理想郷探検隊
@ankokuyami
第1話 怠惰なタイガー
「はぁ」
低い声の混じったため息が漏れ、6畳の部屋にネガティブな風が満ちる。
なぜため息が漏れてしまうのかというと、いよいよ、僕の大学生活の半分が過ぎてしまったからだ。
僕は文系学部に所属する大学生であるので、半分ということはつまり2年である。こんなにも2年という時間があっという間に過ぎるものだとは思っていなかったが、現実に僕はもう大学3年生となる春を迎えていた。
仮に僕が留年や休学でもして学生である期間が延びる可能性も0ではないので、2年がきっちり半分であると断定することはできないが、そんなことになれば最悪の場合実家から勘当されてしまって路頭に迷う羽目になってもおかしくはないので、僕は4年で卒業するつもりなのである。よって、半分だと断定させてもらおう。一応。
さて、ここまでの僕の大学生活を一言で言い表すならばただ一つ、『空虚』だ。
あんなに、勉強に力と時間を費やした受験生時代から跳ね返ってしまったのか、ベルトコンベアにでも乗せられたかのように時間だけがじわじわと進んでいった。
大学では友人もロクに出来ず、彼女狙いで入った、代表さえまともにラケットを握ったことがないというテニスサークル(僕はペニスサークルと呼んでいる)も部員とノリが全く合わずにあっさり辞めてしまった。それからはどこに入ることもないままだ。
この平和な国の、それなりに裕福な家庭で生まれ育ったおかげで、実家からの仕送りに依存しきった生活を送ってきたのでアルバイトも殆どやったことはない。なので、人間関係の広げようもなかった。
きっと、人付き合いがうまい人間であるならば、特別な理由がなくとも、アメーバがじわりじわりと獲物を侵食していくようにその交友関係を広げていくのかもしれないが、アメーバ的な彼らとは違って骨と肉で出来た凝り固まった人間である僕に、その動きを模倣することはどうにも無理があった。
学科の同級生と会えば会釈するくらいはするが、わざわざ遊んだりするような友達はいない。もちろん彼女なんてものも出来たことはない。最後に女性とプライベートで会話したのもいつの話だろうか、全く覚えていない。
大学から徒歩5分のアパートに住んでいるおかげで講義を休んだことがないからだろう、2カ月前の後期テスト前に(おそらく)同級生のとある女子からレジュメを見せてほしいと頼まれ、そこでいくらかやり取りはしたが、あれを会話に含めてしまうのは僕の小さなプライドが許してくれない。
その時は、講義中に私語と惰眠を延々と繰り返していた彼女に対し、なんて調子の良いことを言うんだと思いこそしたが、断る勇気などなく、僕の努力の結晶たるノートとレジュメをまんまと手渡してしまった。
暇は十二分にあるし、贅沢さえしなければ金にも困ることはない。そんな、まともな社会人が見ればきっとぶん殴りたくなるであろう大学生活を、僕としては楽しんでいたつもりだったが、深層心理というものは自分でも易々と騙せるものではないようで、夜になると無性に寂しさを感じることがあった。
ゲーム、パソコン、本。自分の好きなものは周りにたくさん置いてあるのに、それでもなお埋まらない心の隙間というのはどうすればいいのか、自分にはもう分からなかった。隙間の深さも幅も分からない。
きっとそれは無機物には埋められない、ということなのかもしれないが、有機物に「隙間を埋めてくれ」と助けを求めることも出来ないでいた。
僕の自堕落な現状を見かねたお父上様から「社会経験として1度はアルバイトをしろ」との金言を頂いたので、ネットで楽なバイトをリサーチして見つけた、交通量調査のアルバイトを一度だけやってみた。
あれは昨年の秋のことで、この地域の秋は随分過ごしやすい季節だし、座っているだけで済むのなら大分楽なものだろうと思い、休憩込みで24時間やることにしたのだが、実際にやってみるとただ座っているだけというのも長時間続けるとなかなか辛いものだという事と、家の前を通る国道をどんな車が通っているかということくらいしか勉強にはならなかった。
その結果に得た1万円の給料も、労働の対価に得る金銭の価値の重さというものを感じるには足らず、何の考えもなしに遊興費としてあっという間に使い果たしてしまった。
僕みたいな大学生活を送ってきた人間は、大体「学生の本分は勉強である」とのたまうのだが、そういった人間が勉強にウェイトを置いていた試しはそうそうない。そもそもウェイトをかける足が得体の知れぬ底なし沼へとハマってしまっている。
大体、過去問が何よりも肝心であるこの中堅大学では、遊びながらもコミュニケーション能力を用いて過去問を手に入れた人間が笑うその裏で、過去問を手に入れることの出来ない僕らみたいな日陰者は成績でさえ泣きを見るのだ。ああ、大学受験とは何だったのだろう。
事実、先述の、僕が同級生と思わしき女子学生に講義のノートを渡した試験においても、僕の成績は一歩足らず不可であった。それに関しては僕の努力不足であったと言うほかないが、彼女は僕のノートのみならずどこからか過去問も手に入れてきっと有意義な勉強が出来たのだろう。彼女の成績など知る由もないが。
高校までは毎日朝から夕方まで勉強してそれとなく脳に染み込んだ知識の蓄えで戦えていたのだが、今となっては1日の殆どを意味もなくインターネットに費やしているような僕に、もう憎き奴らと戦う力はなかった。
こんちくしょうと奮起して猛勉強するなんて気力もとっくの昔に削ぎ落とされており、インターネット閲覧機能付きうんこおしっこ精子製造機と化した僕はただただ毎日を怠惰に過ごしていた。
そんな、年度が変わり、3年生に進級したばかりのある春の日、ほとんど現実逃避的に地元の友達と連絡を取ろうと思い、突発的にSNSアプリをダウンロードした。
僕らの中で地元を離れたのは僕だけだったので、彼らと直接顔を合わせる機会はあまり無く、ごくまれに電話やメールで連絡を取るのみだった。持つ携帯電話がスマートフォンに変わったのが大学生になってからなので、こういったアプリで連絡を取る機会がこれまでなかったのだ。
アプリを開いてみると、見知った名前が羅列されていた。たとえSNSだとしても本当の友達とだけ友達登録をするべきだと思い、地元の友人8人に申請を送ると、みんなよっぽどこのアプリに入れ込んでいるようで、あっという間に全員分の申請が通った。
申請を拒否されてしまったらどうしようと悩む時間が無くなったのでそれは嬉しかったのだが、それほど流行のアプリに今まで触れていなかったんだなと思うと、これまで僕は取り残されていたのかと少しだけ悔しい気持ちになった。
中学の頃、他のクラスメイトが内輪でホームページを作っていたのを外から眺めながら、こっそり閲覧していたのと同じ気分だ。
友人たちは自分の生活を惜しげもなくアップしており、恵まれない現状の僕からすれば、皆それぞれ理想的な大学生活を送っているように見えた。
彼女と観光地に行くとか、サークルの合宿だとか、バイト先の友人と酒を飲むとか。きっと今年の夏にはみんなこぞってインターンシップに行くに違いない。
もちろんそれが必ず人間の幸福であるとは言わないが、大学生にとっての幸福とはその辺りに固まっているのだ。
本当にあの頃僕と彼らは友人だったのだろうか、と自分の青春時代を疑ってしまうくらいに生活の質の差は広がっていた。きっと僕が意味もなく、快楽の結果に出てしまった単なる生ごみでしかない精子を垂れ流している間に、彼らは正当な目的で人間の生殖機能の一つである精子を出すのだろう。
別に僕は人間に備わった生殖本能に背くことによって快感を覚えているわけではない。僕は決して、わざと彼らと違う生活を送っているのではないからだ。
あっちはあっちで人間関係とか性病とか彼女のヒステリーとか、別の悩みはそれなりにあるのだろうが、僕からすると彼らはまるで理想郷の住人に思えた。ほとんど虚無のような僕の生活に比べてしまえば、彼らの、快楽の果てに待つ悩みなど微々たるものだという思い込みがあった。
友人たちの現状を知った今、大人しくこれまでと同じ生活を続ける気にはならなかった。
というよりも、大学生活が半分(おそらく)終わってしまって焦りを感じていたのもあった。遅れてしまったが、今度は自分が理想郷へ乗り込む番だ。自分を積極的に変えるしかない。まだ大学生活は半分(おそらく)しか終わっていない。そうだ、ポジティブに考えることが必要なのだ。
「俺は今日から理想郷を目指す!理想郷探検隊の結成だ!」
右手を掲げて高らかに宣言をしたところ、両隣の部屋から壁を叩く音が聞こえた。怪異現象なんかじゃない。家賃4万円のアパートは、それほど壁が厚くないからだろう。
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