美術室にて

フカサワ

12月

懐かしい匂い。例えば衣替えした時に服から香る乾燥剤の匂い、草むしりした後の雨の匂い、図書館の紙とインクと手垢の匂い。例えばセーターから香る油絵の具の匂い。


一限が終わりマチがヘラヘラしながら教室に入ってくる。

「また遅刻?」

「まーね」

薫はその答えを聞いてもどうせ遅刻ではなく美術室に行っていたんだろうと予想をつける。マチが一限から授業に出ることは少ない。一限は空き教室になっている美術室に行って絵を描いている。サボり癖のあるくせに根は真面目な面倒な奴。ちゃんと試験勉強はするし、得意科目は上位成績者だ。

美術室に行くのだって結局は美大受験のためなのだから真面目だとしか言いようがない。

「ああ、マチ」

「うわっ、なに?」

おもむろに香り付きのボディースプレーを振りかけられてマチが勢いよく振り返る

「びっくりしたー」

「絵の具くさいよ」

「あ、まじか、ありがと」

言いながら髪にもうひと吹き。セーターに染み込んだ油絵の具の匂い。翻った髪からも香ってくる。受験用のデッサンではなく油絵を描いていたのだろうか。

「二限はでるの?」

「うん。美術室これから授業あるから。午後からはまた美術室行くわ」



昼食後ざわつきながら次の授業の席につき始めるクラスメイトの中からはいつの間にかマチの姿はなかった。


薫は教科書とノートを持ったまま廊下に出、北の渡り廊下の先にある特別棟へ向かう。カタカタと音を立てる渡り廊下のすのこは避けて通る。もうチャイムはなっていた。見咎められることにビクビクおびえながら美術室のある特別棟に辿り着く。


カラカラカラ

美術室のドアを開けるとマチは手を止め絵から少し離れて考え事をしていたようだった

「マチ」

「…ん、薫。薫もサボり?」

「うん。授業出ても意味ないし」

受験間近なのにテスト勉強とか意味ないよねと話を続けながら薫はマチの描いていた絵を見る。やはりマチは受験用のデッサンではなく油絵を描いていた。

油絵の具と希釈剤の匂い、視界がくらりと歪む。描かれていたのは雪降る窓の外を眺める少女、目線の先には白い世界しかなく少女の物憂げな目が何を見ているのかは分からない。

「これ、だれ?」薫は絵に向かって指をさしながら後悔した。絵を描いている時は不在の第三者を想像で描いていることが多いからこの質問は嫌いだ、と前にマチは言っていたのに。

「さあ?じょしこーせー?」

「だよね」

薫は何も言わないことをえらび、持っていた教科書とノートを広げ自習を始めることにした。

窓の外を眺める少女がマチにしか見えないこと、誰かを想い焦がれる少女に見えること、少女の目線の先にいるであろう人物のことを聞きたかったこと。全て何も言わないことを選んだ。

いつもいつもゆるりと流れる心地よい空気は今日に限っては油絵の具の匂いでむせるようで苦しくにがい。

窓を薄く開けるとマチはなあに寒がりのくせにと笑う。薫も笑ってみせる。口の中が、にがい


油絵の具は懐かしくにがいかおり

あの時の絵が完成したかどうかは知らない



//

ガスストーブに暑いほど温められた美術室は油絵の具の匂いをむわりと漂わせている。

一人黙々と鋭い目をしてデッサンをするマチの集中は真面目くさった顔で隣の美術準備室から出てきた男の美術講師に遮られた。

「マチ、ハッチングの向きは揃えた方がいいですよ」50歳台のこの男はマチに呼び捨てで呼びかける。

「そうですね」そんなわけない。ハッチングの向きは物体の形に沿っていろんな向きで描くべきだし、この講師の言う通りにかいた後輩のデッサンは雨の中に静物が置かれてるかのような、下手な写真加工を施したような、つまり酷い出来に仕上がっていた。

講師はデッサンの進捗に興味があるような様子をわざわざ見せつけ、わたしの真後ろに立つ。気味が悪いったらない。集中が切れ、背後の気配に耐えられずわたしは席を立った。


美術室の外は屋内であるにもかかわらず息が白くなる寒さだ。コートもブレザーも美術室に置いてきてしまったが咄嗟に引っ掴んだ携帯で、まだ学校でだらだらしているはずの薫にメールをおくる

「まだ教室にいる?」

返事を待たず3年3組、自分のクラスに向かって歩き始めた。


冷え切った教室には薫はおろかいつも部活組と同じ時間までだらだら残る冴もおらず、くさくさした気分のわたしは講師がキモくてさーという愚痴も吐けないでいた。メールの返事が来ないことを確認し携帯をスカートのポケットに突っ込み、薫の机に行儀悪く座った。窓から外を眺めると雨が降っていて、今にも雪に変わりそうだ。きっと寒いのが苦手な冴が雪になる前に薫とともに帰ってしまったのだろう。厚い雲に覆われた空は暗く、まだ5時過ぎだが校門近くのオレンジの明かりが存在感を放っていた。


冷えた空気の中ですっかりセーターに染み付いてしまった油絵の具の匂いを感じる。薫がこの匂いを好きだと言っていた事を思い出す。

マチはマフラーに顔をうずめながら寒い寒いとこぼしつつ駅へ歩く薫を思い浮かべ、苦しいほど絵に没頭した時と同じ気持ちが湧き上がってくるのを不思議に思う。


美術室に戻ったらデッサンはやめて描きかけの油絵に向かおうと決める。題材は今この教室。あと少しでわたしたちがいなくなるこの教室。マチは来たばかりの廊下を引き返す。冷えた体が温まり過ぎないようにゆっくりと。セーターからは油絵の具の匂いが染み付いて取れないままに。

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美術室にて フカサワ @huka_sawa

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