世界が違えば主人公になっていた筈の男

 壁ドン、というものがある。


 本来は単純に、壁に手のひらを打ち付けて音をならす行為のことだったが、転じて、壁に追い詰めた相手の顔のすぐ横を掠めて壁を殴るという、脅迫ないし威嚇行為を指すようになった。


 しかし、この暴力的で否定的な印象しか受けないであろう壁ドンを、愛情表現の一つとして受け取る女性の存在が、国際的な心理学の学会に発表された。


 推論では、壁ドンによって発生する恐怖や緊張を、恋愛による胸のトキメキと勘違いしている、あるいはそれ以上の暴力行為を止めてもらうために屈服する一種の防衛本能だ、などと言われていた。


 それをラブシが知ったのは今から二年以上前だった。


 当時、丸々と太って顔も横に長かった彼は、学も力も金もユーモアもないが為に女性にモテなかった。


 それでもモテたかったラブシにとって壁ドンは、まさに天恵だった。


 知ってからというもの、ラブシはひたすら壁ドンを極めんと練習を繰り返した。


 ただモテたい一心で定職にも就かず、騒音の苦情も無視し、両親に迷惑をかけながらひたすら壁にドンする毎日だった。


 そして月日は流れ、タダ飯食らいについにキレた両親に家を追い出されたころにようやく、ラブシの異形は完成していた。


 贅肉は落ち、髪は無くなり、肩は左を上に傾き、異様に発達した左腕には血管が浮かんで、常に湿るようになった。手のひらは石のように硬くなり、指は埋没して曲がらなくなった。


 ただ壁ドンに特化した自分の姿に、ラブシは涙して喜んだ。


 これでモテる。


 そしてついに、妄想でない女性に対して壁ドンを行う日がやって来た。


 相手は近所のカフェのアルバイト店員だった。


 完全な一目惚れで、向こうはラブシの事を知らないが、その分は壁ドンで十二分に埋められるに違いないとラブシは確信していた。


 ラブシはカフェが閉まるのを待ち、出てきた所に颯爽と現れ、すかさず自慢の壁ドンを繰り出した。


 が、失敗した。


 事故だった。


 初めてでの緊張に、動く相手への対処、重ねてラブシの低い背丈が不幸にも、壁ドンを壁ではなく、彼女の咽にドンしてしまったのだ。


 気管を潰され、苦しみ悶える彼女に、ウブなラブシは逃げることしか出来なかった。


 ……それ以後、ラブシが何度壁ドンに挑戦しても、壁ではなく相手の咽か胸を潰すだけとなった。


 当然モテるわけもなく、ただ一括りに、新手の通り魔として警察に追われる身となった。


 そうして転々として、デフォルトランドに逃げて来たのは今日の朝だった。


 宛もなく逃げ込み、途方にくれて半日浪費してたところへ、更なる天恵がおりた。


 レストランから出てきた美少女を見つけたのだ。


 それは一目惚れであり、同時にロリコンへの覚醒でもあった。


 全ての絶望の中に見出した光、それを手にするには壁ドンしかなかった。


 確信、覚悟、だが問題が一つ、障害として男の存在があった。


 モテたいが別に度胸があるわけではないラブシは、ガラの悪い男の影にびびっていた。戦う、などと頭になく、かといって諦めることもできず、その後ろをついていった。


 そうしていると、二人が洋服屋に入るのが見えた。


 足音を殺してそっと店内を覗くと、男だけが見えた。


 美少女を待っているのか落ちつきなく歩き回り、それにも飽きたのか床に座って持ち込んでた棒を玩びだした。


 暫くしてやっと美少女の顔が見れた。愛らしい姿、だけど男と一言二言何かを話して、また隠れてしまった。


 何を話したのかはここからではわからない。ただ、男をそうとう怒らせたらしい。何せ、ナイフを引き抜き立ち上がったのだ。


 美少女が、俺の嫁が危ない。


 頭で思っても、ラブシの足は動かなかった。


 こうしてる間も嫁がピンチなのに、動けない。焦りから汗だくになっていくラブシ、その目の前に、あの男が現れた。


 後ろには店主らしき男がおり、なにやら怒鳴りつけ、睨みつけている。どうやら追い出されたらしい。


 ……そして手のナイフに返り血はなかった。


 ラブシはほっとするのと同時に、勇気がない自分を恥じた。


 壁ドンとは力の誇示である。つまり見せる力がなくてはモテないのだ。


 技も体も完成していた。あとは心のみ、だ。


 皮肉にも、ラブシは今まで襲った女性を思い出すことで、自分には力があると鼓舞した。全てはこの瞬間の為の、苦い試練だったのだ。


 勇気が涌き出て、ついに男を殺そうと、美少女を守ろうと踏み出した時に、男と目があった。


 そいつは、左だけ髭がなかった。



 店の中で髭を剃るなと追い出されたオセロは、殺気を感じていた。覗き見している存在には前々から気付いてはいたが、やっとやる気を出したらしい。


 いい暇潰しだ。


 オセロはナイフをしまい、男の方へと足を向けた。


 男は、だいぶんと変な体型をしていた。左腕だけ太くてがに股で、確かあんな蟹がいたな、とオセロは思った。


 その蟹は、顔の緊張具合から素人に見える。鎧も武器もなく、構えもなってない。


 それでも、殺気だけは本物だ。


 それで十分だ。


 どう来る?


 オセロが真正面に立っても、蟹は動かなかった。ただ低い背丈から睨み上げるだけで、言葉もない。防御でなく、竦んでいるようにも見える。


 ま、フェイントかければ嫌でも動くだろう。


 そう考え、オセロが鉄棒を上段に構えて見せると、店からルルーが飛び出してきた。


 思わず二人がそっちを見ると、向こうも気が付いて、こっちに駆けてきた。あとに続いて、今度は赤い男が現れた。


 そっちは海老が群がっていた。



 ラブシは対峙する男に完全に呑まれていた。睨み返すのがやっとで、今にも泣き出しそうだった。


 踏み込む勇気、愛の力、ご都合主義的解決願って、異世界転生神に祈った。


 それが通じたのか、唐突に嫁が現れた。


 その愛くるしくも、焦りと恐怖を彩る美貌に、ラブシは運命を確信した。更にこちらに駆けてくるのは両思いだからだ。ならもう他になにも要らない。


 そもそもラブシは、あらゆる劣等感から逃げるために壁ドンを極めた。


 そんなラブシが、目の前の怖い男から逃げ出すのは自然なことで、その先に壁ドンがあるのは当然だった。


 ただ真っ直ぐ嫁の元へ。


 名前も知らない運命の美しき嫁は驚いた顔をして急停止した。驚かれても無理はない。だがそれは、些細な問題だ。


 そう、全ては壁ドンで解決できる。


 運命の愛に眩んだラブシには嫁の姿しかみえてない。


 ラブシは嫁を見つめながら、壁ドンを繰り出した。初めて背の高さが釣り合っている。左手は嫁の右頬を掠め、ちゃんと赤い壁に向かった。


 人生最高の壁ドンが放たれた。



 一方、海老男は突如向かってきた異形の男に驚いた。


 が、シンプルな思考は、すぐにそいつを殴り殺すと決めた。


 至福の笑みの異形にこん棒を降り下ろすと、相手は防御もせずに殴られ、顔が潰れた。


 しかし左手は、壁ドンは止まらなかった。


 まるで流れるように自然に、左の掌打が、防ぐ間も無く、海老男の胸を陥没させ、吹っ飛ばした。

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