が何なのか分からなかった。顔をのぞかせた黒髪の女性はカミーユで、そういえばいつの間にか玄関のチャイムは止んでいて、自分はギルにボタンを留められていて。

 いや、でも、待って。これだと、今まさに脱がされているようにしか。

「ごっごごごごめんなさいっ!」

 カミーユは顔を真っ赤にして一目散に元いた方へ駆け出していった。

「ちょっ待って、待ってカミーユー! ていうかどうやって入ってきたの!」

「ごめんなさいー! 鍵が開いてたから、アリアさん倒れてたらいけないと思って!」

 アリアがドアの方へ叫ぶと、既に誰もいなくなったドアの隙間から声だけが聞こえてきた。

 アリアはギルを振り返って指を突きつける。

「とにかく、とにかく! 寝てて下さいよ!」

「ん」

 ギルはまったく動揺しておらず、むしろとても幸せそうな顔で微笑んだ。ちょっとは動揺して下さい、という言葉を飲みこんで、アリアは熱くなった頬を感じながらカミーユの誤解を解くために部屋を飛び出した。

 あとで、と先程ささやかれた言葉を思い出して、更に心臓が強く跳ねたのを感じながら。

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