第7章 外待ち雨


◆ 第7章 外待ち雨



[1月16日 月曜日]


   ○


 西暦は2017年になっていた。

 2日間かけて行われたセンター試験が終わった。試験があった土日は雨が降る中試験会場に向かったのだけど、翌日は晴れていた。

 この日は、学校でセンター試験の自己採点をすることになっていた。

 発表された解答速報をもとに、各自で答案を採点。各教科の点数と全教科の合計点数、それから志望校を用紙に記入して、担任の先生に提出する。ここで提出した用紙をもとに後日先生と面談をして、最終的に受験する大学を決めることになる。


 自己採点は午前中で終わった。

 センター試験は受験のスタートライン、なんて言うけど、二日間の長丁場が終わったら気を抜きたくもなる。

 私は『あまやどり』へ行ってみることにした。12月のあの日以来だった。


 ドアを開ける。ギイ、という、扉が軋む音。いつものように、マスターが「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。やはり私とマスター以外には誰もいない。

 今日は少し長居しようかな、と思った。

 私は入口からいちばん近い席に座り、隣の席に鞄を置いた。ホットコーヒーを頼み、なんとはなしに〝交換日記〟を手に取る。

 1ページ目から順に眺めていると、「お待たせしました」と、マスターがコーヒーを運んできた。私がお礼を言うと、マスターはカウンターへ戻っていった。

 コーヒーは、熱くてあまり味を感じない。

 ページをめくって、あの子は元気にしているかな、などと考えていた。

 10月7日に私が書いたページをめくったとき、コーヒーカップを持つ手が止まった。


  10/8 (土)

  そうですか。わかりました。

  受験、がんばってください。

  わたしも、来週学校に行ってみることにします。


 思わず目を見開いた。続きを読んだ。


  10/11 (火)

  軽い気持ちで行ってみようと思ったわたしが馬鹿でした。

  始めのうちはみんな笑って話しかけてきたのですが、

  すぐにわたしを遠ざけるようになりました。

  女子からは遠巻きに汚い言葉をかけられ、

  男子からはゴミを投げられました。

  そんな中で、何事もないかのように授業は進んでいくんです。

  学校を休んでいたこと、友達づきあいができないこと、

  先生には怒られました。

  どうして、同じ年に同じ地域で生まれたからという理由だけで

  一つの狭い空間に閉じ込められなければいけないんでしょう?

  久しぶりに行った学校は、やっぱり息苦しかったです。

  わたしが変わらなきゃいけないの?

  あなたたちは変わらなくていいの?

  わたしは何も言えませんでした。

  まあ、言ったところで誰も聞いてくれなかったと思います。

  結局、わたしは給食を食べずに早退しました。

  帰るときも、靴がゴミ箱に捨てられていました。

  やっぱり学校は怖いです。

  この世界のことは、好きになれそうにないです。

  そんな自分も嫌いです。


  10/12 (水)

  こんなわたしが、生きていてもいいのかな。

  誰にも迷惑をかけずに、痛い思いをせずに死ねるなら、

  今すぐにでもそうしたい。

  死んだら優しくしてもらえるのかな。


 それから先は、ひとり言のような言葉が続いた。

 それらは等身大の叫びだった。彼女は生きていることが苦しそうだった。

 日に日に増幅していく孤独が、葛藤が、苦痛が綴られていた。自分を責めて、傷つけ、否定して、生きることを投げ出そうとしていた。

 それでもほんのわずかな希望を糧に、生きようとしているように思えた。

 嫌な予感がした。

 読みたくない。だけど読まなければいけないと思った。

 心臓の鼓動がどんどん大きくなっていくのを感じる。

 やがて空白のページがいくつか続いたあと、私が12月14日に書いた言葉が現れた。

 その隣のページには、あの子の字でこう書かれていた。


  12/15 (木)

  やっぱりそうなんですね。

  夜明けなんてないんですよね。

  わたしに朝はやってきませんでした。

  空は晴れないままでした。


  さようなら。


〝交換日記〟の記述はここで終わっていた。

 まだ確証はないのだけど、嫌な予感が当たってしまったような気がした。

 脳まで脈打っていて、頭が痛い。

 悔しかった。

 どうして気づいてあげられなかったんだろう。自分はなんてことを書いてしまったんだろう。

 先月ここに来たとき〝交換日記〟の中身をよく見なかったことを、後悔した。

 あの子はきっと、いっぱいいっぱいだったのだろう。藁にも縋る思いで『あまやどり』に来ていたのかもしれない。

 私があの子に気を許していたように、あの子も私を頼っていたのだ。


 そんなことを考えていると、私が初めて『あまやどり』に来たときにマスターが言っていた言葉が、ふと脳裏に蘇ってきた。

 ──〝交換日記〟の相手に会いたいときは言ってほしい。

 そして、私自身ではその相手には会えないらしい。

 少し迷ったけど、言ってみるしかない、と思った。

「この子に会わせてください」

 マスターは少しの間無言で私を見ると、おもむろに自身の耳を指さした。


「ところで、いつもつけているヘッドフォン、最近はつけていないようですが、どうされましたか?」


 言われて、はっとなった。

 そういえば、最近はヘッドフォンをつけていない。

 ……あれ? どうして私はヘッドフォンをつけていたんだっけ? 何かを聴いていた? 何の音を? 誰の声を? 私は何を聴いていたんだっけ?

 思い出せなかった。

 あれだけ聴いていたのに。思い出そうとすると、思考が遮られる。

 ヘッドフォンは鞄に入れっぱなしだった。音楽プレーヤーを取り出していくら操作しても、何一つデータが見つからない。

 それについて考えてはいけないような、始めから何も存在していなかったかのような、そんな気さえした。


 ……一瞬、意識がどこかに消えた気がした。


   ●


 雨の音が聞こえて、我に返る。

 テーブルの上のコーヒーも隣の席に置いた鞄も、そのまま残っている。マスターもさっきまでと同じ場所にいる。

 店内を見回してみる。テーブルを見て、椅子を見て、天井を見て、床を見た。一見、何も変わったようには見えない。

 だけど、いや、違う。私は壁にかかっていたカレンダーを見た。


 ──すべてがつながった。


 私は傘を2本借りると、鞄を店に置いて、外へ飛び出していった。

 なぜ私たちは『あまやどり』で一度も会わなかったのか。なぜあの子は存在していない橋を知っていたのか。そして、なぜ私がいつも聴いていた音楽が消えたのか。

 マスターに尋ねるまでもない。きっとこの人は、私にチャンスをくれたのだ。

 私の推測が間違っていなければ、あの子のことは、見ればすぐにわかるはず。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る