地獄はより深く
…………ルルーは、悪夢を見ていた。
それは昔は毎日のように見ていた、だけどある日を境に見なくなった、そんなに長くない人生で一番辛かった日のことだ。
つまり、それは、ねえ様と別れた日の夢だった。
……最後に見たねえ様は、いつものように優しくて、それに甘えていて、もっとお話聞きたくって、だけどもう遅いから、寝なさいって言われて、続きはまた明日と言われて、瞼を閉じたんだった。
…………だけど、次に見たのは全然知らない場所だった。
真っ暗で、揺れていて、なんか騒がしくって、訳が分からなかった。
それでも手探りで調べれば、ここが冷たい檻の中で、一人だけだとわかった。
それで、それで、嫌な予感がして、今度はぎゅっと瞼を閉じて、耳を澄まして、外の音を、ねえ様の声を聴こうとした。
……聞こえてきたのは、男の声で良い買い物をした、という自慢話だった。続くのは奴隷のこと、地図のこと、ルルーのこと、つまりは、自分は売られたと理解するのに時間はかからなかった。
ルルーは奴隷で、その奴隷にいつ売り渡すか、教える義理はない。むしろそれをチャンスと逃げる準備を始めるかもしれないから、秘密にするのは、彼らの割には頭の良い判断なんだろう。
だけど、お陰で、ルルーはねえ様にお別れを言うチャンスは与えられなかった。
……せめてもの救いは、新しいご主人様が現れるまで丸一日以上の猶予があったことだ。
その間、一人でいられたから、涙を全部出し終えて、ねえ様に教えてもらったことを思い出すことができたのだった。
▼
…………目が覚める。
泣き続ける悪夢から泣き叫ぶ現実へ、戻りたくはなかった。
嫌だという感情、だけどルルーの頭は働かない。
逃げるとか、戦うとか、あるいは死ぬとか、そんなことさえも頭に浮かばない。そうして考えること自体がおっくうになっていた。もう、オセロと別れてどれほど経ったかも覚えてない。ただ苦痛を感じるだけだった。
……人生最悪の日を更新し続ける毎日は、それでもほんのわずかだけど、好転していた。
それは単純に、あの五人がルルーに飽きたからだった。
あんなに泣き叫ぶのを楽しみにして五人、並んでいたのに、最近では一人二人いるだけで、それも他のことに気を取られていて、明らかにルルーから興味を失っているようだった。
それもあってなのか、最近は背中が痛いのも我慢できる程度で済んでいた。
……彼らは、どんな理由かは知らないけれど、あまりルルーを傷つけることができないらしい。それに、引き渡しとやらもある。彼らの契約相手が何者かは想像もつかないけれど、だけどまだましな可能性も残っている。
鼻息で吹けば消え去るような希望だけど、それでも希望は残っていた。
ガチャリ、と扉が開く。
誰かが入ってきた、と認識し終わる前にルルーは首輪を掴まれ、吊り上げられる。
「筋、肉。筋、肉。筋、肉。筋、肉」
本当なら馬鹿にされるような掛け声と共にルルーはまた同じように部屋から連れ出され、あの部屋へと運ばれる。
……今回は五人全員がそろっていた。
「そっちじゃないですこっちです」
「肉?」
バカラに言われ、チンチロがルルーを置いたのはいつもの拷問用の机ではなくて、最初の日に髪を剃り落した椅子にだった。
腰を下ろすとそのまま左右に控えていた仮面の奴隷がルルーの手足を固定する。
がっちりと拘束され、最早外せるかどうか試す気も失せていた。
「いやぁー長かった長かった」
「時間、かけすぎよ。怯えて薬、弱いの選んだからよ」
「言わないで下さいよ。今回はより堅実に選んだんです」
「まぁいーじゃないの、こうして仕上がったんだから」
「きんーにーく」
「あ? あぁ、まぁ、もう裸想像する気力もないみたいだからどうでもいい」
五人の会話、それは拷問の終わりを示唆していた。
地獄からの解放、それに安堵の表情を浮かべぬよう必死に抑える。旨く行っているのなら、そのまま旨く行かせたい。
「で、いつやるよ? また待たせるか?」
「まさかロトさん。じゃあ何でこうして全員集めたんですか? 拷問は今日から解禁ですよ」
「………………ぇ?」
ルルーは思わぬ言葉に思わず声を出してしまった。
それに、五人は同時に反応した。
混乱する頭をなんとた立て直そうとするルルー、その顔を、パチンコの大きな右の手が掴んだ。
熱く、硬く、ざらついた手の平、太い指に力がこもり、ルルーの小さな頭蓋骨を締め上げる。
叫ぶほどではないが耐えたくはない痛みに、目を見開いたルルーは指と指との間から掴むパチンコと目が合った。
「まさか、あの程度で拷問だった、なんて甘いこと考えてたわけじゃねぇよな?」
……今度は本当に声が出なかった。
代わりに、パチンコが喋る。
「今日までのはただの下準備だ。本番はこれからに決まってんだろ」
「……でも、傷つけないって」
自分でも驚くようなかすれた小さな声に、パチンコの掴む力が強まる。
そしてそのまま、上へと持ち上げられる。
捥げそうな首、引き延ばされる背中、固定された手足、引っ張る椅子、命の危機を感じるほどの痛みに歪むルルーの表情、それを見たパチンコは残忍に笑った。
「あぁそうだ。お前は綺麗なまま差し出す。ただしその綺麗ってのは処女膜含めた外見だけの話だ。それ以外は壊してくれとのお達しだよ。だったら、いくらでもやりようがある。わかりやすいのがここだ」
パチンコの左手が伸びて、ルルーの口をこじ開け、舌を掴んで引っ張り出す。
「味覚ってわかるか? この味を感じる舌に色々できる。ストレートに苦い、まずい、辛い、をなすり付けてもいいし、細かな針で痛めつけてもいい。短絡的な脅しなら味を感じ失くしてやってもいい」
言ってパチンコは右手と左手、同時に放した。
落ちたルルーは衝撃で舌を噛む。激痛に、血の味が広がる。
「想像できるか? おんなじことは他でもできる。目、鼻、耳、そこへ不快と思うものをたっぷり擦り付けて、最後は潰す。そして最後は何も感じられない、閉じた世界、肉の檻に閉じ込められる。これがどんなか、お前に想像できるか?」
……想像、できてしまった。そして彼らなら、そういうことをやれるし、これまでもやって来たんだと、はっきりとわかってしまった。
舌を噛んでなければ叫んでいた。そんなことをしても彼らを喜ばせるだけだと我慢できた。だけど、滲む涙は止められなかった。
そんなルルーの顔をまたパチンコの右手が掴む。そして今度は親指と人差し指で、ルルーの右目をこじ開けた。
「……決めたぜバカラ。俺はこの目をもらう。瞼さえ無事なら、中身は抉っても良いんだろ?」
「もちろんです。元よりそのつもりで義眼も用意してます。ですがお忘れなく」
「わかってる。左右で色を変えるんだろ? オットアイだかオッドアイだか知らないが、そういうヒロインが人気なんだとか、俺には理解できないが、まぁ中身が漏れ出て萎んだ目玉の方が俺の好みだがな」
「じゃあはい、パチンコが目玉で、順番も一番なのでそのままやっちゃいましょう。それで次は……」
やいのやいのと盛り上がる四人を背に、パチンコはルルーを見下ろし、笑った。
「お前だって、散々頭ん中で楽しんだんだろ? 今度は俺が、頭の外で楽しむのが筋ってもんだろが、あ?」
恐怖と絶望、その両方に壊れる前に、ドアが勢いよく開かれた。
飛び込んできた頭陀袋の奴隷の右目にナイフが刺さる。
「あ、がぁ」
「ロトー、やっぱり筋肉衰えてない?」
「そんなことないよ」
応えて改めロトはナイフを構えて投げる。
突き刺さったのは頭陀袋の奴隷の右腿だった。
「ぐぅう」
食いしばる音、なお倒れぬ頭陀袋に更なる追い討ちを狙ってロトが構える。
「報告! 報告です!」
頭陀袋が叫ぶとロトは一瞬躊躇し、構えるナイフを下げて左のつま先に投げつけた。
ザクリと刺さったのに、今度は悲鳴もあげずに報告を続ける。
「対岸に無数の人影! 数不明! ただしその数は明らかに千を超えてるとのことです!」
ピタリ、とロトを含めた五人は動きを止めた。
オセロが、来たんだ。
ルルーは直感的に、そう信じた。
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