運河で溺れないためにはどうしたら良いか?

阿井上夫

前編

 作家の筒井康隆さんは、同志社大学文学部在学中に心理学を専攻しました。

 そして、彼は後にそのことを作品の中で、

「心理学なんて勉強しなければよかった。人の心を理解する役に立たない」

 と書きましたが、これは実際に「学問としての心理学」を学んだことのある人が、多かれ少なかれ感じるところでもあります。

 私も会社員になってから、自己紹介で心理学を学んだことがあると言うと、

「じゃあ、他の人の考えていることが分かるのですか」

 と、よく言われてしまうのですが、そのたびに私はこう答えるようにしています。

「心理学を勉強すると、他の人が何を考えているか正確には分からないという点が、はっきり分かります」


 誤解されやすいのですが、心理学は「人間の心理が手に取るようにわかること」を目的としておりません。

 だいたい七割ぐらいの確率で該当すると思われることを、一所懸命に勉強するのです。

 残り三割程度は、必ず誤差になります。

 ですから、電車の中で「余興としての心理学」を扱った本によくある、

「こうすれば相手の心理を利用できる」

 という宣伝文句を見ると、眉に自動的に唾が付くようになりました。

 あるいは、このような会社の研修でコンサルタントの先生が、

「心理学にはこのような理論がありまして」

 と言った瞬間に、眉に自動的に唾が付くようにもなりました。

 人間行動に関する理論は山ほどあります。

 その中から自分の目的にあった適当なものを探し出してくるのは、さほど難しい話ではありません。

 しかも、コンサルタントが言うところの「心理学理論」は、アメリカ式の行動主義の流れを汲むものが多いので、誰がどのような経緯でそれを言ったのかを知っておかないと、正しく理解できないことが多々あります。

 心理学を学んだ立場からすると、本当は「その理論の研究過程で統計処理にどのような手法が使われたのか」という点まで気になるのですが、その点をちゃんと説明してくれるコンサルタントには、いまのところ出会ったことがありません。

 ですから、私自身は基本的に仕事や日常生活の中で心理学用語を使用することを避けているのですが、唯一、使用している言葉があります。

 それは「キャナリゼーション」あるいは「キャナライゼーション」という言葉です。

 英語で「水路あるいは運河」を意味する「キャナル」という英語から派生したものですが、その説明を始める前に、ここにいる皆さんに一つ質問があります。


 引き籠りでもない限り、皆さんには通勤や通学で使っている「いつもの道」というのがあると思います。

 今の生活で思いつかない方は昔のことでも結構です。

 高校生の頃はどうだったか考えて、お答えください。

 それでも「いつもの道」に覚えがない方はいらっしゃいますか?

 本当に学校に行ってましたか?

 貴方はただの不良学生か自由人ですから、今日の話は必要ないかもしれません。

 さて、皆さんはその「いつもの道」をどのぐらいの頻度で変更している、あるいはしていたでしょうか。


 ・途中、他の用事があって変更することは除きます。飲み屋に立ち寄った場合も除いてください。

 ・工事で通行止めになったなどの、外部要因でやむをえず変更しなければならないケースも除いてください。

 ・それまで継続して使っていた経路を、特定の理由もなく思いついたように変更することが、どのぐらいありますかという質問です。


 いかがでしょう?


 結構頻繁に変えている方、そうですね――週一回は必ずという方はいらっしゃいますか?

 明らかに浮気性ですね。結婚されている方は注意して下さい。


 それでは、月一回ぐらいはやっているかもしれない、という方はいらっしゃいますか?

 だいたい会社をサボりたくなる頻度と同じですね。よくわかります。


 続いて年に一回ぐらいはあるかもしれないという方、いかがでしょう?

 人生を悲観した時によく見られる行動です。いろいろな意味で注意してください。


 では、「まったく変えた覚えはない。いつも同じ道しか使っていない」という方はいらっしゃいますか?

 今日はそんな方のためにお話ししたいと思います。


 *


「キャナリゼーション」あるいは「キャナライゼーション」――これは日本語では、「水路づけ」と呼ばれる心理学用語です。

 簡単に説明すると「脳は同じことを繰り返す傾向にある」という意味で、由来は「水が、同じところを何度も流れていくと、その流れの底が次第に深く掘られて、ますます同じところを流れるようになる」現象です。

「キャナリゼーション」という言葉に、一番最初に心理学的な意味を付与したのは、フランスの心理学者で精神医学者でもあった、ピエール・ジャネです。(Pierre Janet、1859~1947)

 ピエール・ジャネは、フランスの病院でヒステリーなどの臨床研究を行ない、精神病理学を確立したことで有名です。

 また、「トラウマ」という言葉を作ったことでも有名ですが、特に叔父さんの哲学者ポール・ジャネの言葉である「ジャネの法則」を世に広めたことでも有名です。

 この「ジャネの法則」という名前は全然知らなくても、皆さんはその内容をよく御存じのはずです。

 それは、

「人が感じる時間の長さは、自らの年齢に反比例する」

 もう少し平たく言い直すと、

「年を取ると、時間が早く進むように感じる」

 というもので、ピエールが一九二八年に書いた『記憶の進化と時間観念』の中で、ポール・ジャネの説として紹介したことで有名になりました。


 さて、彼はある時こう考えました。


 まず、「ある欲求を満たすための可能性や手段」が複数あり、そのいずれもが選択可能であるとします。

 具体的には、貴方が有楽町駅前を歩いていてお腹が空いたとします。

 周囲は飲食店で一杯です。

 そして、その時たまたま選択したひとつの手段あるいは行動が、欲求を満たしたとします。

 具体的には、たまたま入ったお店の料理が、とても自分の好みに合っていたとします。

 すると、それ以降は「欲求とその充足手段あるいは行動」が連結されて、固定化されるようになります。

 具体的には「有楽町に行ったら何故かいつもあの店に行く」という行動です。


 これは「一度水路ができると、しだいに深い確かな流れとなる」ことに似ています。

 つまり、最初の行動における合理性や妥当性はとりあえず関係なく、最初に何が選択されたかという点と、それがどれだけ反復されたかという点が、以降の行動に重要な影響を与えることになるのです。


( 後編に続く )

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