第6話



 カルト・シン・クルト。白河麟世は、コップを洗う手を休め、古代龍人の王の名を持つ青年をしげしげと見つめた。

 庇のように長い髪の下には、女性と言っても通じてしまうような、中性的で美しい美貌が隠れている。麟世の視線に気がついたのか、カルトは分厚い本から目を上げると、ニコリと笑ってコーヒーを一口啜った。

「どう? バイトは慣れた?」

「うん、お陰様でね。アルルーナの店長も優しくしてくれるし、とても働きやすいわよ。私ね、昔からこういう純喫茶でアルバイトしてみたかったんだ」

「そう、それは良かった」

 そう言って、カウンターに腰を下ろしたカルトは、再び本に目を落とした。時刻は午後十時を回っている。すでにアルルーナは閉店しており、照明もカウンターしか灯っていない。厨房では店長が明日の仕込みをしている。

 パステルカラーを基調とした店内は明るく、喫茶店と言うよりも、ファミリーレストランといった趣だ。制服であるパステルチェックのミニスカートに、シックな黒いブラウスは可愛らしく、女子高生にも人気がある。夕方には高校生や仕事帰りの社会人などで席が埋まってしまうほどだ。

 だが、閉店を迎えたアルルーナは、麟世とカルトだけの特別な空間だった。

 半年ほど前までは、彼の事を空気よりも存在の薄いクラスメイトだと思っていた。学校は休みがちで、誰とも深く付き合おうとしない。虐められているわけでもないのに、登校拒否の一歩手前。草薙大地同様、麟世はカルトの事を快く思っていなかった。しかし、それは麟世の一方的な思い込みだった。

 白河家の呪いのため、麟世はある第三種生命体に命を狙われた。その時、母親がセリスに依頼をして、派遣されてきたハンターがカルトと大地だった。二人は、本業である学業そっちのけで、バイトであるハンターの仕事をしていたのだ。学校に来たくてもこれない理由があり、人と仲良くしたくても出来ないジレンマがカルトにある事を知った。

 あの事件を切欠に、麟世とカルトの距離は急速に縮まった、と思っていたのだが、いくら麟世がそれとなく自分の気持ちを伝えても、カルトは全くの無視。いや、純粋に麟世の気持ちに気がついていないのだ。しかし、こうしてカルトは麟世のバイト先まで来てくれるし、家まで送ってくれる。決して脈が無いわけでないのだ。ただ、カルトは誰よりも臆病で、自分の領域に人を入れようとはしない。

 麟世はカルトの過去を知っているため、無理に彼の懐に入り込もうとは思わない。少しずつ、カルトが麟世を受け入れてくれるのを待つだけだ。今は麟世の片思いかも知れないが、いつかきっと両思いになれると信じている。

「所で、カルト君。ここ数日ずっと本を読んでいるけど、何をしているの? 何か、捜し物?」

「捜し物、と言えば捜し物かな。妖魔攻撃隊の依頼でさ。ただ、いくら探しても見つからなくてね。仕方ないから、捜し物を見つける方法を見つけてる」

「は?」

 コップを洗い終えた麟世は、身を乗り出してカルトの読んでいる本を覗き込む。カルトは僅かに身を逸らすと、麟世が読みやすいように本を百八十度回転させてくれた。

「これ、ハンターのライセンスを持っている麟ちゃんなら見た事あるでしょう?」

「もう、からかわないでよカルト君。私なんてCランクよ。誰だって記念に取れちゃうレベルのライセンスなんだから」

 そう言った麟世だったが、確かにカルトの言う通りだった。この本は、読んだ事はないが見た事はある。かなり有名な、あの本だ。

「これって、もしかすると『レメゲトン』?」

「正解。十五世紀から十八世紀に掛けて記された『グリモア』の一つ。レメゲトンの第一部『ゴエティア』だよ」

「ゴエティアって言うと、確か、ソロモンの霊が列挙されている、あれよね?」

「そう、そのあれだよ。ちなみに、第二部は四方の悪魔を取り扱う『テウギア・ゴエティカ』、第三部は天使と黄道十二宮を扱う『パウロの術』、第四部は『アルマデル』で邪悪な精霊を列挙しているんだ」

「どうしてカルト君が今更? ソロモンの印象の復習でもしているの?」

「そんなの復習するくらいなら、学校の勉強をするよ」

 それもそうだ。カルトはもちろん、にわかハンターの麟世でさえ、ソロモンの印象は使えるのだ。ソロモンの印象は、ソロモンの霊七二人の力を借りるものだが、印象を龍因子で描くだけで発現できるため、龍因子の操作ができる者ならば、誰でも使用できる代物なのだ。しかし、その用途は広いため、素人からカルトのような上級者でも欠かす事の出来ない魔法となっている。

「捜し物をしているって言ったでしょう? それを見つけるためにさ、こいつ等の力を借りようと思ってね」

 細くしなやかな指がゴエティアを突く。

「印象を描くだけじゃないの?」

「それなら話は早いんだけどね。普段、俺たちが使うソロモンの印象は、龍因子とあっちの世界にいる悪魔や天使の力を等価交換で使っているのは知っているよね?」

「うん、それはね。だから同じ印象でも、私が使うのとカルト君が使うのとでは、威力が雲泥の差なのよね。それに、ソロモンの印象は印象を龍因子で描くけど、紫ちゃんが使うスペルマスターのスペルは、言葉を力に変えているのよね」

「紫のスペルは、言葉に意味があって強力な力を帯びているからね。だから、長い時間を掛けて術を綴る、いや、紡がなければいけない。だから、魔法とは区別してスペルって呼ばれている。だけど、俺たちの使う魔法は、指向性のある龍因子をイメージして具現化しているだけだから、詠唱なしで発動できる。技の名前なんかを口にするのは、よりイメージを明確にするためなんだよね。ソロモンの印象は、印象を描くだけだから、どんな人物でもある一定の力を引き出す事は可能だ。逆に言えば、それ以上の事は出来ない。だけど、あちら側にいる悪魔をソロモン王のように使役してその力を行使できたら、それは恐ろしく強い魔法になるし、悪魔の持つ特別な力を使って、人の心を操ったり、知恵を得たり宝探しも出来る」

「まさか、カルト君。ソロモンの霊を使役しようって言うんじゃ?」

「そのまさかなんだよ、残念な事にね。といっても、俺はこれ以上ファミリアを持つ気はないからね。使役じゃなくて、正式な契約かな」

 カルトは深々と溜息をついた。

「契約と言っても、大変なんでしょう?」

「ああ、ソロモンの霊を召喚して、倒さないといけない。書類にサインするだけだったら、楽で良いんだけどね」

「悪魔が提示する書類にサインする方が、私は嫌な気がするけど。でも、カルト君なら楽勝でしょう? いつもみたいに、『この覇王の神剣マクシミリオンは、お前の闇と悪意を断ち切る!』なんてビシッと決めれば良いんだし♪」

 自分を守ってくれたカルトを思い出し、麟世は頬を赤く染めた。そんな麟世を見て、カルトはより深い溜息を吐き出す。

「ソロモンの霊くらい、メジャーな悪魔になると、それはもう、手に負えないくらい強い。彼らは典型的な発生発展型だからね。俺がカルト・シン・クルトの力を受け継いでいるとは言っても、所詮は人間。マクシミリオンの力だってまだまだ引き出していないしね。そもそも、万物を切り裂き、果ては時間軸さえ斬れるって言うけど、実際は相手の龍因子が強いと、そこでマクシミリオンは弾かれちゃうからね。マクシミリオンが俺の意志に合わせて斬れる対象を選別できるって言うのは、マクシミリオンが金属と龍因子の合いの子のような存在だからなんだよ。マクシミリオンが強いって言うのは、かつてのカルトが使ったからであって、俺が使ったら持ち運びに便利な良く斬れる剣でしかないんだよ」

 「と言うわけで」カルトはゴエティアの頁をパラパラと捲る。

「今回は、コイツと契約を結ぼうかと思っているんだ」

「これって、グレモリー? もっと別な、ベリアルとかアスタロトとか、そう言ったのにすれば?」

「勝てるわけないでしょう……。というか、俺の実力じゃ、アイツ等を召喚しただけで息が切れちゃうよ」

「だから、グレモリーなんだ」

「他にも理由はあるよ」

 カルトは唇を緩めてグレモリーの頁を見つめた。

 二枚目だが、どこか人を食ったような笑顔だ。こういう場合、カルトは決まってろくな事を考えていない。一見して無口そうな彼だが、自分の興味のある事には驚くほど饒舌になる。そして、クールだと思われているが、その実ユーモアに溢れている。ユーモアと言うよりも、子供っぽいといった方が良いか。まあ、この様な思いがけないギャップも、女性にとっては堪らない物なのだが。

「グレモリーはね、二六の悪魔の軍団を指揮する侯爵なんだ。過去・現在・未来について教え、隠れた財宝について語る。それに……」

「それに?」

「どうせ契約するなら、無骨な悪魔よりも、可愛い悪魔の方が良いでしょう? ラクダに乗ったエキゾチックな美女らしいよ♪」

 美女という言葉に、麟世は奥歯を噛み締める。学園で一番の美女と言われている麟世。実際には、そんな事を思った事はないのだが、カルトの口から美女という言葉が出てくると、やはり対抗意識を燃やしてしまう。それに、人間の美少女よりも、悪魔の美女を選ぶとは一体どういう事なのだろう。

「…………もう! どうなっても知らないんだからね!」

 吐き捨てるように言った麟世は、カルトが手を伸ばそうとした飲みかけのコーヒーを取り上げた。

「もう閉店です!」

 怒気を含んだ麟世の声に、厨房にいた店主がひょっこりと顔を覗かせた。

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