おばあちゃんの味

@ns_ky_20151225

おばあちゃんの味

 祖母の料理の味は忘れられない。もう二度と味わえないのが残念でならないが、その味を覚えてさえいれば、祖母が本当に死んでしまうことはないのだと、両親と共に祖母を見送りながら考えた。


 小学生の頃、両親が共働きだったので、学校帰りには母方の祖母のところに寄るのが日常だった。友達と遊ぼうにも、外で遊ぶならいいのだが、誰かの家に行くのには遠慮があった。人の家に招いてもらっておきながら、自宅は両親がいないからだめだとは言えない。今日は誰それの家でゲームしよう、というような会話が聞こえてきたら、僕はそっと集団から抜けて帰っていた。


 たいていは夕方に父か母がむかえに来るのだが、仕事の都合などで両親ともに遅くなることがあると、祖母が夕食を作ってくれた。それが僕には楽しみだった。

 祖母の汁物は旬の野菜と鶏肉の具だくさんで、温かくていい香りがした。決して母の料理がまずかったのではないが、今考えてみると、祖母は子供向けの味付けはしていなかったように思う。その頃はわからなかったが、料理酒なども入っていただろう。

 汁が良い味をしていたのと同じくらい、他の料理も素晴らしかった。ピーマンや人参、魚が苦手でないのは祖母のおかげだ。僕は子供の食欲を存分に満たし、祖母はたくさん食べる僕をほめてくれた。


 母は時々祖母の味付けを真似しようとしては失敗していた。祖母は調理中に母がそばにいるのは拒まなかったが、味付けについては直接には教えなかったらしい。


「結局、盗めなかった」


 祖母を見送った母がそうつぶやいたのを覚えている。


 急だった。中学の卒業式には出席してくれたのに、高校の入学式は母の手の中の写真だった。

 親しい人を亡くすと胸に穴が開いたようになると言うが、僕の場合は舌だった。子供の頃だったら、なにも考えずに母に祖母の料理をおねだりしていただろう。でも仏壇の前で寂しそうにしている母にそんな事は言えなかった。

 もう、おばあちゃんの味は舌の記憶だけなんだなとあきらめていた。


「これ、おいしい」

 だから、高二の春、彼女が作ってくれた玉子焼きが、おばあちゃんの出汁の味だった時、おいしい、という言葉では表せないほど驚いた。

 昼休み、弁当のおかずを交換して食べていたのだが、彼女が作ったおかずは全部おばあちゃんの味だった。玉子焼き、筑前煮、鰯のつくね。

「そう。よかった」

 彼女は落ち着いた口調で返事した。さも、それが当然といった具合で、ほめられてもにこりともしなかった。

 その時は祖母の話はしなかった。亡くなって一年程になるので、さすがに自分の味の記憶がかすれてきたんじゃないかと思ったからだ。付き合いだしたばかりの彼女の料理に祖母の味を感じるなんて、もしかしたら僕の中で祖母が薄れて消えかけている兆候なのかと不安になった。


 でも、翌日のおかずもおばあちゃんの味だった。豆腐ハンバーグに祖母の味とは妙だが、まぎれもなくそうだった。


 僕は迷った。彼女に祖母の話をするべきだろうか。そして、なぜそんな味付けができるのか聞くべきだろうか。彼女からすれば唐突だし、話し方をまちがえたら不愉快にさせてしまうかもしれない。

 それで、話ができたのは一ヶ月も後だった。


「じゃ、あたしの料理、お祖母様の味なのね」

 彼女はさほど驚いた様子ではなかった。むしろその口調に僕が驚かされた。なんとなく、それで当然といった感じだったからだ。

「あたし、古本屋で見つけた料理本使ってるの。もしかしたらお祖母様もそうだったんじゃない?」

 後から冷静になると恥ずかしくなったのだが、その時の僕は食いつくようにお願いし、書名を教えてもらった。


 ネットで探すと、案外早く見つかった。特に貴重な本ではなく、販売時より安くなっていたくらいだった。

 それが届いたのは三日後だった。

 でも、違っていた。家族の留守中にいくつか試してみたのだが、まったく異なる味だった。似たような味で仕上がったのなら、自分の腕のせいにも出来ただろうが、これはどう変えてもおばあちゃんの味にはならないと予想できる味だった。


 しかし、彼女のおかずはおばあちゃんの味だった。いつの間にか平日はそれが楽しみになり、休日のデートでも弁当を作ってきてもらえるようなところに行きたがって彼女を辟易させた。


「たまには映画とか見て喫茶店でゆっくりっていうのはだめなの?」


 彼女ははじめの頃は苦笑いしていたが、最近ははっきり不満を口にするようになった。自分の料理が気に入ってくれているのなら嬉しいが、お祖母様を投影しているだけなのはなんとなく嫌だ、と。

 その気持ちは分かるだけに僕は困った。しばらくは我慢して彼女に合わせる事にした。


 だから、夕食がおばあちゃんの味だった時、嬉しいなんてものじゃなかった。母にそう言うと、そう? と戸惑いながら喜んでいた。父は何度も味わい直しながら不思議そうにしている。これ、おいしいけど、義母さんの味かって言われるとな……。

 なんでもいい。僕の舌の記憶はこれがおばあちゃんの味だと大きくうなずいている。


 食事に満足することがこれほどいい影響をもたらすとは思ってもいなかった。毎日に張りが出来た。


 ただ、ひとつだけおかしな点があった。祖母に作ってもらった覚えのない料理にもおばあちゃんが感じられたことだ。

 祖母の家でドリアなんて食べた記憶はないが、鼻に抜けていく香りは祖母だった。

 そう言えば、彼女のおかずもそうだ。冷凍食品を少しアレンジしたものまで祖母の味付けだった。

 なにか変だな。僕は満足しつつも首をひねり続けていた。


 そんなある日、部屋の隅の物陰におばあちゃんの顔を見て息が止まった。一瞬だったがまちがえようがない。その時はなにかの錯覚だろうと判断した。

 しかし、その日から、たんすの影などちょっと暗くなったところを目の隅でちらっと見るようにすると、一瞬おばあちゃんを見るようになった。

 何度も見ていると表情がわかった。穏やかに微笑んでいる。おばあちゃんの料理を夢中で食べている僕を見ている顔だ。

 この事は誰にも言わなかった。信じてくれないだろうし、よけいな心配や悲しみを広げるだけだ。

 霊だとかなんだとかは信じていない。仮にそうだったとしても、また、自分がおかしくなったのだとしても害はないのだから放置しておこう。そういうつもりだった。

 おばあちゃんの味の料理を毎日食べ、見たい時に懐かしいおばあちゃんの笑顔を見られる。なにが悪いのだろう。このままでいい。


 けれど、満足感は長くは続かなかった。放課後、寄り道して新発売の菓子を買食いしたら、おばあちゃんの味だった。チョコをかけたポテトチップがなぜそんな味なのか。チョコの味や香り、ポテトチップの味はあるのだが、その奥に子供の頃食べたあの味が漂っていた。


 家に帰って水道水を蛇口から直接飲んでみた。水は水だが、やはりおばあちゃんを連想させた。

 僕はおかしくなったのだろうか。精神の変化が味覚に影響を及ぼしているのか。僕は誰にも打ち明けられずに悩んだまま一週間が過ぎた。


「そうじゃない。お前はおかしくなんかないよ」

もう何度目になるだろうか。自分の味覚がおかしくなった原因について、風呂に入って考えていると、頭の中に声が聞こえてきた。ちょうど頭を洗って目を閉じているときだった。

「あ、そのまま目を閉じておいで。開くと話しかけられなくなる。返事は声に出さなくていい。思うだけで」

『ばあちゃん?』

「そうだよ。やっと話できるようになった」

『どういうこと?』


 いよいよ僕はおかしくなってしまった。それでも、自分の変化を探るつもりで、しばらく会話してみることにした。どう転んでもいい。なにがどうなっているのか知りたい。泡を落とし、湯船につかる。


 頭の中のおばあちゃんは事情を話してくれた。死んだ後、あの世から孫を見ていた事。あまりに急だったのでお別れもできなかった。腹いっぱい食べる姿をもう一度見たい。そう思い続けていたら、こっちへ戻ってこれたが、もう宿る体はない。血縁のある者なら入れるのだが、もう完全な大人になっていた母には入れず、孫の僕に入って落ち着いたのだと言う。


『いつ?』

「初七日の前にはお前の中に入った」

『そんなに早くからいたの』

「そうだよ、でも、なにもできなかった。身体の無い霊って無力なもんだね。それでもがんばったさ。お前にあたしの存在をわからせようとして、なにが一番いいか考えて、まずは舌からって思ったのさ」

『そうか。でも一年もかかったんだね』

「うん、大変だった。それに、はじめの頃は味を再現するのがうまく行かなくて。お前が彼女の料理を食べている時が一番簡単にできた。お前の心の緊張してる部分とゆったりした部分の割合がちょうどよかったから」

『それから、母の料理でもできるようになったんだ』

「そう。今のお前はなにを飲んでも食べてもあたしの味を感じられるよ」


 僕は目を開きかけ、ぎゅっと閉じた。まぶたの裏で祖母が正座している。


『いや、それはさすがに困るんだけど。おばあちゃんの味をまた楽しめるのは嬉しいんだけど、飲み食いすべてっていうのは……』

「だめかい?」

 祖母は悲しそうに言った。

『どんな料理でもおばあちゃんの味で上書きするのは都合が悪いこともあるから』

 僕はちょっと考えて提案した。

『じゃ、おばあちゃんの味の作り方を教えてよ。それでちゃんと料理したら、味覚の操作なんてされなくてもおばあちゃんの味が楽しめるようになるから』

「けど、そんなことしたらあたしは用済みだよ。お前の中にいる理由がなくなる。それに口では説明できないんだよ。いつの間にかあんな味付けになってた」

 僕は嫌な感じがした。

『おばあちゃん、ずっと僕の中にいたいの?』

 まぶたの裏でうなずく。

『それは良くないことなんじゃないかな。死んだ人が行くべきところってあるんじゃない? 僕はそういうの詳しくないけど』

「あたしはここにいたい。孫がおいしいおいしいって、あたしの味を楽しんでるを見るのだけが楽しみだった。生きてるときも、今も」

『でも、いつも同じ味は嫌だな。水がおばあちゃんの味だよ』

「それは悪いと思う。まだそこらへんがうまく行かなくて、やりすぎるの」

『それに、いつまでも一緒にはいられない。僕の身体は僕だけのものだし』

「迷惑かい?」

『おばあちゃんは大好きだけど、ずっとは』

「大好きって言ってくれたね」


 三日後、おばあちゃんを感じられなくなった。僕の周囲からおばあちゃんの姿と味は消えた。母の料理も、彼女のおかずも本来の味にもどった。


 味付けの秘密は教えてくれなかった。今では元々そんなものは無かったんじゃないかと考えている。調理法や調味料の分量で再現できるなら、母がとっくに再現しているだろう。

 おばあちゃんは人の味覚を操作する超能力みたいなものを持っていたんじゃないだろうか。だって、仮に今僕が霊になって人の中に入ったからといって、その人の味覚を操作できるものだろうか。生きていた時に無かった能力が、霊になったら持てるというのはなんだかおかしい。

 おばあちゃん本人が気づいていたかどうかはわからない。ただおいしいものを作って喜んでもらいたいという一心からきた能力なのかもしれない。


 もしかしたら、と思う。母や僕にその能力が受け継がれていないだろうか。そして、大切な人に、心の底からおいしいものを作って食べてほしいと思った時に、その能力が現れないだろうか。


 母にも僕にもまだそんな瞬間は訪れない。しかし、祖母には訪れた。少なくともその対象は僕と両親だった。


 夜、僕はひとりで、祖母のためにもう一度泣いた。自分の事をそれほどまでに大切に思ってくれただろう人のために。


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