第5章 秋時雨


◆ 第5章 秋時雨



   ※


 私は学校帰りに、ときどき『あまやどり』に行くようになった。

 店内は、椅子の並びや小物の配置はおろか、常にカーテンを閉め切っているため光の当たり方もいつも同じだった。

 時間の感覚を忘れそうになる。

 変わっているのは、ノートの中身と、壁にかかっているカレンダーの日付くらいだ。


  9/9 (金)

  お返事ありがとうございます。

  高校3年生なんですね。

  受験ですか? 勉強、大変じゃないですか?

  あ、敬語じゃなくていいですよ。

  音楽は好きです。聴くのも、歌うのも好きです。

  CDがたくさん家にあって、いろんなジャンルの曲を聴きます。

  家にいるときは、よく一人で歌ってます。

  だけど、ごめんなさい。その歌手さんは知らないです……。

  そんな名前の方が実際にいるんですね! すごいです!

  今度調べて、聴いてみますね。


 この子は、あのアーティストのことは知らなかったらしい。

 まあ、デビューして1年が過ぎたばかりで知名度はまだまだこれからの歌手だから、無理もないかな、とは思う。


 2015年8月26日、彼女は『明日はきっと晴れますように』というシングルでデビューした。

 その後、1年間で3枚のシングルを発表。聴く人を惹きつける歌声や共感度の高い歌詞が話題となり、10代から20代の若者を中心に、徐々に人気を集めていった。


 相手の子は本当に音楽が好きみたいで、ときどき音楽の話題を出してきた。

 だけどこのとき以来、その人の名前が出てくることはなかった。

 私はその人以外の曲はほとんど聴かないから、残念ながら音楽の話を広げることはできなかった。自分で最初に話を振っておいてどうかと思うけど、音楽の話題は適当に流すしかなかった。


  9/11 (日)

  ほかに何か好きなものはありますか?

  わたしは雨が好きです。

  雨は目に見えて、音が聞こえて、触れて、匂いがあって、

  感じることができるから、信用できるんです。

  わたしもずっと、日陰でひっそりと生きてきたんです。

  太陽は、あまり好きではありません。

  自分の心が晴れていないときに見る他人の晴れやかな表情ほど、

  嫌になるものはないでしょう?


 この子の意見は、頷きたくなるものばかりだった。

 まるで昔どこかで会っていたかのように、未来で会うことが約束されているかのように。

 初めて見るものを懐かしく思うということがあったら、きっとこんな感覚なんだろうな、と思った。


 返事を書いた。

 私も相手にならって、その日の日付と曜日を書くことにした。少しためらったけど、相手の言葉どおり、敬語は使わないでおいた。


  9/14 (水)

  私は空が好き。

  人工的な無機物とは違って、寄り添ってくれるような感じがする。

  太陽が好きではない、というのは私もなんとなくわかる。

  だけど、太陽と仲良くなれなくても、私は

  晴れた日に見える景色は好きだった。

  夜空とか、日の出や日の入りの頃の、紫がかった空とか。


 私の言葉に、相手の子はいちいち同意や感銘を示してくれた。私のことを、この子は悪く思ってはいないみたいだった。

 こんなことを書いていたこともあった。


  9/18 (日)

  そういえばわたし、ほかにも好きなものありました。

  境界線が好きなんです。

  国境とかって、もともと何もないところに、

  人間が勝手に線を引いてるんですよね。

  なくなってしまえばいいのになって思う一方で、

  でも何らかの理由で、それは必要なもので。

  人間の考えた跡や生きた証が、そこにあるんだと思います。

 『あまやどり』を出て左手の坂を下っていくと川があるじゃないですか。

  あの川って、隣の市との境界線になってるんですよね。

  それで、たしか篠月橋しのつきばしっていう名前でしたっけ。橋が架かってますよね。

  あそこ好きで、よく行くんです。わたし的に、パワースポットです。

  たぶんわたしは、境界線上に立ったり、境界線を越えたりするのが好きなんです。


 独特の感性をもった子だな、というのが率直な感想だった。

 この文章は、街の東側を流れるあの川のことを言っているんだろう、というのはわかった。川が市の境界線になっていることは知ってる。

 だけど引っかかるところがあった。

 橋? あの川に、篠月橋という名前の橋なんて架かっていたかな?

 まあ、川の土手を歩いて確かめたわけでもないし、おそらく私の知らないところに橋の一つくらいあるんだろう。私は特に言及することはしなかった。


 この子になら、胸に溜まっているいろいろなことを吐き出すことができた。

 自分と同じような、日陰に生きる仲間を見つけた嬉しさがあったのだと思う。

 彼女は、いじめを受けるようになったこと、どこにも自分の味方がいないこと、自分が世界と交わるのが苦手らしいということを書いてくれた。

 私も、小中学校時代に周囲から孤立するようになったこと、高校に入って劣等感に苛まれるようになったこと、人の声が怖くなったことなどを打ち明けていった。

 しだいに、暗い心の内も明かすようになった。


  9/29 (木)

  わたし、ときどき、死にたいって思うことがあるんです。

  でも、死ぬのは怖いな、ひょっとすると痛いかもしれないな

  って思うと、勇気が出ないんです。

  だから、生きることをやめたい、っていうのが正確かもしれません。


  9/30 (金)

  私も、なんで生きてるのかなって思うことがある。

  なんとなく生きて、なんとなく疲れて、

  私は何をやっているんだろうって思いながら一日を終える。

  だけど死ぬまでには至らない。

  生きた証を、どこかに残していきたいのかもしれない。

  あるいは、日の当たる場所にいたいっていう気持ちがあるのかな。


 決して会うことはないし、顔も見えないのだけど、相手はたしかに存在している。そう感じた。向こうも同じことを感じていたんじゃないかと思う。

 日陰者どうし、どこかお互いに共鳴するところがあるように思えた。


『あまやどり』にはいつ行っても、いるのはマスター一人だけだった。

 彼は必要最低限の言葉しか発さないし、〝交換日記〟の内容に触れることもない。長居をしても注意してくる気配はなかったので、私は『あまやどり』で参考書を広げたこともある。案外集中できるのだ。


 ただ、一度だけ、マスターがこんなことを言ったことがあった。

「心にも雨は降るのです。空から降る雨と違い、傘で防ぐことができなければ、自然にやむこともありません」

 それは珍しく、本当に珍しく、感情のこもった人間味のある話し方だった。ほんの少しだけ、遠い目をしたように見えた。


 1カ月ほどの間、彼女との〝交換日記〟は断続的に続いた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る