闇に吠えるは獣

 この世界には魔獣と呼ばれる生物が存在する。


 細かな定義は様々ながら、共通する認識としては魔法魔術を用いて人為的に生み出された生物ということだ。


 しかしデフォルトランドの住民はもっと単純に『化け物』と呼んでいた。


 ……この獣も、その『化け物』だった。


 獅子に似た大きな体は赤く短い毛に覆われ、一際長く太い尾はサソリの尾、茶色いキチン質で先端に毒針を有している尾だった。そして血のように赤いたてがみに囲われた顔は、獣よりも人間の老人に似ていた。だが、その口は、人よりも大きく、かつ鋭い牙がぎっしりと並んでいるのだった。


 マスティコア、と呼ばれる魔獣だった。


 見た目通りの肉食で、一定の縄張りを持ち、その中に侵入するものを区別なく襲い、喰らう。性格は好戦的で残忍、自身よりも巨大な相手にもひるまず襲い掛かる勇敢さ、獰猛さを持つ一方で、手負いで弱った相手に対して執拗に、かつ死なない程度に手加減して、延々と攻撃し、嬲り殺すという、種として、本能として、生粋のサディストであることが広く知られていた。


 当然、ここら辺に原生する生き物ではない。だからといってどこから来たのか、あるいは連れてこられたのか、それはこのマスティコア自身もあずかり知らないことだった。


 ただ知っていることが一つ、それは人の血肉の味だった。


 人は、そこそこの数がいて、すぐ見つけられて、目も鼻も鈍くて、逃げ足が遅くて、戦っても大して強くなくて、嬲るといい声で泣き叫んで、硬くて食べられない部分も多くが、それを取り除けばとても美味しいごちそうだ。


 そんなようなことを、言葉でなく漠然としたイメージとして、考えていた。


 だがしかし、それを最後に口にしてから長い時がたっていた。


 ……今の獣は空腹だった。


 食べたいのに、あれだけいたのに、食べられない。近頃じゃあ生きてるのどころか死んでるのもいない。


 何かが起きた、とは感じられても、それが何か想像することも、だからといって対策を考えることも、獣の知能には無理だった。


 ただ獣にもできること、それは本能に従い縄張りを広げることだった。


 今は夜、もうすぐ森を抜けて飲めない水のたまり場、海へと出る道の半ば、進む獣の鼻孔はついに求めた臭いを嗅ぎ取った。


 血の匂い、出血、人、ごちそう、美味しい。


 溢れる本能、弾ける欲望、マスティコアの足は当然そちらへと向かった。


 森を抜ければ硬い石が砂利となった海岸、雲が切れて照らされた月の光に浮かび上がるのは、獣の舌が恋焦がれてた人の姿だった。


 ずぶぬれ、体は大き目、出血してる。前足には、硬くて尖った何かはない。


 不味くない、美味しいそうだ。ただ元気がないのが気がかりだった。


 ……試しに、森から抜けて月明りの下へ、獣は体を晒して見せる。


 それに美味しそうな肉は反応して見せた。


 首を傾け、重心をずらしただけだったが、それは確実に獣を認識しての反応、行動だった。


 それでなお逃げ出さないのは、鈍いからか、わかってないからか、どっちにしろ好都合だった。


 マスティコアは人で言うところの邪悪な笑みを浮かべながら、鋭い爪の並ぶ足で一歩一歩、間合いを詰める。


 ……食べるなら、足からだ。


 まず飛び掛かって一撃、倒れたところで足首辺りを噛みついてかみ砕いて食いちぎって、まずは食べる。


 食べながら悲鳴を楽しんで、一段落したら嬲り殺して残りを食べよう。


 そう言葉なく決めると涎が溢れた。


 すでに届く間合い、獣は我慢など知らない。


 さっそく飛び掛かった。


 ごちそうは逃げなかった。


 ▼


 野生生物にしろ魔獣にしろ、あるいは人間にしろ蛮族にしろ、戦うものには必ず己に合った『戦い方』というものがある。


 それは先天的に身についた能力であったり、何者かに付加されたものであったり、手に入れた武具の性能だったり、訓練により昇華された流派だったりする。


 そして野生の世界や、あるいは限りなくそこに近いこのデフォルトランドでの戦いとは、すなわち殺し合い、つまりは命の取り合いだった。


 当然、だからこそ、命がけだった。


 モテるための壁ドン、頭の上の猿、国を喰らって得られたオーラ、長ーーーい槍、ヌンチャクの果ての奥義、どういう仕組みか空を飛んだりもする、それら全てが命がけで、誰も彼もが本気だった。


 ……そして、それはオセロにも、かつては存在した。


 ▼


 …………オセロは、瞼を閉じて、過去を見ていた。


 遥か昔の平和、両親の死、アンドモアでの生活、地獄、それでもなお習ったこと、してきたこと、されたこと、その思考、その思想、やつらがどんなやつらかは知ってるし、どんなことをするかも知っている。そして、変わってないのは、さっき見てきた。


 そしてこれから、あいつらが、あいつに、何をするか、オセロはありありと想像できた。


 瞼を開く。


 目前に迫る獣の爪、だがオセロは現在を見ていた。


 体が、重い。


 濡れて、冷えて、痛み、出血し、飢えて、乾いて、疲れてる。


 指も失くし、得物も失くした。いや、全部じゃない。


 ねばつくように重い腕を動かし、腰に刺さったナイフを引き抜く。


 途端に強まる痛み、流れ出る血、奥歯を噛みしめ、未だ己の血で濡れた刃を見つめた。


 あの日、契約を交わして初めての朝、旅立つ前にもってろって言って、今はこうして戻ってきたナイフは、オセロの手にしっくりと馴染んだ。


 ……オセロは、実は刃物が嫌いだった。


 相手が使うならまだしも、自分が使うのは大っ嫌いだった。


 それは母親を殺した感触を思い出すからだし、技術の大半をアンドモアで習得したからでもある。だが一番の理由は、簡単だからだった。


 刃物で人は、簡単に死ぬ。


 別に首を刎ねたり心臓を刺したりしなくても、ちょっと手足の動脈を引っ掻けば出血死するし、腹のどっかを刺せば大方は助からない。


 だからオセロは得物に鈍器を、ただの鉄の棒を選んでいた。


 それは手加減せず、かつ相手の出方を十二分に観察でき、その上で存分に戦いを楽しむために、選んだ結果だった。


 だが、それもこれまでだ。


 オセロは静かにナイフを振るった。


 ……それは、傍から見れば些細な動作だった。


 ナイフの鍔の近くをまだ残る右手の人差し指と親指とで挟んでつまみ、中指で内側へと弾く。それに手首の捻りと肘の駆動を合わせる。


 動作は三つ、たったそれだけで、獣の前足の先は斬り飛ばされた。


 『指切り』とオセロが名付けたこの奥義を実戦で使うのは、アンドモアを抜けてからは初めてだった。


 その極意は、相手を殺すのに必要最低限のダメージを、可能な限り最小限の動作で実行することにある。


 殺すのに全力で相手を鎧ごと縦切りにする必要はない。ただ手足の動脈をちょっと引っ掻けばそれで殺せる。


 だがそれでも、オセロの言う最低動作、すなわち肘と手首と指とを連動した一動作だけで肉食獣の太い前足を骨ごと切断して見せるレベルに到達できたのは、普段から鉄棒を振るってきた鍛錬の結果だった。


 それを、振るう。


 返り血を避けるため瞼を閉じたその瞳は、闇の中で未来を見ていた。


 残された時間はどれぐらいか、必要な戦力はどうすれば集まるか、どうしたらいいか、どうすればいいか、オセロは計算していた。


 ……まず必要なのは、休息だった。


 腹を満たし、喉を潤し、傷を塞いで、それから、だ。


 瞼を上げ、向かう先は獣だった。


 前足を失い、戦意を失い、恐怖を露に、逃げるため、生き残るために身構えながら威嚇する獣は珍しかった。その見たことのないその姿、珍しい長い尾、それが前に出て、先は毒針で、ここからどう動くのか、以前のオセロだったら好奇心に負けていただろう。


 だが今は、それを踏みつぶし、楽しむことも戦うことも忘れて、ただ殺すために、何もさせないために、蹴りを放った。


 影のように走るつま先が獣の顎を捕らえると、軌道のままに真上へとかち上げた。がら空きの懐、そのまま上げた足で踏み込み、オセロはその下へと身を滑り込ませた。


 同時にナイフを走らせる。


 一閃。


 喉の付け根から見えないが手応えでわかるへその位置まで、切り裂く。


 溢れ出る血と内臓に頭から突っ込むと命を奪うよりも先に、体が求めるがまま、臓腑を啜り、噛みつき、食いちぎり、飲み込む。


 ただ一心不乱に、失ったものを取り戻すために、獣の腹を貪った。


 …………そうして、血が冷えて固まり、いつの間にか獣がこと切れ、そしてもう呑み込めないまでに存分に貪りつくして、ようやくオセロは頭を上げた。


 その目が見るのは、現実だった。


 ……今後一切を無駄にはできない。


 時間が、そのままルルーを傷つける。


 過去、現在、未来、そして現実、全てをもってオセロは、はるか遠くに浮かぶ月を見上げた。


 …………オセロは、自分自身に、吠えることすら許さなかった。

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