第8章 涙雨
◆ 第8章 涙雨
[12月15日 木曜日]
●
受験勉強に専念する、と言ってあの人が〝交換日記〟を書かなくなってからも、わたしはときどき『あまやどり』に足を運んでいた。
〝交換日記〟を溜め込んだ言葉の捌け口にすると同時に、いつかあの人が戻ってくるかもしれない、というわずかな期待をしていた。
あの人はわたしの唯一の理解者だと思っていた。少し大げさに言ってしまえば、生きる希望だった。
この日〝交換日記〟を開くと、わたしが最後に書き込んだページから何枚かめくったところに、あの人の字が書かれていた。
昨日の日付。2カ月ぶりだった。
けれど、戻ってきたんだ、と喜んだのも束の間、わたしはそこに書かれていた言葉を読んで、呆然とした。
──一縷の望みが、手からするりと抜けていった。
希望なんてない。諦めるしかない。
唇を噛んだ。 やっぱりそうなのだ。
考えたくなかったけれど、薄々予想はしていたことだった。だからこのあとどうするかも、私の中で考えてある。
奇しくも今日は、それを実行するにはぴったりな空だった。
まだ正午を過ぎたくらいなのに、外は薄暗かった。冬の風が顔に吹きつけてくる。
羽織ってきた白いポンチョの下で、雨を感じる。
わたしは『あまやどり』を出て、東へ向かった。
坂道を下って、川の土手へ。
自然にできたこの川を、どこかの人間が境界線って言ったんだよね。境界線は好きだよ。ここに人間が生きていたんだなって思う。
境界線を作るも越えるも、生きてこそだ。
川の水がいつもより増えている気がした。
たしか、今夜は土砂降りのおそれがあると天気予報で言っていた。もう少し雨が強くなったら、ここに近づいてはいけません、みたいな注意報が出されるのかな。そうなる前に行ってしまえ。
土手を歩いて、橋に足を踏み入れる。この橋には、たしか篠月橋という名前がついていた。
わたしは真ん中あたりまで進んだ。
腰を下ろして、欄干にもたれかかる。
冷たい冬の空気の匂い。錆びた鉄の匂い。
そして、雨の匂い。
小雨の埃っぽい匂いじゃなくて、いろんなものが流れ込んでくるような、冷たい水の匂い。
私を打つ水滴の音が大きくなってきた。
ざあざあと降る雨の中、わたしは一人、膝を抱えている。
この時期だと、雨はとても冷たい。長いこと雨に降られていると、ポンチョも意味をなさなくなってくる。服の内側まで水が染み込んでいるみたいで、容赦なく体温を奪ってくる。
手足の感覚はとっくになくなっていた。全身が震えている。自分では確認できないけれど、たぶん顔は真っ青で、唇なんかは紫なんじゃないかな。
けれど気分は軽かった。みんながこの雨を見て憂鬱な気分になっていると思うと、心が安らいだ。
ざまあみろ。
わたしには生きる理由なんてないけれど、かといって死ぬ勇気もなかったから、どうせならなるべく楽に、苦しまないで死にたかった。
好きなものに囲まれて死ねれば最高だなって思った。
雨は好き。わたしがここにいるという実感をもたせてくれるから。
雨は好き。すべてをかき消してくれるから。
だから、雨に打たれて死んでみたいという考えに至った。
おまけに、わたしが住んでいる市と隣の市との境界線上にあるこの橋。わたしは勝手にパワースポットだと思っている。
我ながら、最期にはなかなかいい場所なんじゃないかと思う。もっとも、最善ではなかったと思うけれど。
ついでに何か歌おうかとも思ったけれど、言葉はうまく出なかった。
わたしは誰からも必要とされない。誰からも肯定されない。誰からも愛されない。
わたしもわたしなりにがんばってはみたけれど、誰も認めてくれなかった。わたしは報われなかった。
今、頬を伝った雫は、雨なのかな。それとも、涙かな。
わたしも、日の当たる場所で生きてみたかったな。
いつもは穏やかな川が、雨の影響で増水していて、流れも速くなっている。
この橋から飛び降りてしまえば、苦しむことにはなるかもしれないけれど、おそらく高確率で死ねるだろうな。
けれどわたしは、そうすることは選ばなかった。橋の上で、じっと膝を抱えて座っている。
──この期に及んで、まだ誰かを待っているのかもしれない。わたしに救いの手を差し伸べてくれる人なんて、どこにもいないのに。
数時間後、洪水した川に流されて、わたしは命を落とすんだ。
●
一様に濃い灰色の雲は、現在の時刻を不明確にしていた。
雨が激しく降っている。だけど、傘があればまだ凌げる。私は一方の傘を開いて左手に、もう一方の傘は閉じたまま右手に持ち、走り出した。
まだ間に合うはず。間に合ってほしい。これ以上雨が強くなる前に、早く。
『あまやどり』から東へ続く坂道を下る。緩やかな坂なのだけど、迂闊に足を早めると転びそうになる。
雨の中を走りながら、私は思い出す。
できることならば思い出したくない、苦い記憶だった。
クラスで孤立して、聞こえてくる話し声に懐疑的になった小学校時代。
友人に裏切られ、だけど誰も助けてくれなくて、学校が嫌になった中学時代。
私はあのとき、どんな気持ちだっただろう。私はもう一度、あのときの自分と向き合う必要がある。
今あの子の心に降っている雨は、きっとかつての私の心に降っていた雨と似ている。
あのとき私は、何が欲しかったのだろう。どうしてほしかったのだろう。
汗なのか雨なのかわからない雫が髪を伝う。体の表面に当たる空気は冷たいのに、体の内部は熱くなっていて、おかしくなりそうだ。
雨の中を走りながら、私は考える。
中学生くらいの年齢だと、小学生の頃より交友関係も行動範囲もずっと広くなるとはいえ、やはり家庭と学校が世界の大部分を占める。
彼女はずっと一人だった。彼女にはずっと居場所がなかった。
時が経ち、私は開けるのを諦めてしまった心の扉。
だけど彼女は諦めていなかった。学校にも行った。息苦しい世界の中で、それでも生きようとしていた。
風が吹く。刃物のような冷気だ。
真冬の気温と雨水の前では、コートもタイツも手袋もマフラーも、気休め程度にしかならない。
冷気に晒されている顔が痛む。傘を持つ手が凍える。 靴の中まで雨水が入り込んで、氷を履いているようだった。
生きる理由、人生の目標、一生かけて手に入れたいもの。そんな大きなものはまだ私にはない。
だけど、私でも誰かの太陽になれるのなら。
誰かの心の雨を、私が晴らすことができるなら。
顔を上げると、見覚えのない橋が見えた。これがあの子の言っていた篠月橋だろう。
あと少しだ。
雨は強くなってきている。
川のあたりでは避難が呼びかけられていたりしそうなものだったけど、少なくとも私にはそのような声はかからなかった。つくづく、私たちは見放された存在なんだな、と思った。
だけどそれでよかった。今回ばかりはありがたいとさえ思う。
川の土手を走り、橋にたどり着いた。
目の前には、こちら側の土手と対岸の土手を結ぶ一本道が伸びている。
その真ん中に、彼女はいた。
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