枉氣の歪《くるいぎのひずみ》

蔦乃杞憂

序篇 夜、虚の天

プロローグ

 昨日か、あるいは一昨日おととい、だったか。



 何の意味も無く点けたテレビのモニター、その向こう側で、美人だと最近評判のアナウンサー......所謂いわゆる女子アナという人が、神妙な顔つきでニュースの原稿を読み上げていた。



「本日未明、××県○○市の住宅で、......さん一家が殺害される事件が起きました。目撃者の証言によりますと犯人は二十代から三十代の男で、身長は百七十センチ前後、藍色のジーンズに黒いシャツと帽子を身につけていたとの事です。警察は殺人事件として、犯人の似顔絵を公開するとの発表をしました。......」



 非道ひどい事件だと思った。早く犯人は捕まってせいぜい死刑にもなってくれ、とも思った。



 その更に前には、帰宅途中の女子高生が拉致監禁されたとのニュースもあった。どうしてそんな事が出来るのか、と憤慨した。



 けれど。



 それらの感情はあくまで、一連の出来事を全てテレビの向こう側の出来事......ある種の映画やドラマの様に、自分には無縁の世界と思い込んでいるからこそ、客観的、理性的かつ冷静に感想を述べられるのであって、その当事者になるなんて誰も思わない。



「へえ、そんな事件があったんだ、怖いなぁ。ところで今日の晩ご飯は何?」どうせこんなものだ。所詮しょせん人なんて、どう言い繕おうとも自らが経験しなければ事の重大さなんて微塵も分かりはしない。



 それは僕、昼間寝華ヒルマネハナもまた然り。ルール無しのデスマッチを遠く安全な場所で観戦する金持ちのように野次を飛ばす。そんな行為に疑いなんて持っていなかった。それが当たり前、当然なのだと。





 ......ふいに目を開いた。そこには夜空。昼間のものとは真逆の顔つきで僕らを見下ろしている。その中には星々が散り散りとなって輝いている。文句の付けようがない光景だった。



 目の前の景色に慣れてきた途端、鋭く刺すような、尖った波が激痛を伴って僕の元へやって来た。その痛みは腹部にのみ集中している。



 しかし、そんな地獄のような痛みを受けても尚、僕は声を張り上げることは無かった。いや、張り上げられなかった、が正しいのかもしれないが。



 寝そべって星を眺めている......その体勢のまま身動きが取れない僕は、残った力を振り絞り腹に手を当てた。



 血。真っ赤で、暗闇の中でも凄まじい存在感を見せる、人間が本能的に拒否反応を示すそれが、僕の手のひらにべっとりと付着していた。無論、それが流れ出たのは......僕の腹。突然空いた風穴からだった。それを認識した途端、呼吸が乱れ始めた。懸命に呼吸を正そうとするも、か細いヒュー、ヒューという息が口から漏れるだけ。呼吸の乱れに伴うように、心臓の鼓動も速くなる。



 僕は今、確かに『命の危機』を感じていた。人間は『死』ぬ間際にしか『生』を実感出来ない、なんてご大層な事を言う人もいるらしいけど、僕には到底そうは思えない。生きている最中に『生』を感じられても死ぬ瞬間に生きた心地なんてしない。現に今だってそうだ。むしろ『死』ばかりが先行してしまう始末。



 段々と思考がまとまらなくなってきた。痛みではっきりとしていた視界がみるみる内にぼやけ、ノイズが混じる。ゆっくり、かつ確実に薄れゆく景色の中、残った脳の欠片で僕は当事者と傍観者について考えた。



 僕は当事者。一つの事件をモニターの向こうで眺める傍観者ではなく、それを演じる俳優の方。



 死ぬ間際の『生』は感じられなかったけれど、いつも涙を流しながら取材に答える被害者の気持ちなら、ほんのちょっぴり分かった気がした。





 そこで、僕の意識は完全に、電源コードを抜かれたゲーム機のようにぷっつりと途切れた。

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