二章 私ってダメなニンゲンなのかしらん?

第7話


 満月まで、後六日。


 夕暮れ時、稲城紫は人気の少ない住宅街を歩いていた。

 西の空に沈もうとしている太陽。東の空からは群青色のベールが舞い降り、蜜柑色の空を覆い隠そうとしている。春先の太陽の勢力は弱く、最後の力を振り絞って放つ残光も、何処か儚い。

 今日の紫は、躑躅ヶ丘(つつじがおか)女子高校の制服である、目の覚めるような青いブレザーに、同色のスカートを履いていた。胸にはG県の県花であり、高校のシンボルとなっているツツジの校章が付いている。本来ならば、ヒヒイロカネの織り込んである仕事服を身につけるべきなのだが、今は着替えに費やす時間さえ惜しかった。

 私服と仕事服には大きな違いがある。それは、生地に織り込んである魔法金属の有無だった。第三種生命体は、発生した時から簡易結界と呼ばれる反則的な結界を纏っている。その結界は、第三種生命体が強ければ強いほど強力な結界となる。その為、人は最初から大きなハンデキャップを背負って戦う事になる。だが、龍因子の浸透性の高い魔法金属を服に織り込む事で、簡易結界を獲得する事ができた。簡易結界を身に纏い、龍因子で肉体を強化する事により、人は漸く第三種生命体と同じ土俵に立てるのだ。

 制服を身につけている紫は、簡易結界という大きな武器を一つ失った状態だ。もし、ここで第三種生命体と遭遇したら。例え自力で勝っていたとしても、危険な勝負になる事は目に見えていた。

 昨夜、第三種生命体の消えた場所を、スマートフォンの画面に映し出された地図を頼りに歩く。民家をクリックすると、別画面が表示されて住人の家族構成や職業、年収などの個人情報が表示される。もちろん、一般には出回っていないアプリで、特別に妖魔攻撃隊から支給されたものだ。こういうのを目の当たりにすると、国家権力は侮れないと思ってしまう。

「こう見ると、怪しい人はいないわよね~」

 紫は周囲を見渡すが、不穏な龍因子はもちろん、空間の綻びや結界も見あたらない。コンビニや自動販売機すら見あたらない、絵に描いたような閑静な住宅街だった。

 方々歩き回ったあげく、紫が辿り着いたのは昨夜第三種生命体を見失ったあのアパートの前だった。

 白魚のような細い指が、スマートフォンの画面の上を滑るように動く。

「このアパートに住んでいるのは、殆どが社会人か。それで、高校生が一人……」

 紫は画面に映し出されたアパートの住民の一覧を見て、気になる人物に目を留めた。人差し指がプロフィールに触れると、画面一杯にその人物の詳細なデータが示された。

「星雲雀学園の三年生。特待生でもない彼が、アパートで一人暮らし?」

 星雲雀学園は、北関東一のマンモス校だった。学業とスポーツ両方に優れ、全国から特待生を招き入れている事でも有名だ。学校の敷地内には学生寮もあるため、県外などから来る生徒の大半はその学生寮で暮らしている。カルトと大地が星雲雀学園に通っているため、紫にとっては身近な高校と言えた。

「火野雪路……か」

 特に不思議な点は見あたらない。しかし、何故だが得心がいかない。こんな片田舎の大きいだけの学校。進学率は高いが、それでも、一流の大学に入れるのは上位のほんの一握りの生徒だけ。特待生で引っ張られたなら兎も角、一般入試で一人暮らし。家庭の事情か、それとも、もっと別の理由があるのだろうか。

「火野………雪路………」

 細い顎に手を当て、紫はもう一度確認するように呟いた時、突然横手から声が掛けられた。

「あの、俺に何か用ですか?」

「ヒャアッ!」

 驚いた紫は、手にしていたスマートフォンを放り投げてしまった。宙に浮いたスマートフォンを、お手玉をして漸く手中に収める。見ると、星雲雀学園の制服を身につけた青年が立っていた。

「あれ?」

 どこかで見た事のある顔に、紫は小首を傾げた。

「あ、君は確か、昨日俺を助けてくれたハンターの………」

 言われて、紫の脳裏に昨日助けた青年が浮かび上がった。あの時は、青い顔をして恐怖に戦いていたが、当然ながら今は至って普通だ。

「貴方が、火野雪路さん?」

「そうだけど?」

 雪路の細い瞳に、スッと警戒の色が宿るのを紫は見逃さなかった。

 白地に青、黄、緑、黒のグレンチェックのブレザーに、清楚、清潔を象徴する白いスラックス。少し長めの黒髪は整髪料でキチンと纏めてあり、面長の顔にはきつく結ばれた唇が朱色の一文字を描いている。ルックスで言えば、中の上と言ったところか。清潔そうなところがポイントが高いが、発散する雰囲気はどこか負のオーラを纏っている。人を拒絶する眼差しが気に掛かる。

「いや、あの、特に用事はないんです~。ちょっと調べ物をしていたら、偶々此処に辿り着いて」

 スカートのポケットにスマートフォンを押し込む。雪路は訝しそうに紫の様子を伺う。しかし、雪路は不意に表情を緩めると、「そうだ」と手を打った。

「君、ハンターなんだろう? 良かったら、俺の話を聞いてくれないか?」

 雪路の態度が豹変した。紫は、一瞬戸惑った物の、グイッと近づいてきた端正な顔に、思わず頬を赤く染めた。

「話って、なんですか?」

「俺はね、第三種生命体の夢を見る事があるんだ」

「夢?」

 ドクンと、紫の心臓が高鳴る。

 昨夜逃げた第三種生命体と、目の前にいる火野雪路。その二つが紫の中で繋がろうとしていた。何故そう思うのか、紫自身にも分からない。楽観的な思考。余りにもタイミングが良すぎる展開に、戸惑いながらも雪路の話に耳を傾けていた。

「俺はね、昨夜、女の人が殺された映像を、この目で見ていたんだ」

 雪路が示したのは自分の瞳。磨かれた御影石のように真っ黒に輝く瞳には、虹色メッシュが僅かに乱れた、嬉しそうに頬を緩めた紫の顔が写り込んでいた。

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