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 部活動でも、趣味でも良かった。

 没頭できる存在があれば、胸の痛みは消えるはずだった。


 ぼくはその存在を見つけた。

 きっかけは美術の授業だった。  


 油絵の授業の一環として、ゴッホの星月夜を描かされた。

 ぼくは粗野で無教養の自覚があるが、絵画を観るのは好きだ。

 ゴッホもゴーギャンも、フェルメールもレンブラントも好きで、有名な絵画が載っている美術の教科書を眺めていると退屈しない。

 だから美術の授業は好きだし、得意になって星月夜を描いた。

 深い意味はなかったのだが、星月夜の青い夜空を赤色で描いた。

 三原色を混ぜて赤にオレンジ、薄い桃色を作って、空の青さを赤で塗りたくって表現した。

 上出来だと手応えがあった。コンクールとかあったら入選しちゃうんじゃないか、なんて自惚れた。

 しかし美術教師の感想は違った。


 ぼくの星月夜を見た美術教師は「ふざけるな」と怒鳴った。

「芸術に対する冒涜だ」から始まり「太田は自分勝手なことばかりして調和を乱す」と続き「なぜ先生の言うことを素直に聞けないのか」で終わった。

 クラスみんなの前で酷く怒られた。ぼくは授業態度の良い生徒ではなかったが、せいぜい授業中に寝るくらいで邪魔はしない。それに、美術の授業はサボることもなく真面目に受けていた。やったことと言えばゴッホの色彩に従わなかっただけだ。

 なぜあそこまで怒られたのか、いま考えてもわからない。


 怒られたぼくは腹を立てて、油絵具を塗りたくったキャンパスを本気で殴った。パンチで破れるだろうと思ったが、キャンパスは意外と頑丈でビクともしなかった。ただイーゼルから落ちて、そこそこ大きな音を立てた。

 ぼくはそのまま美術室を飛び出して、拳についた油絵具を石鹸で洗った。赤色が血痕のようにこびりついて簡単には落ちなかった。


 週に二度しかない美術の授業を、それからサボるようになった。

 二週間サボって、その日もクラスのみんなが美術室に移動するのを横目に眺めていた。クラスに一人になったところで、野村涼子に話しかけられた。

 

「太田くん、美術の授業出た方がいいよ」

「お前には関係ねえだろ」

「でも授業に出ないと、成績悪くなっちゃうし……高校行く時に大変だし、お母さんとかにも、怒られるんじゃない」

 野村は明らかに困っていた。


 野村は少し太った地味な女の子で、同じく目立たないタイプの女子と仲良くしていた。温厚でとろくて、いつも笑っていた印象がある。小学校も同じで一緒のクラスにもなったはずだが、話した記憶はない。そもそも小学校時代、伊吹と熱田以外の生徒とまともに話した記憶はない。

 彼女は男子に平然と話しかけられるようなタイプではなく、どちらかといえば閉じた友人関係の輪にこもるような――ぼくと同じような――人種だと思っていた。

 それがいきなり話しかけて来たのだから、少し驚いた。

 後から知ったが野村は美術部員で、顧問の美術教師に言われて渋々とぼくの説得に来たらしい。


「うるせえな。さっさと行けよ」

 一度は卒業したはずの子供じみた悪ぶりが再燃していた時期で、ずいぶん冷たい言い方をしたと思う。

 困り果てた野村は説得を諦めて美術室に行こうとしていた。去り際に、振り返って言う。

「先生はあんなこと言ったけど、わたしは太田くんの星月夜、すごく良かったと思う」

 その一言で、ぼくは野村を好きになった。


 自分でも単純だと思う。両親は息子を褒めて育てるタイプではなかったし、それまで人に褒められた経験なんてほとんどない。

 踏み固められ路傍の雪のように、ぼくの心は薄汚れて冷え切っていた。

 そんな心に、彼女の一言は突き刺さった。


 それから野村への恋慕を募らせて、気付けば授業中、彼女ばかりを見ていた。

 一度なんか、どうしても彼女の近くに居たくて美術部に入ろうか真剣に悩んだ。悩んだが、美術部にまで押しかけたら彼女にストーカーだと思われる。結局、尻込みして美術部には入らなかった。


 それでも隙あらば野村とは話すようにした。一日に一言でも会話できれば幸せで、なんとなくの憂鬱はあとかたもなく消えた。大人になる恐怖なんて一ミリも感じなかった。


 胸の痛みを消す存在は、あの頃のぼくには恋だった。

 単純だとは思う。実際ぼくは、単純な子供に過ぎなかった。

 たとえ一時しのぎでも、くすぶる痛みを消す存在を必要としていた。

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