プロローグ だって仕方ないじゃない!
第1話
腹が減っていた。
喉が渇いていた。
喰らい尽くしても満ちる事はない。
何を飲んでも渇きは癒されない。
胸からわき起こる破壊の衝動。
真紅に燃え滾る激しい怒り。
尽き果てる事のない殺意。
沸き上がる漆黒の悪意。
目に映る物、全てを喰らいたかった。
嗅ぎ取る物、全てを破壊したかった。
本能の赴くまま、人を殺したかった。
全てが始まるのは、もう間もなくだ。
長かった雌伏の時間は、もう終わる。
目の前で人が死んでいた。
まだ若い女性だ。OLだろう。ブラウスは切り裂かれ、ピンク色のブラジャーが弱々しい月明かりの下に浮かび上がっている。そこから僅かに下、腹部には縦に裂けた裂傷があり、まだ温かい内臓が飛び出している。手足は噛み千切られたように欠けており、肉片が其所此処に散らばっている。アスファルトは血で染まり、周囲には生臭い匂いが充満していた。
ここは何処だろう。
前後左右を見渡すと、ここが見知った場所である事が分かった。
閑静な住宅地。昼はそれなりに交通量のある通りだが、夜になると、めっきり人通りが少なくなる場所だ。夜も遅いのだろう、住宅から漏れる光はどれも弱々しく、ひっそりと静まりかえっている。
犬の遠吠えが聞こえた。まるで、こちらを威嚇しているかのように聞こえる。
ああ、これは夢か。また俺は夢を見ているんだ。
こんな凄惨な事件が起こるわけはない。
ここ数週間、ずっと同じような夢を見ているな。
俺は映画でも見るかのように、夢を分析していた。
どうせこれは夢だ。何が起きても不思議ではない。
初めてこの夢を見た時、俺はこの余りにもリアルすぎる映像に、恐怖に震えて飛び起きたのを覚えている。しかし、似たような夢が二度三度と繰り返されると、流石に慣れてくる。免疫が出来るとでも言えばいいのだろうか。直視できなかった映像も、今では直視できる。周囲に気を配る事も出来るようになった。
タッタッタッタッタッタ………
どこからか足跡が聞こえてきた。
ザワリと、全身に悪寒が走った。
何かが来る。明確な意志を持って、こちらに向かって駆けてくる。
逃げなければいけない。見つかってはいけない。俺はそう思った。
まだその時ではないのだ。
何故か、俺は焦っていた。
横たわる死体を一瞥した俺は、周囲に人影がない事を確認すると、足音が聞こえるのとは逆方向に駆けだした。その時、俺は十字路の片隅にあるミラーを見た。そこには、今まで見た事のない、異形の姿の生物が写っていた。
これには俺も驚いた。だが、俺はその姿よりも、逃げる事を優先した。驚きよりも焦燥感が勝った。いや、これは恐怖か。今まで感じた事のない恐怖という感情が、俺の中に渦巻いていた。
俺は必至になって逃げた。硬いアスファルトを思い切り蹴り、住宅の屋根の上に乗る。気配は依然としてこちらを認識しているらしい。距離が徐々に縮まってきている。
俺は逃げた。
兎に角逃げた。
何とか追跡者を巻き、俺は自分の塒(ねぐら)に帰ってきた。
服を脱ぎ捨て、布団の中に潜り込む。
ミラーに映った自分の姿よりも、自分を追ってきた気配が気になった。あれは、アイツ等なのか。だとしたら、何としてもあと少しの間乗り切らなければいけない。
自分を追ってきた者。それが一体何であるか、俺には分からない。しかし、自分の命を狙う奴だと言う事は理解できた。それは、狩る者と狩られる者。自然界における弱肉強食の世界。食物連鎖の理。俺は、捕食者から一転、次の瞬間には被食者になった事を、本能で感じ取っていたのだ。
麗らかな春の日差しが降り注ぐ土曜日の昼下がり。平日でも賑わうスクランブル交差点は、土日ともなれば人でごった返す。車のクラクション、人々の喧噪、あらゆる音がない交ぜになり、日常という空間を満たし、創りだしている。
それが、今日は違っていた。
街の中に人気はなく、車もは一台も走っていない。信号が青に変わっても、スクランブル交差点を渡る人の姿は無く、車も停車しているだけで動く気配はない。
この世界から、人という存在を取り除いたような、そんな異様な空間。
デパートから流れてくるBGMを背に、一人の青年がスクランブル交差点の真ん中に立った。雲一つない青空を見上げ、眩しそうに目を細める。
ハンバーガーを囓りつつ、青年はスマホを耳に当てる。僅かなコールの後、キンキンとした声が耳に飛び込んできた。
「ちょっと、カルト! 邪魔しないでよね!」
稲城(いなぎ)紫(むらさき)は、開口一番、電話の主に怒鳴り声を浴びせた。足を止め、時の流れから隔絶された街並みを見渡す。
僅かに毛先が膨らんでいるバルーンボブには虹色メッシュが差してあり、フワフワした前髪は汗で濡れた額に張り付いている。大きな鳶色の瞳は忙しなく上下左右を動き、何かを探していた。
『早くしろよな。妖魔攻撃隊が街を封鎖していられるのも、せいぜい十分。これで失敗したら目も当てられないぜ? 俺まで先生に怒られる』
「わぁ~ってるっつーーの! アンタが邪魔しなければ、もうちょっとであのワニ頭を何とか出来たのに!」
『ワニ頭? ああ、パナルカルプを召喚したか。まったく、『妖術の暴露』が翻訳されて一般に出回るとは。しかも、素人が召喚してこの騒ぎ、世も末だわ』
電話の向こうから、声の主、カルトの溜息が聞こえてきた。そして、その後には何かを咀嚼する音が続いた。
「ちょっと! アンタ、何か食べているでしょう! 私なんてお昼抜きなのよぉ!」
カルトに怒鳴りながらも、紫は交差点を左折した黒い影を見逃さなかった。触れれば折れてしまいそうな、小枝のように細い足を懸命に動かし、障害物となっている自動車の列をハードル宜しく飛び越えていく。
一般的な尺度で見れば、紫は間違いなく可愛いと呼ばれる部類に分類されるだろう。普段は無邪気で子供のような笑顔を振りまく紫だったが、今日は違った。鬼気迫る表情の他に、他を威圧する強烈な気を小さな体から発していた。
下半身にフィットする黒いパンツに、臙脂色のジャケット。上下共にキラキラと輝いているのは、魔法金属の一つであるヒヒイロカネを糸にして、それを絹と一緒に織り込んであるからだった。
「くっっっっそ! なんでカルトや大地は簡単に敵を追い詰められるのに、私は逃がしちゃうわけぇ? 絶対におかしいわよ! 龍因子(りゆういんし)だって負けていないはずなのに!」
やけくそになった紫は、電話口のカルトに叫ぶ。
『ったく、先生がいつも口を酸っぱくして言っているだろう? 龍因子の強弱が、戦闘における絶対的な戦闘力の差にはならないって。要は使い方だよ』
「だって……!」
紫は交差点を曲がる。
三十メートルほど前方に、巨大な影が見えた。カルトが言っていた悪魔、パナルカルプ。レギナルド・スコットが言及した悪なる悪魔の一人だ。
肥大化したワニの頭が二つ。大きな鱗の映えた緑青色の体は、通常のワニとは比べものにならないほど太く、巨大だ。二足歩行をしているため、足は太いが長く、手にはナイフのように鋭く尖った爪がついていた。一見すると愚鈍そうに見えるが、動きは素早く、こうして紫と追いかけっこを続けている。
「見てなさいカルト! 今度こそ、逃がさないわ!」
携帯電話を切った紫は、額に張り付いた赤と青の髪をうざったそうに掻き上げた。
龍因子が紫の体に行き渡る。目に見えて肉体に変化はないが、膂力、脚力、耐久力、あらゆる身体能力が一時的に跳ね上がった。
ブーツの底でアスファルトを蹴り砕き、パナルカルプとの距離を一瞬にして詰める。
こちらに背を向けていたパナルカルプは一つの頭をこちらに向けたが、逃げる様子はない。紫は薄い唇に笑みを浮かべた。
「サラヒエル、ファキエル、ツァクマキエル、サンクトゥム・レグヌムの導きによりて」
紫の周囲に無数の光が出現した。スペルマスターである紫の声は、龍因子に反応し、強力な力を生み出す。発生した光は意志があるかの如く、紫の回りを飛び回る。
パナルカルプとの距離が数メートルにまで近づいた時、太い尾が大きく振り回された。紫は走る速度を緩めることなく、ヒラリと跳躍すると、轟音を上げて振り抜かれた尾を躱した。
「仇なす敵を討ち滅ぼす力を、我に与えよ!」
紫の右手に光が集約した。後は、技の名前を言えばこのスペルは完成する。しかし、紫が技の名前を口にしようとした時、視界の隅に一人の青年の姿を捕らえた。パナルカルプの正面に、一人の青年が尻餅をついていた。
一瞬にして血の気が引いた。パナルカルプは逃げるのを止めたのでもなければ、紫と戦うのを選んだのでもない。逃げ遅れた人間を殺そうと立ち止まっていたのだ。
「ダメ!」
このまま術を撃っては、パナルカルプもろとも青年を吹き飛ばす事になる。詠唱を中断した紫は、青年とパナルカルプの間に割って入った。
改めて近くで見るパナルカルプは巨大だった。身長は紫の三倍以上、優に六メートルはあるだろう。そんな巨大で異形の生物が目の前に居るというのに、紫の心は何一つ乱れていない。それどころか、漸く捕まえた獲物に喜びさえ感じていた。
唸りを上げて尾が紫に迫る。
「カーディナル!」
ポケットから取り出した一枚の布が大きく膨らんだかと思うと、一瞬にして白銀の盾へと変化した。盾を体に密着させ、腰を落とす。龍因子で強化された肉体が、紫の胴回りよりも遙かに太い尾の凪払いを受け止める。
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